第1話 第8章 『「隠された」事実』

 ニキータ・フロリアンは、自動推力復元装置ATRの開発で社内の評価を上げた研究員である。

 今から数年前、サテライト航空は飛行機の騒音問題を扱った訴訟の的であった。事の発端は、とある辺境の空港周辺に住まう人々が起こした空港と航空会社への抗議活動である。抗議活動によって社会的評価が堕ちることを憂いた多くの航空会社と空港はその抗議活動により提示された補償金の要求を承服したが、唯一サテライト航空のみはその要求を却下した。これにより激化したサテライト航空への抗議活動は民事訴訟へと発展したが、司法は原告側――抗議団体側の要求を棄却。サテライト航空は、法的にはこの係争の勝利者となった。

 この結果を良しとしなかったのは、抗議団体の中でも特に過激な人間たちであった。

 法的には敗北した彼らであったが、その活動は留まるところを知らなかった。航空会社への繰り返される脅迫じみた抗議文の数々に始まり、果てはパイロットへの傷害事件。こういった出来事を受けて、パイロットたちは自分たちの身を守るために自主的に騒音問題への取り組みを始めた。

 ――しかし、その内容は酷く短絡的なものだった。

「騒音が問題ならその出処を絞ってしまえば良い」という考えから飛行中、特に離着陸時にマニュアル外の推力操作を適用する者が多発し、結果として危険な飛行を繰り返すことになってしまった。このことは政府の耳にも届き、危険な飛行を繰り返す航空会社として業務改善命令を出されるにまで至ってしまった。

 法的な勝利者でありながらこういった辛酸を舐めることなってしまったサテライト航空は、社全体を率いて業務の改善――特に「離着陸時の危険な飛行」に的を絞った対策を行うことにした。その結果採用されたのが自動推力復元装置Automatic Thrust Restorationである。

 この当時ニキータ・フロリアンは第三研究室所属の主任研究員であり、社内で様々に検討されてい安全対策のうち最も経済的かつ効果的な対策法を編み出した人物である。彼の考え方は「パイロットの推力操作をソフトウェアで上書きし、危険な推力操作をカバーする」というものであり、実際に搭載されたATRの設計に最も近い設計思想だった。彼が直接ブラッシュアップを担当したATRはその年のうちにサテライト航空の保有する機材の多くに搭載され、大きな問題であった危険な離着陸はその鳴りを潜めることになった。

 このシステムの搭載にあたり、役員たちとニキータは、。通常運行時のマニュアルに記載しないことはもちろん、このシステムの影も形も一切通達することなく機材ひとつひとつにATRは搭載されていった。このシステムによりサテライト航空の業務は大幅に改善され、政府から出されていた業務改善命令も撤回されるに至った。

 ――そんなシステムの功労者であるニキータ・フロリアンは、応接室に呼び出されて事故調査委員会と名乗る青年らの詰問を受けることになっていた。

「――それで、貴方方はこのATRというシステムを導入することを決定したと」

 役員の一人からの聴取を終え、ユスティは彼の証言をそう総括した。

「え、ええ、そうです。行政の方からは危険な飛行をこれ以上繰り返さないよう釘を刺されていましたので、わが社としては――」

「そうですか」

 言い訳がましく言葉を連ねる役員の言葉を断ち切り、ユスティはそう言う。

「……それで、ニキータ・フロリアンさん。貴方がATRの開発を任されたと」

「……ええ、そうです」

 大統領麾下きかの組織であるという事を聞いて露骨に遜る役員の一人の横で、ニキータは憮然として答えた。

 彼は不満であった。社を挙げたプロジェクトに最大の功労者として貢献し、空の安全を守った彼が不時着事故の原因のひとつを作った人間として詰られているこの現場は、彼にとっては耐え難い屈辱であった。

