第1話 第6章 『ヒューマン オア メカニカル』
「うう~相変わらず寒いなぁ……」
冷え込むラエヴネ市街を、アイリは一人早足で歩いていた。目指す先は事故調本部。すっかり日も暮れてしまっているため人がいるかは怪しいところだが、帰りがけに寄れる距離にあったので用事を消化すべく向かっていた。
ユスティから貰った身分証を守衛に見せ、ゲートを通って建物へと入る。委員会の人数の割に大きな建物は日が暮れると一層不気味な雰囲気で、アイリは寒さとは別の理由で身震いをした。
薄暗い廊下を進んで行くと、部屋の一つから明かりが漏れているのが見えた。委員会の誰かが残って作業をしているのだろうか。委員会のメンバーに用事があったアイリは人の気配がある部屋に向かってノックした。
「……アイリか」
ノックの音に応じて出てきたのはユスティだった。スリーピースの上着を脱いでベストとシャツの装いをしているユスティは、アイリの目には新鮮に映った。
「ちょっと聞きたいことがあって。入っていい?」
「構わないが、少し散らかっている。少し待ってくれ」
そう言ってユスティは引っ込んだ。何だか歳ごろの女の子みたいだな、と思ったアイリは扉の前でクスッと笑った。
数分の間の後、ユスティは扉を開けてアイリを招き入れた。
「すまない、待たせた。入ってくれ」
「お邪魔します」
ユスティに従ってアイリは扉をくぐった。この部屋はどうやらユスティのパーソナルスペースらしく、やや大きめのデスクとローテーブルが一つずつ、応接用のソファが一対、その他には書類や資料を仕舞うキャビネットがあるだけだった。
アイリは一対あるソファのうちデスクに近い方に腰かけ、興味深そうに部屋を見回した。
「へぇ、『散らかってる』っていうからもっと書類とかが山になってるのかと思った」
「実際のところさっきまでそうだった。物量の多いデータの検証をしていたから、そっちの机の方まで書類が積まれていた」
よく見ると、キャビネットの中に無造作に収納された書類があるのが見えた。アイリの位置からはよく見えないが、何やらグラフが書いてあるのは見えた。
「頑張って片付けたんだ。凄いね」
「片付けは生活の基本だろう……?」
片付けひとつに過剰な反応をされたユスティは困惑の声を上げた。口ぶりから察するに嫌味の類ではないと理解できたが、それ故に本心からの賛辞にユスティは当惑するばかりだった。そんなユスティの様子には気付かず、アイリは部屋の中を見回すばかりだった。
「……それで、用件は?」
ユスティは自分の疑問を一旦捨て置き、アイリの来訪の理由を尋ねた。今の時刻は二十一時半、女性が一人で出歩くには少し遅い時間だ。そんな中訪れたアイリには何かしら重要な用事があるのだろうとユスティは考えたのだ。
「地上の作業で見つかった破片を見せてもらいに来たの。この前警察の人に聞いたら、破片の一部はここにあるって言われたから」
「それならこの扉の先にある部屋だ。ネームプレートの無い部屋のうち右側が倉庫になっている」
ユスティは、アイリが今入ってきたのとは違う扉を指差す。どうやらこの先にもスペースがあるらしい。
「……しかし、どうして機体の残骸を?エンジンの部品だけは抜き出して送っている筈だが」
「少し欠けている部品があってね。地上の作業で見つかっていて他の部品に紛れてたりしないかなと思って見に来たの」
そう言うとアイリは持参した資料を見せる。
「……アイテール
アイリの資料に載っていたのは、魔動航空機の燃料にあたる「アイテール」を供給する装置の一部だった。このレギュレータにはアイテール供給の圧力を一定にする機能があり、魔動機関の安定稼働には欠かせない部品だった。
「そ。この部品は機体側に搭載されてたからエンジン部品として分類されなかったのかなーと思って見に来たの。機体の燃料供給系統も魔動機関の一部だし、私の専門分野でしょ?」
「そうだな、助かる。……科捜研には行ったのか?」
「まだ。時間も時間だし、帰り道に近いこっちだけ寄ってみようと思ったの」
そう言われたユスティは、少し驚いたような様子で時計を見た。
「……もうこんな時間か」
「作業に熱中してたのね。もう結構遅い時間よ」
資料を手繰る手を止めたユスティは立ち上がり、背筋を伸ばした。
「ユスティはもう夕飯食べた?」
「まだだ。今日の報告会を終えてそのまま作業に入ったから、食べそびれている」
そっか、とアイリ。
「じゃあこの後一緒にどう?私もまだなんだ」
「構わないが……何か聞きたいことでもあるのか?」
真顔でそう返すユスティ。彼にとって、アイリとの食事は「話を聞かせるための場」と認識されているらしい。
「そういうわけじゃないけど……ただタイミングが合ったから提案してみただけ」