「……ニキータさん。このシステムの開発経緯をお教え願いますか」

「隣の彼の言った通りだ。我々は業務改善命令を出され、それに従って業務を改善した。それだけだ」

「ニキータさん」

「何だね、これ以上の説明が必要だというのか!?君は公的機関の主席調査員だというじゃないか、一度で済む説明を二度三度と繰り返させるこの体たらくは一体何だね!?」

 彼の不満は、慎重を期す彼らの姿勢を非難する形で噴出した。システムの開発以降増長した彼は、他人の指摘や諫言に対して怒りを露わにするようになっていた。

「……ニキータさん、これは調査のための必要な行程です。ご理解ください」

 そう言って、ユスティに帯同していたハンナが頭を下げる。そんなハンナにも、ニキータはフンと鼻を鳴らす。

「『調査に必要』、か。くだらん」

「……ニキータ」

 あまりに不遜な態度に、役員すらその姿勢を咎める。そんな彼らの三文芝居に関知することなく、ユスティは質問を重ねた。

「……このATRというシステムは、どのようにパイロットに通達しましたか?」

「パイロットに……?ハッ、伝えるわけが無かろう。こんな事態を引き起こした張本人たちだ、そんな奴らを信用するわけにいくまい」

 そう言うと、彼は自らの理念を饒舌に語りだした。

「いいかね、技術に主体というものは存在しない。技術は人間が上手く扱ってこそ輝くのだ。しかし残念ながら、人間というのは根本的に愚かだ。人間は多分にミスをするし、誤った判断にも気付かない。そんな輩を信用したシステムを設計してみろ、世界中の至るところで飛行機はポンポン落ちてしまう。そんな人間の愚かしさにワンクッションを置いて人命を救う余地を作る、それが私の開発したATRの真髄だ。このシステムにより、一体いくつの人命が救われたと思う。ん?飛行機一機あたり百数人、一日の便数は少なく見積もっても百と余り。一日あたりざっと数万人の命を、私の作ったシステムが救っているのだぞ。フェイルセーフ、フールプルーフは機械設計の基本だ。そんなものも知らず君たちは事故の調査をしているのかね?全く、底の知れた奴らだ。これならば私が一人で事故の調査をする方がまだマシ――」


 ――みしり、と何かが軋む音がした。

 ――ユスティの握るペンからだ。


「……詭弁は、もう結構です」

 彼の言った言葉をひとひらもメモすることなく、ユスティは真っすぐニキータを見据える。その剣幕に、ニキータは思わず身じろぎした。

「……あなたは、人間を『愚か』だと言いました。成程、それは私も同意するところです。機械の事故は大半が人間を操作を誤って起こったものです、それらを無視して人間を『愚かでない』とは私には言えません」

「だろう?だったら――」

「ですが」

 口を開きかけたニキータの機先を制し、ユスティは端的に自らの思う所を述べた。


「――


 彼の隣に座るハンナは、彼の言葉に込められた感情を読み取って思わず身震いした。普段はどんな感情をもたたえているように感じられるその表情は、今は明確なる怒りに染まっていた。

 年端もいかぬ青年の物言いに言葉を押し込められたニキータは、反論することもできずただ絶句していた。

「……失礼。ニキータさん、続きをお願いします」

「あ?あ、ああ」

 ユスティに圧倒されていたという事実を咳払い一つで誤魔化したニキータは、次々に繰り出されるユスティの質問に答えていった。そのいらえは、先ほどよりもいくらか素直な語調で語られていった。



「……やっぱり、パイロットには存在を知られていなかったシステムなんだね」

「ああ。きっかけはやはり騒音問題に端を発していたらしい」

 その日の午後。裏取りの調査を終えた委員会の面々は、報告会のため委員会本部に集合していた。その場には、昨日に引き続いてジャックとテオドラの姿もあった。

「……しっかし、推力の操作を勝手にする装置ねぇ……よく考えたもんだ」

「効果的なシステムであるのは俺も認める。問題は、その導入がパイロットに知らされずに行われたことだ」

 実際のところ、ATRというシステムはフールプルーフ――人間のミスを補うシステムとしては効果的なものであった。発生しないよう心掛けてもどこかで発生してしまうミスをカバーするという意味では、その効果は不足のないものだった。

「やっぱりそこよね……エンジンサージングとの因果関係はまだ未立証だけど、サージングを深刻化させた原因としては最有力候補だし。何よりその上書きオーバーライドの方法どころか作動を示す明確なインジケータすらなかったっていうのは大問題よね」

「そうだね……そこだけでも十分指摘するに足るよ……今回じゃなくても、いつかは重大な事故に繋がっていた筈だ」

 ユスティの言葉に、事故調の面々は同意する。

「作業員への聴取はどうだった?」

 自分の報告を終えたユスティは、作業員たちへの事情聴取を行っていたジャックらに報告を求める。テオドラが報告を面倒臭がったため、ジャックが証言を纏めた資料を配り報告をする。

「ATRっつー装置については、点検を担当する作業員は認知していたみたいだ。現場責任者と監督者も同様。……つまり、機体の事を把握できる人間でこのシステムを知らなかったのはパイロットたちだけってこった」

「そうか。作業員は、パイロットたちにこの装置の事が知らされていないことは知らなかったんだな?」

 ユスティの質問に、今度は葵が答える。

「そうみたいだ。点検用のマニュアルを見てきたけど、ATRとそれに関する項目は確り載ってたよ。レギュレータを使った二段階の燃料流量の調整も含めてね」

 ジャックらの言葉と報告資料に、ユスティは頷く。

「これで、あとはエンジンの破壊とこのシステムの介入が一致するかどうかだな」

 その言葉を発すると同時、会議室のドアがバンと開かれた。

「ごめん、遅れた!」

「アイリか」

 上着も脱がず会議室に入ってきたアイリは、その手にある資料を直接一人一人に渡し、自らの調査結果の報告を始める。

「ユスティの言ってたシステムの仕様とエンジンの破壊の痕跡を照合した結果、やっぱりそのシステムによって破壊が深刻化した可能性は高いわ。ATRは特定の条件下でエンジン出力が一定値を下回ると自動でスロットルを操作してパワーを上げる仕組みなんだけど、事故当時のエンジン出力の増加率とATRの操作による出力増加率は概ね一致。エンジンの破壊の規模から計算される外力による角加速度とも一致するし、このシステムがエンジンを深刻に破壊した原因のひとつであることは十分考えらえるわ」

「偶発的に調圧器レギュレータが操作されて推力が変動してしまった可能性は?」

 結論ありきで考えないユスティの慎重な質問にも、アイリはきっぱりと答える。

「低いわ。レギュレータの内部も分析してみたけど、外的な要因でレギュレータ内の弁が操作された痕跡は無かったわ」

「そっか。……これで、概ね事故の全容は見えたね」

 そうだな、とユスティ。

「……一応、事故の過程を確認しよう。前日の飛行で機体に分厚く着氷していた事故機は、離陸前に除氷を行う。この時地上作業員の不適切なチェックにより機体翼面への着氷が見逃される。この氷は離陸時に両エンジンに吸い込まれ、これが原因でサージングが発生する。これを受けたパイロットはエンジン出力を下げるが、これを不適切な動作と見做したシステムが介入、エンジン出力を増大させてしまいエンジンの破壊が深刻化。システムの存在を知らなかったパイロットはこの事態に対処できず、不時着を余儀なくされる。……これで相違無いな?」