首を傾げるユスティに、アイリは唇を尖らせてみせる。アイリもユスティの人となりが段々分かってきたのか、あからさまに困惑することは無かった。
「?そうか。もう少ししたら作業に一区切りつくから、そのタイミングでいいか?」
「いいよ。私も倉庫見てくるし、丁度良いでしょ」
そうだな、とユスティ。ソファから立ち上がったアイリを見送り、ユスティは再び作業へと戻った。
数十分後。作業を終えたユスティを伴って、アイリは以前と同じレストランにいた。
「――へぇー、イリバルネさんとはそうやって知り合ったんだ」
「ああ。その後空白期間はあるが、それでも割合長い付き合いだ」
アイリもユスティも既に注文を終え、配膳までの間歓談に興じていた。
「そういえば、捜査の方は順調なの?」
「順風満帆とはいかないな。今日ようやっと謎のひとつに手がかりが見つかったくらいだ」
「へぇ、大変なのね」
「それはお互い様だろう。昨日今日とあんまり寝ていないんだろう?」
「あら、バレた?」
「見れば分かる。俺も人の事は言えないが、睡眠は大事だぞ」
「ホント人の事言えないわね。ユスティも今日泊まり込みの予定だったんでしょ?」
「……分かるか?」
「帰宅するにしては軽装だもの。前はショルダーバッグ持ってたし、財布と上着しか持たずに出るなんてちょっとした外出程度の準備じゃない」
「……今度からは常にバッグを持ち歩くか」
「ちょっと?バレなきゃいいってわけじゃないのよ?」
これはアイリの知り得る情報ではないのだが、アイリに対するユスティの態度は少し特殊である。葵やハンナがこの場にいたら、恐らく「ユスティって他人に興味あったんだ」と愕然とするところである。その所以は、ユスティすらも自覚していない。
「お待たせしました、こちらペスカトーレになります」
配膳されたのはユスティの注文メニューだ。ムール貝やイカをふんだんに使ったトマト系のパスタは目にも鮮やかで、香るニンニクの匂いは対面に座るアイリの胃袋をも刺激した。
「うわぁ、おいしそう……」
そう言ってユスティの皿を覗き込むアイリの姿は、まるで餌を前にした子犬だった。そんな彼女の様子を見て見ぬふりをするわけにもいかず、ユスティは皿を彼女の方に差し出した。
「……少し食べるか?」
「いいの!?」
言うが早いか、彼女はフォークを手に取り麺を何本か掬い取る。
「――んん~、美味しい~!」
麺を口に運んだアイリは、今度はへにゃっと笑顔を浮かべた。彼女と付き合いの浅いユスティにとって、彼女の百面相は新鮮な一面だった。
「アイリはパスタが好きなのか?」
「うん、好き。でもパスタの美味しさを知ったのはつい最近だから、食べたことあるのはほんの数種類」
ラエヴネの食生活はパンを主食としたものであり、水資源も豊富ではないことからパスタはあまり広く食べられる食材ではない。とはいえ食文化の交流は古くから行われており、食材の流通なども発展した現代では一般的な食材になりつつある。この変化にも、魔動航空機の存在は一役買っている。
「海鮮類などの食材が内陸のラエヴネでも安く手に入るようになったのは最近の事だからな。こういった変化は、ランニングコストの低い魔動航空機が増えつつあるからこそなのだろうな」
「燃料代がまるまる浮くんだもんね。そりゃ凄い勢いで普及するわけだわ」
全くだ、とユスティ。
ユスティもスパゲティをフォークで絡め取り、口へ運ぶ。
「……美味いな」
「ね、美味しいよね。魚介とニンニクの香りがイイ感じ」
かつてない程の笑顔でそう言うアイリ。きっと彼女は食事が好きなのだろう……と、ユスティはそう思った。
ユスティが次の一口を口へと運んでいる間に、アイリの注文もテーブルへと届けられた。
「こちらメンチカツでございます」
アイリの目の前に置かれた更には、黄金色に揚げられた丸い塊がふたつ置かれている。見慣れぬその物体に、ユスティは思わず質問をしていた。
「……それは何だ?」
「これ?メンチカツって言って、挽き肉で作ったカツレツみたいなものよ。つい最近『遺産』から発掘された食べ物みたいで、ラエヴネでもこの頃流行ってるのよ」
そう言ってアイリは塊をナイフで切って見せる。その断面はカツレツのような肉質ではなく、さながらハンバーグのような朧状の断面だった。
「ほう、挽き肉で作ったカツレツか。旧世界の人間は面白いものを思いつくものだな」
「伊達にこの世界の数万倍の歴史を持ってないってことね。――はい、ペスカトーレのお礼」
アイリは皿の上のそれを切り分けてユスティの方へ差し出す。ユスティはそれをフォークに刺し、傍らにあったソースらしきものも少量拝借して口へ運んだ。
「――ほぉ、これは不思議な食感だ」
「どれどれ、私も……おー、確かに不思議な感じ。ハンバーグより柔らかいのにどっしりしてる。このソースも相俟ってクセになりそう」
アイリも一切れ口に運び、先ほどのような笑顔を見せた。
「これに似た『コロッケ』っていう料理もあるみたいだけど、そっちはまだ店には並んでないみたいね」
「詳しいんだな。それはどんな料理なんだ?」
「じゃがいもで作るメンチカツみたい。旧世界だと一部の国でポピュラーな食べ物だったらしいわよ」
「チップスとは違うのか?」
「さぁ、その辺は良く分からないわ。じゃがいもを揚げているあたり、チップスに似た食感ではあるかもしれないわね」
未知なる食文化談義は、彼らの食器が空になるまで続いた。
一通り食事も終えた後、新たな話題を切り出したのはユスティだった。
「そういえば、以前言っていた悩みは解決したのか?」
唐突なその話題転換に、アイリは目を白黒させた。
「悩みって?」
「この前食事に来た時言っていただろう。『どうしていいかわからない』と」
アイリは少しの間記憶を探る素振りを見せ、ポンと手を打った。
「ああ、そんな事も言ってたわね」
「『そんな事』か。その分だと、悩みは解決したようだな」
そんな事を言いながら優雅にコーヒーを啜るユスティとは対照的に、アイリはジュースのストローを齧りながら微妙な顔をしていた。
「うーん……解決したと言えばそうなのかもしれないけど、今一つ私の中では煮え切ってないわね……」
「そうだったのか?随分熱心に分析に取り組んでくれていたようだが」
アイリはテーブルに肘をつきながら、唇をへの字に曲げながら呟く。
「いや、実際のところ調査をする上での迷いってのはもう無いのよ。でも私にはその迷いがどこに行っちゃったのかよく分からないのよ。いつの間にか消えちゃったっていうか、どうでもよくなっちゃったというか」
「……不思議な話だな」
「でしょう?……だから、悩みが解決したとは言い切れなくって。もう迷ってはいないからそれはそれでいい事なんだけど、どうにも疑問だわ」
理解し難い内面の変化に戸惑っているのか、アイリのストローを齧る口は止まらない。ユスティはその行儀の悪い行いをたしなめることはしなかった。
「調査へのモチベーションが損なわれていないんだとしたら、俺はそれで構わない。俺とて委員会のメンバー全員のメンタルケアまでできるわけじゃない」
ユスティのその告白に、アイリはけたけたと笑った。
「確かに、ユスティは人付き合い苦手そうだもんね」
「……どういう意味だ?」
ユスティの頭には、ついこの間ジャックに言われた「人外鉄面皮」の誹りが浮かんでいた。
「どういう意味も何も、そのまんまの意味よ。普段機械を相手にする仕事をしているから、相手の意図とか含みを上手く理解出来なさそうだなって」
「……」
アイリの指摘もあながち間違いではなかった。事故調の面々とはプライベートでも付き合いがあるが、何かにつけて彼らはユスティの朴念仁っぷりを話題の種にしている。その記憶を思い出したユスティは、渋い顔をしてコーヒーを啜る事しか出来なかった。
若干不貞腐れているユスティをみて一しきり笑ったアイリは、グラスの中に残った氷をストローで弄りながら独り言のように呟いた。
「……そういうところもユスティの凄いところなのよね。面倒な人間のあれこれに
「……それは同感だな」
アイリの言葉は、以前ユスティが語った過去の話にも繋がっている。
彼は、彼の両親を殺した航空機事故を「どこにでもある」と表した。この言葉は何の比喩でもなく、実際に甦生世界中のどこにでも起こっていた事故のひとつなのである。
甦生世界の学問は借り物の大枠の中に育つ促成栽培の体系である。そんな体系の中に「倫理」が育つ筈もなく、その負の側面は徐々にこの世界に牙を剥き始めている。
「今回の事故だって、新鋭機の不時着事故だもの。設計や品質保証の杜撰さが根底にあったって不思議じゃないわ。――でも、そんな中でユスティは機械と人間の付き合い方を分別を持って選んでいる。それって凄い事だと思うわ」
窓の外を眺めながら遠い目でそう言うアイリ。その意識は、自分の心の奥底に向いているようだった。
暫くそうしていたアイリだったが、話が途切れたことに気付くと慌ててたように言葉を継いだ。その顔が僅かに紅潮していたことに、ユスティは気付いていた。
「と、とにかく、私の中に迷いは無いわ。ユスティの気を煩わせていたのなら謝るわ」
「そうか?……まぁ、調査に影響が無いのならそれで良い」
ガジガジとストローを齧るアイリに、ユスティは深く追求はしなかった。彼にとって調査が第一だったというのもあるが、何より彼は人の内面に触れる話に対する経験が無かった。
「……それにしても、調査の先行きはまだ不透明ね。結局レギュレータらしき部品は委員会の倉庫には無かったし、ユスティたちもようやっと手がかりのひとつが見つかったくらいだって言うし」