 ユスティはその場にいる全員を見回し、その反応を伺う。全員から肯定的な反応を得たユスティは、以降の捜査方針を宣言する。

「合理的な説明のつく可能性が浮上したとはいえ、これはあくまで可能性だ。これ以外の可能性も徹底的に検証し、その悉くが否定されるまで気は抜くな。いいな」

 その宣言に、一同は頷く。

「……よし。では今回の報告会はこれで以上だ。解散」



 その後数日の捜査を経て、考え得るほぼ全ての可能性は検証された。

 捜査も佳境に入った調査委員会の面々は、各々に最終報告書の纏めに入っていた。

 そんな中、深夜、委員会本部にて。アイリは薄暗い建物の中を一人歩いていた。目的地はユスティの部屋だった。

 いつもの通り明かりの漏れている一室の前に辿り着いたアイリは、一瞬の逡巡の後ドアをノックした。

「……アイリか。どうしたんだ?こんな夜更けに」

「うん、ちょっとね……入っていい?」

「ああ、構わない。――相変わらず散らかっているがな」

 そう言うと、ユスティはドアから一歩身を引いた。その先は、以前とは違い全く片付けがされていない様子だった。

「ありがと。外、相変わらず寒くてさ。――コーヒー淹れようか?」

「助かる」

 アイリは荷物を置き、部屋の片隅にある電気ケトルのスイッチを入れる。小さな唸り声と共に水を加熱し始める健気な機械を眺めつつ、アイリはここに来た目的を明かした。

「実は、相談したいことがあってさ」

「……以前にもこんな事があったな」

「そうね。その時と似たような話だわ。……この後時間ある?ちょっと付き合ってよ」

「構わないが……少し待ってくれ。報告書をキリの良い所まで仕上げたい」

「ええ、分かったわ。……にしても、ユスティってよく頑張るわね。よく体力持つなぁって思うわ」

「こういう調査は長い事やっているからな。初めの頃は疲労困憊だったが、今となっては流石に慣れた」

「初めての航空機事故の調査から十何年だものね。よくやるわ」

 アイリは手足を投げ出し、ソファへともたれかかる。

「……ユスティがこの仕事を続けるモチベーションって何?」

「……随分急な話だな」

「いいじゃない。現実はいつだって唐突よ」

「そうかもしれないが……」

 ユスティは報告書を書く手を一旦止める。ユスティもまた椅子の背もたれに体を預け、天井を仰いで自らの心の内を探る。

「……そういえば、考えたことが無かったな。今更他の事を出来ないというマイナス志向な考えなのか、はたまた積極的に空の安全を守っていきたいという考えなのか……」

「意外ね。ユスティって、もっと確たるイメージのうえ行動する人間だと思ってた」

「調査の時はそうだ。……だが、自分の行動原理となると、無意識の部分も多い」

「自分のことは自分が一番分からない、ってやつかしら?」

「そうかもしれない。事故調査を始めたきっかけについてはよく覚えているが、その後はよく分からない。実のところ、惰性でこの仕事をしているのかもな」

「それでもいいじゃない。続いてるんだもの」

 そうかもな、とユスティ。

 ユスティがそう言うとほぼ同時に、電気ケトルがかちりと音を立てた。水が沸騰した合図だ。

「……随分早くお湯が沸かせるのね。便利だわ、これ」

「『遺産』さまさまだな。売っている店を教えよう」

「助かるわ。……コーヒー、淹れてくるわね」

「ああ。頼んだ」

 そう言うとアイリはソファから立ち、ケトルのある棚を探る。アイリの後ろ姿を眺めながら、ユスティはぼんやりと自分の心の内を探り続けた。



 アイリに連れてこられたのは、ラエヴネ市内にある小さなバーだった。アイリは勝手知ったる様子でカウンター席につく。

「ユスティも何か頼みなさいよ。成人してる飲めるんでしょ?」

 アイリはユスティに着席を促す。ユスティはそれに従い、アイリの隣入り口側に座った。

「エル ディアブロ」

「ジントニックを」

 彼らの注文を受け、バーテンがビルド用のグラスを取り出す。

「渋い注文するのね。飲み慣れたクチかしら」

「そういうわけではない。……単に飲んだことのある酒が少ないだけだ」

「あら、そうなの」

 ユスティの応えに、アイリはころころと笑う。その笑い方は、普段のアイリとは印象を異にするものだった。

 暫しの談笑の後、二人の前にグラスが差し出された。

「ありがとう。……ほら、乾杯しましょ。調査も佳境なんだし、少し気を緩めても構わないじゃない?」

 そう言うとアイリはグラスをユスティの方に差し出す。ユスティはそれに倣い、彼の手元にあるグラスをアイリのそれに触れさせた。

 かちん、と小さな音が響く。その音を、アイリは満足そうに聞いていた。

「……ふう、美味しい。たまにはお酒も良いものね」

「酒はあまり飲まないのか?」

「ええ。アルコールに酔うっていう感覚が得意じゃないのよ。でも、たまにこうやってお酒を飲みにふらっと出かけたりする。……人間って分からないものね」

 そう言いながら、アイリは次の一口を呷る。ユスティも自分のグラスを傾け、その中身を口に含む。

「煙草、吸ってもいいかしら」

「構わない。……煙草を吸うのか、意外だな」

「臭いには気を遣ってるからね。たまにしか吸わないっていうのもあるけど」

 鞄から煙草とオイルライターを取り出すと、アイリは煙草に火をつけ軽く噴かす。

「ジャックに聞いたわよ。ユスティも煙草吸うみたいじゃない」

「俺も稀に吸うだけだ。捜査に行き詰った時等の気分転換だ」

 そうなの、とアイリ。

「ユスティもどうぞ。……ま、無理強いはしないけどね」

 アイリは自分の持つ煙草の箱をユスティの方に突き出す。

「……いや、遠慮しておこう。これ以上女性の馳走になるのは居心地が悪い」

「あら、そう。……気にしなくていいのに」

「俺の気が済まないというだけだ」

「堅いのね」

 アイリのその評価に、ユスティは以前テオドラに言われた言葉を思い出した。彼とて堅物に育つつもりは無かったのだが、他人がそう彼をそう評するのであれば仕方がないと、ユスティはそう思っていた。

 暫くの間、二人の間には沈黙が流れた。彼女は「相談がある」と言ってユスティを連れ出していたのだが、ユスティは話題を催促することはせず、彼女と同様グラスを静かに傾けるだけだった。

 ここに来て何分経ったか、アイリはおもむろに口を開いた。

「……私ってさ、委員会の外部協力者なわけじゃない」

「そうだな」

「……で、この事故が終わったら私もその立場は終わり。そうでしょう?」

「……そうだな」

 グラスをくるくると回しながら、アイリは憂いを帯びた目でユスティに問う。

「……私ってさ、この後どうしたらいいのかな」

「……どう、とは?」

「そのままの意味よ。……私の立場は、今のままではこれっきり。この調査が終わっちゃえば、私は大学に逆戻り。……私、これでいいのかなって思っちゃってさ」

 くい、とグラスを呷り、アイリは天を仰ぐ。

「……それは」

「私にしか決められない事、でしょう。……分かってるわよ。分かってるからこそ、こうやって迷ってるんじゃない」

 言葉を発しかけたユスティの機先を制してアイリはそう言う。酔いが回ってきたのか、その瞳はとろんと蕩けていた。

「……ホント、分かってるのよ。私の心のうちはもう大体決まってるし、自分のやりたいことは見つめなおせてる。今回の調査を通して、私がこれから選ぶ道は大体見えてるのよ」

「それで尚、何を迷うことがある?」

「……自分に対して甘くていいのか……ってことよ」

 残り少なくなったグラスをぐいと傾け、中身を飲み干す。紅の残滓を湛えるグラスをトンと置き、アイリはカウンターに肘をつく。

「……私ね、ユスティを間近で見るために事故の調査に参加してたんだ」

「…………ほう」

「私は元々魔法の研究を仕事にしたかったんだけど、それが上手くいかなくなっちゃってさ。何をしていいか分からなくて、迷って、苦しんで。……そんな中に今回の事故。『ああ、私の人生はこんなもんか』。そう思ったわ」

 ユスティはその言葉の先を黙って促す。

「……でも、そんな中にユスティが現れた。私より年下なのに、私より確りと何かを見据えてる。……私にとっては、あなたは眩しかったわ」

「それは光栄だな」

「もっと誇っていいのよ。……で、事故調査に参加してユスティのことを間近で見れば、私も何か掴めるかなって思ったのよ。私の人生を決める何かが。……ラスティネイル」

 次の一杯を注文したアイリは、ぐったりと顔を伏せる。

「アイリの探すそれは見つからなかったのか?」

「さっきも言ったじゃない。もう見つかってるのよ」

 アイリは注文のグラスを受け取り、顔だけでユスティを見る。その顔は紅潮していた。

「……私、ユスティと一緒に仕事してたいのよ。ユスティのしている仕事が厳しくて難しいものだっていうのは身を以て知ったけど、それでも私はユスティと一緒にいたい。……でも、その道理が無いのよ。大学に籍を置く私が、『魔法』を究めたいって思ってこの道を選んだ私がそれを擲ってでもユスティの隣にいていい理由が」

「……『道理』か」

「そう、道理。全く、こんなんじゃ両親の墓前に顔向けできないわ……」

 再び顔を伏せ、そう嘆く彼女。ユスティにとって、その嘆きは理解出来ないものだった。

「『道理』というものは、そんなに大事なものなのか?」

「少なくとも私にとってはそう。理由があるから中等教育ミドルから先に進んだし、理由があるから大学の研究室に居続けた。……でも、ユスティと一緒にいて良い道理は無い。そこが、私の迷いなのよ」

 彼女の言う「迷い」とは「自らの誓いを覆す覚悟」の事であった。彼女は自らの両親を誇りに思い、自分を育ててくれた人間に感謝しているからこそ、それらの呪縛から逃れられなくなっているのであった。