「その『手がかり』も、証言の中に不自然な点をひとつ見つけたというだけだ。具体的な証拠が見つかるかは今後の調査次第だ」
「そうね。……私も頑張らなきゃ」
そう言うと、アイリは再び遠い目をした。そんなアイリの様子にユスティは何も言うことなく、ただコーヒーを啜るばかりたっだ。
食事も終わり、ユスティとアイリはレストランを出た。外は雪がぱらぱらと振り始めていて、冷え込みもまた一段と厳しくなっていた。
「……それじゃあ私はこれで。何かあったら連絡してね」
「分かっている。そちらも、引き続き頼むぞ」
「うん。……じゃあね」
去っていくアイリの姿が見えなくなるまで、ユスティはその背中を見送っていた。アイリを見送ったユスティは、残していた仕事をこなすために委員会本部へと向かった。
『――くそっ、何があった!?エンジンは!?』
『ダメです、完全に沈黙しています!』
ノイズ交じりの録音音声を聞きながら、ユスティは思案に耽っていた。
彼が聞いているのはCVRに録音された音声だ。この音声はパイロットが機体に搭乗する瞬間から記録されており、コックピットで交わされた会話や警報音、機体から発生した異音などが録音されている。
ユスティが聞く限り、機体から発生した異音は三回だった。
最初の異音は、副操縦士による「
『コンプレッサーのストールか?』
『……みたいですね』
という会話がされていた。FDRの記録によればそれに前後して右エンジンのEPRの値が落ち込んでおり、その直後にはサージングとみられる推力の激しい変動が記録されている。
サージングに気付いたパイロットらは
『異常があるのは右エンジンだな?』
『はい。
『そうだな。……スラスト アイドル』
『スラスト アイドル』
というやり取りをしていた。この手順は異常への対処としては問題があるものではなく、記録からもその動作は裏付けられていた。
しかし、その後時間を置かず、推力の増大が記録されていた。その値は
『おい、どういう事だ!?推力は絞った筈だぞ!?』
『ええ、私も確認しました。どういう事でしょうか……』
と、混乱したやりとりが行われていた。
二度目の異音は、ローテーションから六十四秒後。パイロットらが右エンジンの異常な動作への対処に追われている中で起こった。その直後に左エンジンの推力に変動が生まれていることから、この異音は左エンジンのサージングに繋がるものであると推測される。
コックピットの様子は更なる混乱に包まれており、操縦士らのやり取りは
『ええい、どうなっている!?』
『左エンジン、出力安定しません!』
と、語気が荒くなっている。これが過剰に荒い語気であったり高圧的な語調を伴っているのであれば適切な
三回目の異音はローテーション七十八秒後。一際大きな異音であったこととこの瞬間を境に両エンジンの出力が低下したことから、この異音はエンジンの深刻な破壊が発生した瞬間であることが考えられた。
コックピットに非番機長が来たのはこの後だ。
『マティアス・レイヴォネン機長だ。助太刀しよう』
『助かる。彼と私はチェックリストと機の操縦で手いっぱいだ、私たちの代わりにAPUの起動と管制へのコンタクトを頼めるか』
という会話が記録されており、オットー・ヨハンソン機長のCRMは適切に行われていたことが窺える。
それ以降は三人のパイロットの手により不時着の準備が進められていることが記録されていた。その手順についても
『禁煙/シートベルトサイン』
『オン』
『エアコンスイッチ』
『オフ』
『キャビンの与圧』
『手動で減圧』
『減圧確認。流出弁』
『Forward/Closed/Locked』
――と、以下不時着時のマニュアルに従って遂行されていることが確認された。その後機体は降下し、木への接触音と衝撃音を最後に記録が終了している。
ユスティはこれらの流れを幾度となく確認し、不自然な点や不適切な操作の痕跡を探っていた。しかしその結果は芳しくなく、疑われるのはパイロットらの誤操作と確認不足くらいなものだった。
「……やはりパイロットを疑う必要があるのか」
ユスティにとって、この判断は不本意なものだった。
これはパイロットらへの同情からではなく、事故の調査が物的証拠の無い推測の域へと突入していく事への失望によるものだった。
彼にとって、事故調査のひとつひとつは「安全への貢献」という題目の下行われるものだった。そのための捜査が客観的根拠の乏しい領域へと入っていくのは、安全への貢献の面で非常に望ましくないものだった。
「――ハァ……」
ユスティは疲労感を隠し切れなかった。
パイロットの過失等を疑う場合、調査するべき資料が膨大な量あるのも彼の疲労感の原因のひとつだった。来歴から訓練の履歴、過去の飛行記録、健康診断の記録……フライト歴が長くなればなるほどそういった資料は多くなる。彼にとって意義の薄い徒労とも言える調査への忌避感に、ユスティはオフィスチェアの背もたれに寄りかかって脱力することを選んだ。
「……人、いるかなぁ」
夜も明け、朝七時半頃。アイリは昨夜と同様に委員会本部にやってきていた。
分析の一環で欠けている部品の存在に気付いたアイリは昨夜本部を訪問して倉庫の中を捜させてもらっていたが、翌日訪問する予定だった科捜研の活動開始時間まで余裕があることからもう一度委員会本部を訪れることにした。
建物内は相変わらず静まり返っていた。普段の調査もこのような朝早くから行われることは無く、必然といえば必然の様子であった。早暁にアイリが目覚めてしまった理由は単純で、調査をしていない間――特にユスティらと行動を共にしていない間は落ち着けなかったからである。これはユスティに対する感情とはまた違う所に由来するものであり、彼女自身この原因についても同様に全く心当たりが無い状態であった。
意味もなく忍び足で本部の会議室へと入ったアイリは、昨日と同じ倉庫へと向かった。部屋中に置かれた箱を片っ端からひっくり返し、手元の資料に一致する部品が見つけられずがっくりと肩を落とす。
「……これで見つけられればラクだったんだけどなぁ……」
とはいえ、見つからなかったものは仕方がない。箱の中身を戻し終えたアイリは倉庫を後にし、科捜研へと向かおうとした。
――と、その時、ユスティの部屋から昨日と同じく明かりが漏れていることに気付いた。
「……ったく、ユスティったら、結局あのまま徹夜したのかしら」
彼女とて夜通しの調査は何度かしているが、そんな自分の行いは棚に上げてユスティの心配をする。昨日は残って調査を続けることを知ってはいたのだが、まさか徹夜をしてまで調査しているとは思っていなかったのだ。
会議室から繋がる側のドアをノックし、ユスティの部屋に入る。
「……ちょっとユスティ?シャワーくらい浴びたんでしょうね?」
そんな事を言いながら入室するアイリ。――彼女が見つけたのは、オフィスチェアに座りながら眠りこけているユスティの姿だった。……どうやらシャワーは浴びていないらしかった。
「……全く、ユスティったら」
入室したアイリにも気付かず眠り続けるユスティに近付き、アイリはソファにあったブランケットをかける。どうやらこの部屋での仮眠も日常茶飯事らしく、ご丁寧にソファには簡易的な枕まで置いてあった。
ブランケットをかけると、アイリはユスティの様子を眺めることにした。本当はこのまま科捜研に向かうつもりだったが、どの道科捜研が開くまでにはまだ時間があった。時間つぶしも兼ねて、アイリはユスティ観察に勤しむことにした。
普段は感情を読み取れないユスティの表情も、眠っている間はどこかあどけなさを感じさせる柔らかさに包まれていた。無造作に切られた銀髪も額から目元にかけてしなだれかかっており、普段の凛とした顔立ちからは想像もつかないくらいに幼い様子だった。――無理もない。彼はまだそこらの学生と同じくらいの若さなのだ。そんな年で公的機関の主席を務めて日々凄惨な現場に向かっている方が異常なのだ。
――気付けばアイリは彼の未だ知らぬ表情に見惚れていた。
「……こう見ると、やっぱり年相応なんだね、ユスティ……」
彼女とて学者としては破格の若さである。しかし、二十歳を過ぎたばかりの才媛を以てしても、彼の若さは立場に不相応なものであった。
……と、ユスティの髪がはらりと垂れた。毛先が口元に近付いてしまい、アイリにはその様子が寝苦しそうに感じられた。
「……全く、よく寝てるわ」
アイリはその髪を持ち上げ、耳にかけてやった。
――それと同時に、ユスティが少し身じろぎをした。
「――!」
アイリとユスティの顔が急接近し、アイリはフリーズした。色白の肌が目の前にあることに動揺したアイリは、自分でも感じ取れるくらいに顔を真っ赤にした。
(うっっっっわぁ、肌白っ……キレイな肌してる……凄……)
その動揺は思考を揺らがせ、彼女の心の奥に
(……ちょっとくらい、バレないよね……)
彼女の心に浮かんだのは、「ユスティを撫でてみたい」という欲望だった。彼女はユスティよりは年上であり、普段はそんな扱いをされないアイリはその立場を心のどこかで危うんでいた。そのユスティが今目の前で子供のように眠りこけている。――これは、アイリにとって格好のチャンスだった。
アイリはユスティににじり寄り、額と額が触れそうな距離にまで接近する。――無論、ユスティを撫でるだけであればこんな接近をする必要は無かったが、欲望に支配されて熱暴走を起こしているアイリの頭にそんな気付きは浮かんでこなかった。
「……ゴクッ」
湧きだした唾液を飲み下し、そろりそろりと手を伸ばす。指が艶のある毛先に触れ、くすぐったさが全身を駆け巡る。
(いいの!?私、こんなことしてイイの!?)