 そんな彼女の迷いを前に、ユスティはかけるべき言葉を失っていた。

「……俺には分からないな。俺にはアイリのように操を立てるべき相手が居なかったし、自分の行いに迷いは無かった。……だから、俺にはアイリの迷いは分からない」

「そっか……そうよねぇ……」

 アイリは顔も上げないまま、そう呟いた。まるで何かに失望するかのような、何かに縋っていたかのような、そんな響きの呟きだった。

 少しの沈黙の後、次に口を開いたのはユスティだった。

「……助けになれるかは分からないが、アイリに合わせたい人がいる。明日、時間はあるか?」

「明日?……いつでも空けるわよ、ユスティの頼みなら」

「それは助かる。……場所と時間はこのメモの通りだ。その気があるのなら、明日この場所へ来てくれ」

「あーい……分かったわぁ」

 明らかに酔いが回った様子で、アイリはそう言う。そんなアイリの様子に、ユスティは不安を駆り立てられた。

「……帰りは送ろう。気が済んだら言ってくれ」

「りょうかーい……お酒、おいしい~……」

「頼むからしっかりしてくれ……」

 先ほどまでの憂いは何処へやら、アイリはすっかり出来上がった様子でグラスを傾けていた。

 ――この後、ユスティが開放されるのは夜明け手前になってからだった。



「わーーーーっっっっ!!!!バカバカバカバカバカぁぁぁぁー!!!!!」

 翌日。アイリはベッドの上で、昨夜の自分の醜態を思い出して絶叫していた。

「何よ私、バカなのバカなのよねバカでしたわねェェ!!!今度はしっかり酒に酔って『私、ユスティと一緒にいたいんだ』って、バカじゃないのォォォォォォ!!!???いやそれ本心ではあるんだけど、何でそれ本人を前にして言っちゃうのかな私ィィィィ!?!!?」

 昨夜の記憶は定かではないが、恐らくだいぶ酷い有様を見せつけていたような気がする。たまに通うバーでべろべろに酔い、『憧れ』ている人間に絡みに絡んで朝帰り。しかもコートを着たまま服が大きくはだけ、手元にはユスティのものと思しき手袋。ユスティに対し相当な痴態を見せていたことは想像に難くなかった。

「うううう、しかも今日はユスティに呼ばれてる日じゃない……全く、合わせる顔が無いわ……」

 一先ず皺だらけになった服を脱ぎ、アイリはシャワーを浴びることにした。二日酔いで痛む頭を抑えながら、服を放り出して浴室へと向かった。

「えっ、何このアザ!?何でこんなトコにあるの!!?記憶にない記憶にない、え、ウソよね!?何したのあたしィ!!?」

 一人でぎゃいぎゃいと騒ぎながら、アイリは身支度を整えていく。ユスティとの待ち合わせまで約一時間半。それまでの間にこなすべき準備が、アイリの前には山のように積み上がっていた。



「ぜぇ……ぜぇ……間に合った……」

 ダッシュと電車とダッシュを乗り継いで約三十分、アイリはユスティとの集合場所に息も絶え絶えになりながら辿り着いていた。

「……確かに時間内ではあるが、そこまで無理して来てもらわなくてもよかったのだが……」

「ィイ!?」

 無様な恰好で息を整えるアイリの背後から、いつぞやのようにユスティが話しかけてきた。丁度息を詰まらせかけていたアイリは、その驚きでこれまた無様な喘ぎを上げることになった。

「……早めの時間を指定しておいたのが仇になったな。どうやら無理をさせたようだ。すまない」

 そんなアイリの様子を指摘することもなく、ユスティはただ頭を下げた。ユスティのその対応に、アイリは一方的に恥ずかしさを募らせることになった。

「いやホント、私が一方的に悪いのよ……だから頭下げないで……私がバカみたいだから……ホントお願い……」

「……そうか」

 尋常ならざるアイリの様子に、ユスティは大人しく従わざるを得なかった。――そうでもしなければ、アイリはこの場から逃げ出してしまいそうな様子だった。

「……その様子だと、昨夜の記憶は無いようだな」

「……ええ、お恥ずかしながら」

「なら、その方が好都合だろう。人間、忘れていた方が精神衛生上良い事もある」

「え、何それ、ちょっとユスティ、ねえってば、無視しないでユスティお願いこっち見て!!?」

 どうやら余計な事を言ったらしい事を悟ったユスティは、アイリの言葉を敢えて無視して建物へ入る。

 彼らがいるのはラエヴネ市中央庁舎。目的地はその最上階、「大統領執務室」と書かれた部屋だった。



 エレベーターを三つ乗り継ぎ四つの受付を経て、ユスティとアイリは中央庁舎の中でも一際大きな部屋へと繋がる廊下を歩いていた。周囲の様子を一切気に留めず庁舎の中を歩いていくユスティの背後を、アイリは居心地悪そうにしながらついて行く。