今更ながらに心が疑問の鐘を打ち鳴らすが、事態は既にのっぴきならない所まで来ていた。
イケナイ欲望がうずうずと全身を動かし、手先をふるふると震わせる。
(イクよ!?私、やっちゃうよ!!?)
欲望に流される自分とギリギリの理性を保とうとする自分。
――その均衡を破ったのは、アイリの耳に響いたある音だった。
「おはよー、ユスティ。CVRの記録はどうだった~?」
「ヒョワッ!!?」
ガタガタガタガッタン!!!!!と後ずさりするアイリ。つい今しがた行われていた淫行(?)の事実を知ってか知らずか、葵は真っ赤な顔で立ち尽くすアイリに声をかけた。
「あ、アイリさん。おはよ~。今日はこっちに用事?」
「ハッ、ハイ!!!えええええとえと調査の結果欠けている部品の存在に気付きマシてこちらにみnn見に来ました!!!」
明らかに挙動不審なアイリの様子を無視してか気付かずか、葵は特に対応を変える事もなく応えた。
「なるほどねぇ。もう倉庫は見たのかな?」
「み、見ました!!!この後は科捜研に行って部品の有無を訊いてみる予定でアリマス!!」
「……ってことは、こっちの倉庫には無かったのかぁ。その部品の資料とかってある?僕の記憶にある限りであれば探すのに協力できるよ」
「分かりましたぁ!!資料はここに置いておきます、宜しくお願いしますッ!!」
そう言うとアイリは爆速で去っていった。そんなアイリの後ろ姿を見ながら、葵はため息を吐いた。
「……何だか忙しない人だなぁ。コーヒーくらい飲んで行けばいいのに」
アイリの残した資料を見ながら、葵はポツリと呟く。
何とも騒がしい一幕の中睡眠を続けた豪傑・ユスティは、葵がその体を揺すって声をかけるまで熟睡を貫いた。
「それで、何か分かったのか?」
数分後。仮眠から目覚めたユスティは顔を洗い、持ち帰りでパイロットの資料をあたっていた葵から報告を受けていた。
「いやぁ、今のところは何も。……というか、パイロットに問題は無さそうだねぇ」
一足先に会議室の席についていた葵は、後からやってきたユスティの方に体を捻って答える。
「今のところ見れたのはパイロットの訓練記録だけなんだけど、見る限りだと二人とも優秀な成績で訓練を終えているんだよね……」
「ほう?」
席に着いたユスティは葵に続きを促す。
「というのも、事故機の操縦を担当していたパイロットは二人とも元軍属のパイロットだったんだよね」
「軍属……空軍か?」
「うん。機長は輸送機のパイロット、副操縦士は戦闘機のパイロット。副操縦士はDC-9タイプの飛行機の経験は浅いけど、機長の方は五百九十時間の飛行経験アリ。副操縦士は総飛行時間三千時間、機長は八千時間超えのベテランだよ」
うむ、とユスティは唸る。軍属のパイロットであれば、その訓練の厳しさは民間の耳にも轟くところだ。操縦を担当していた機長の同型機の飛行時間を鑑みても、どうやら訓練不足が原因で事故に至った線は薄いらしい。
「で、サテライト航空に採用された後の訓練の成績も良好。緊急時に見せる悪癖も持病の経歴も無いみたい」
「……となれば、パイロットの過失の面は薄そうだな」
そうだね、と葵。
「まだ全ての記録を見れたわけじゃないから確かな事は言えないけど、少なくとも可能性としては薄そうだね」
「そうか……一応俺も資料に目を通しておく。読み終わったものから順番に俺のデスクに置いておいてくれ」
「りょーかい。……この後ユスティはどうするの?」
葵の漠然とした問いは、ユスティを主語に置く形をとった捜査方針の質問である。彼の調べによってパイロットの過失、または意図的な不時着の可能性は薄くなったため、残る可能性は絞られてきた。そのうちのどの方向を今後の調査方針とするのか、葵は問うていた。
「残る可能性は多くない。機械的なトラブルが重なったことによる偶発的な事故か、はたまた俺たちが見逃した何らかの要素による事故か……今のところ具体的に疑えるのは前者の可能性だけだ。今後は機械的なトラブルを疑う路線で行くことになるだろう」
「そっかぁ……それじゃあ、僕たちの出番は暫く無さそうだね」
そうだな、とユスティ。
事故調のメンバーに、魔動機関の分析を行える人間は今のところいない。今は、ただ科捜研による機体の分析とアイリの調査結果を待つほか無かった。
科捜研への寄り道も終え、アイリは魔動機関の保管されている倉庫へとやってきていた。睡眠時間が長くないのもあるが、その足取りは重いものだった。
「……ううう、穴があったら入りたい……」
アイリは今朝の一幕を思い出していた。
居眠りをしているユスティを前にした自分のあの醜態。委員会メンバーの安野葵はアイリの蛮行に気付いていないようだったが、それは上っ面の話だ。実はあの奇行の一部始終を見たうえで内心嗤いながら接していたのかもしれない。そう考えると、アイリは自分の行いを猛省せずにはいられなかった。
そんなアイリの背後から声をかける存在があった。
「穴ならいっぱいあるじゃないか。ほら、
「ホワァッ!?」
声の主はノベリアだった。自分の記憶と戦うことに集中していたアイリは、突然声をかけられたことに驚いて奇声を発してしまった。
驚かせた当の本人はニコニコと笑うばかりだった。
「驚かせてごめんねぇ。ちょっと深刻な顔をしてるから、元気出してもらおうと思って」
「は、はぁ……ありがとうございます……?」
明らかに面白がっている彼の様子に、アイリは釈然としないまま礼をした。
いいんだよぉ、と笑うノベリア。彼は倉庫の奥へと進んで行き、第一エンジンに続いて完全に分解された第二エンジンの方へと歩いていく。
「エンジンの損傷について、アイリさんの方では何か分かった?」
余談ながら、アイリとノベリアは、共同でエンジンの調査をするにあたり、お互いの呼び名をより親密なものにすることで同意していた。
「……そうですね、今のところ『エンジンに氷片が吸い込まれてサージングが発生した』『吸い込まれた氷片が配管を傷つけ、
「それは両方のエンジン?」
「そうです。どちらのエンジンにも、外的要因による破損の形跡はこれしかありませんでした」
アイリの言葉に、ノベリアは考え込む。
「……となると、実際の破壊と外的要因による破壊の規模で辻褄が合わなくなるよねぇ」
「そうですね……外的要因による破壊以外の可能性も考えてみましたが、エンジンを構成する部品に外的要因と過剰な負荷による破壊以外の故障や不具合はありませんでした」
一部部品を除いてですけどね、とアイリ。
「一部部品?」
「エンジンに関係する部品のうち、見つかっていない部品があるんですよ。燃料配管の機体側の装置、レギュレータなどです」
「レギュレータ……アイテールの圧力を調整する機構ってことでいいのかな?」
「はい。燃料配管のうち、レギュレータから先とそこに繋がる配線類がまだ未調査です。ここに来る前に事故調本部と科捜研に寄ったんですけど、どちらにも未調査の部品は回ってきていませんでした」
「……ということは、まだ地上の捜査で見つかってないのかな」
「かもしれません。警察の非常線がある以上、貴重品目当ての狼藉者が盗んだ可能性は低いですから」
そこまで聞くと、ノベリアはまた考え込んだ。
「……ひょっとしたら、その部品たちがカギを握っているかもねぇ」
「?どういう事ですか?」
ノベリアの概念的な言葉に、アイリは疑問を呈する。ノベリアはそれに対し、少し困ったような笑顔を浮かべた。
「ただの勘だよ。今まで見つかった部品に手がかりが無いのなら、見つかってない部品にあるのかな~って」
「そういう事ですか。……あったらいいなと、私も思いますよ。でなければ、この大量の部品を一から精査し直しです」
「……それは嫌だねぇ」
ですよね、とアイリは頷く。
「……とはいえ、今私たちに出来ることは限られています。まだ偶発的な不具合の連鎖の可能性も残っている以上、破損個所を中心に再調査はしなきゃいけません」
「そうだねぇ。私たちにできるのは、エンジンの調査だけ。より包括的な視点からの捜査は、ユスティたちに任せておこう」
そう言うと、ノベリアは背筋を伸ばして部品のひとつを手に取った。
「……さぁ、始めようか。私たちの仕事はまだ先が長そうだ」
「……そうですね」
ノベリアに従い、アイリも別の部品を拾って机に向かった。彼らの仕事は、エンジンに関するあらゆる可能性の検証だ。同じ部品を何度調べてでも、全ての可能性を調べつくして片端から否定していくしかなかった。