「……ねぇユスティ、ホントにここで合ってるの……?何だか私場違いな感じがするんだけど……」

「大丈夫だ。もうすぐ着く」

 アイリの質問には深く取り合わず、ユスティは廊下を突き進む。その歩みの先は廊下の突き当り、廊下の手前からも見えていた大きな部屋に向かっていた。

 その部屋の前に辿り着いたユスティは、躊躇うでもなくおもむろにドアをノックする。

「入れ」

 そんな声が響いたのは、ユスティがドアをノックした直後だった。

「失礼します」

「し、失礼します……」

 重い木製のドアを開き、ユスティは迷わずその奥へと進む。遠慮がちにドアを閉めたアイリは、少し遅れてその後ろをついて行く。

「暫定の報告書をお持ちしました」

「ご苦労。……大統領」

 ユスティは手に持っていた資料を机の傍らに立つ老人へと手渡す。その中身を素早く検分した老人は、その奥に佇む大男へと渡した。

「ご苦労だった、ユスティ・アレクシーウ」

「ありがとうございます」

「大統領」と呼ばれたその男は老人の声に振り返り、ユスティの名を呼んで労いの声をかけた。

「少し見ない間にまた大きくなったんじゃあないか?ユスティ」

「お蔭様で……身長の方は変わっておりませんが」

「そうかそうか。そんじゃあ、アレだな。男として大きくなったって事だな」

「……恐縮です」

 ユスティに対し、その大男はフレンドリーに笑いかける。それとは対照的に、ユスティは畏まった様子で応対していた。老人の呼んだ名前から察するに――それ以前に部屋の名前で明らかだったが――、その大男はラエヴネ都市連合大統領。ラエヴネ市とその衛星都市からなる国家を束ねる、カリアス・アウグストゥスその人だった。

「どうだ、今回の事故は。お前をして随分苦戦させたようだが、そんなに入り組んだ事故だったのか?」

「入り組んだ、というほど複雑な事故ではありませんでしたが、真相の見えにくい事故でしたので……様々ある可能性からひとつの可能性に絞り切れませんでした」

「そうなのか。……ふむ、これは厄介な事故だったな。ご苦労だった」

「ありがとうございます」

 カリアスとユスティは、どこか親しさを感じさせる様子でそうやりとりする。カリアスにとってユスティは旧知の存在であるらしく、ユスティの捜査手腕を良く知っているようだった。

 カリアスとユスティの会話は、アイリについての物へと移った。

「で、そちらの方は?」

「今回の事故の調査にあたり、協力をして下さった魔法学の専門家です」

「シュルヴィア・アイリ・サルメライネンです。……初めまして」

 アイリにとって、国家元首クラスの人間と相対するのは初めての経験だった。数ある挨拶の言葉を検討しては破棄し、最終的に出てきたのは当たり障りのないありふれた挨拶だった。

 そんなアイリの様子を気にすることもなく、カリアスは快活に笑って応じた。

「初めまして。貴女の活躍ぶりはユスティから聞いているよ」

「光栄です」

 どうやら今回の事故調査に際してはユスティとカリアスは幾度か言葉を交わしているらしく、アイリの名前を聞いても返答に詰まることなくカリアスは応えた。そんなカリアスの様子を見て、アイリは「ユスティってホントに大統領直属の機関の人間なんだな」とぼんやり思った。

「で、彼女を此処に連れてきた理由は?」

「はい。……実は、彼女を航空事故調査委員会のアドバイザーのポストに紹介しようと思いまして」

 ユスティの言葉は、アイリにとって多分に衝撃だった。アイリは朧げな昨夜の記憶から、ユスティに対して「ユスティと共に仕事がしたい」と語っていたことを思い出す。まさかその告白に対する回答がこういった形で成されるとは、アイリにとっては想定外もいいところだった。

「え、ちょっとユスティ……いいの?勝手にそんな事決めちゃって」

「勝手も何も、事故調査委員会は俺の組織だ。それに、だからこそこうやって上司に話を通しに来たんだろう」

「上司って……」

 確かに、ユスティにとっての上司は大統領ただの一人である。人事権の存在は定かではないが、ユスティがそのことについて一枚たりとも噛めていないとは考えにくかった。

「ハッハッハ、構わんぞ。お前の言う通り、委員会はお前の組織だ。好きにするといい」

「ありがとうございます。では、そのように」

「おう。大学には俺の方から話を通しておく。――源三郎」

 そう言うと、カリアスの傍らにいた老人がメモを取る。スケジュールやToDoリストの管理は彼が行っているのだろう。

 あれよあれよという間に自らの進路が決まってしまったアイリは、呆然としてその行く末を眺めることしか出来なかった。

「すまないな、アイリさん。勝手に貴女の進路を決めることになってしまって」

「あ、いえ、それに関しては大丈夫です……ただ、大学に置いてある籍はどうしたらいいのかなって」

「それはアイリの好きにすると良い。何せ大統領閣下からの直令だ、大学も蔑ろにできんさ」

「そ、そう……」

 目の前で行使される「権力」というまだ見ぬ力に、アイリは圧倒されていた。

 カリアスはその視線をアイリへと向け、深々と頭を下げた。

「アイリさん――いや、サルメライネンさん。此度は我々への助力、感謝します。貴女の力なしには、今回の事故の全容は見えなかった」

 そんなカリアスの様子にアイリは困惑し、あたふたと手を振りながら応えた。

「いえ、事故の調査はユスティたちの力あってのものです。私としては、ただ出来る事をしたまでです」

 そのアイリの言葉に、カリアスは下げていた頭を上げる。

「そう言って頂けると光栄です」

「俺からも礼を言う。……本当に助かった」

 カリアスに倣い、ユスティも頭を下げる。見知った顔が改まって頭を下げるその様子に、アイリはむず痒くなった。

「もう、ユスティも気にしなくていいのよ。……それに、助かったのは私の方。こうやって私の願いを叶えてもらっちゃったし、この道を示してくれたのはユスティの方。だから、お礼を言うのは私の方。……ありがとうね」

「こちらこそ。……これからも、宜しく頼む」

「……うん」

 ユスティのその言葉に、アイリはまたもやむず痒い気分を味わうことになった。そんな彼女に助け舟を出したのはカリアスだった。

「うんうん、若いっていいなァ」

「からかうな、カリアス」

「そうですよ。大統領だってまだ若いでしょうに」

「……そういう話ではないんだ、ユスティ」

「源三郎」と呼ばれた老人とも親しげに言葉を交わすユスティ。この三人はどうやって知り合ったのか、興味が尽きないアイリであった。



「今日はありがとうね、ユスティ」

 大統領への報告も終え、帰り道。アイリは唐突にそんな事を言い始めた。

「いや、構わない。俺たちも、アイリのような人材を欲していたところだ」

 ユスティは大統領から受け取った新たな辞令を眺め、ユスティはそう呟く。魔動航空機が空を席捲しつつある今、アイリのような魔法学に精通した人間は彼らにとって必要な人材であることは間違いなかった。アイリが事故の調査に熱心に協力してくれていることも踏まえ、アイリのアドバイザーとしての採用はユスティらにとって大きな前進であった。

「……にしても、私が航空機事故の調査をすることになるのか……何か因果めいたものを感じるわね」

「因果……か。そうだな。こういった業界に入る機会は多くない。そんな中で俺たちのような人間がこの業界に多く入ってくるのは、ある意味必然的なことなんだろうな」

「こういう仕事は世間的な評価だったり華やかさがあるわけじゃないものね。何か強い動機がある人じゃないとこういう仕事に興味を持つことは無さそうだわ」

「違いない。……その点、俺はアイリがいてくれて良かったと思っている」

「……何よ、急に」

「アイリのような優秀な人材が我々の仕事に興味を持ってくれて、俺たちとしては非常にありがたい。今後どんな事故が起こるかは分からないが、その時も俺たちに力を貸してくれ」

「何よ、今更。もう私の立場は決まったようなもんじゃない」

「そうだったな。……今後とも、宜しく頼む」

「こちらこそ」

 そう言うと、彼らは改めて握手をした。その握手は今までの苦労を労う感謝の意であり、将来にかけて履行される契約の象形でもあった。



 ――『魔動航空機事故調査委員会』。ユスティの手にある辞令には、事故調査員会を国際的な調査機関として新たに再発足させる旨が記されていた。

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