時は流れ、数時間後。テオドラの使いっ走りとして事故調本部に送り込まれたジャックは、その足で本部にあった部品の山をエンジンの部品をアイリたちに届ける役割を任されていた。
「ったく、何だって俺がこんな目に……クッソ、重てェ、ッ!」
警察車両の後部から重量級の箱を持ち上げ、ジャックは呻き声を上げながら倉庫へと向かって行く。
「よっ、と……こんにちはァ、宅配便でーす!!」
ヤケクソ気味に声を張り上げると、倉庫の奥からアイリがひょっこりと顔を覗かせた。
「あら、ジャック。こんにちは」
「ああ、こんにちは……っと」
ジャックは手に持っていた箱をドスンと置き、腰をぐいーっと伸ばす。
「……これってエンジンの新品部品?」
ジャックの持っていた箱の中を覗き込み、アイリはジャックにそう問う。問われたジャックは勿体付けるでもなくアイリの疑問に答えた。
「そうらしいぜ。ユスティ曰く、損傷した部品との照会用だそうだ」
「へぇー、助かるわね。今までエンジンの製造元から取り寄せた図面を使って照らし合わせてたけど、やっぱり現物があると調査が捗るわ」
ありがとうね、とアイリ。
「おう。これはどこに置いておけばいい?」
「奥に持ってきてもらえるかしら。場所は適当でいいわ」
「了解……よっと」
ガタガタと箱を鳴らしながら、ジャックはアイリの後をついていく。倉庫の中は以前訪れた時とは大きく様変わりしており、完全に解体されたエンジンや資料の山、種類別に分類された部品などがアイリたちの奮闘ぶりを示していた。
「ここでいいか?」
「いいわ。ありがとう」
今度こそ重量物の運搬を終えたジャックは大きく伸びをする。
「ハァー、疲れた……全く、何で俺ばっかりこんな目に……」
「若い男手だもの、仕方ないわ。ほら、飲み物」
そう言うアイリの手にはボトルに入った水があった。その封は切られていない。
「助かるぜ……プハァーっ、生き返るぅ!」
貰ったボトルを一気に空にし、ジャックは天を仰ぐ。駐車場からこの倉庫までは結構な道のりだ、いくら若いとはいえジャックにもこの大荷物は堪えたのだろう。
暫くぐったりしていたジャックだが、アイリの顔色を見ておもむろに口を開いた。
「お前、ユスティと何かあったか?」
ジャックに渡すついでに自分も水分補給をしていたアイリは、思わぬ指摘に水を嚥下し損ねた。
「……何でそう思うの?」
「いや、何となく。アンタにしちゃらしくない、憂いのある目をしてたから」
「何よ、普段の私が憂いの無いアッパラパーみたいじゃない」
「実際そうだろ」
そう言ったジャックは、アイリの鋭いボディブローによって埃っぽい床に沈むことになった。
「……何かあったといえば、あったわよ。何というか、ちょっとした間違いというか……」
「オイ、何かやらしい言い方だな。『間違い』って何だ、『間違い』って」
「嫌ね、官能小説の読みすぎよ。……ホント、間違いなのよ。私も何であんなことをしたのか分からないわ。寝不足でもないのに、ホント嫌だわ……」
寝不足だったらいいのか、と言いかけたジャックだったが、今度は逆の腹を抉られるであろうことを悟って彼は口を噤んだ。
「……何があったんだ?」
「……言えない」
「……そうか」
顔を真っ赤にして目を背けるアイリに、ジャックは訳が分からないまま同情した。
「……ユスティのこと、好きなのか?」
「ゴゲフッ」
核心を突いたジャックの剛速球に、アイリは再び咳込んだ。
「……どういう事よ」
「そのまんまの意味だよ。お前、ユスティのことが好きなのか?」
ジャックの言葉に、アイリは深く考え込んだ。
アイリは「恋」という物を知らなかった。幼い頃から「魔法」についての知識を深め、
「……わからないわ。この気持ちが俗にいう『好き』と一致してるかなんて、比較しようもないもの」
「うっわめんどくせ、もっと簡単に考えろよ」
「うるさいわねこの単細胞」
ジャックの茶々に一旦話の腰を折られたが、アイリは再び話を戻した。
「ホントに分からないのよ。最初は流れでこの調査に参加することになったけど、たまに彼に会ったりすると私が私じゃなくなっちゃうのよ」
「……どういう事だ?」
「彼を食事に誘っちゃったり、図々しく悩みを聞いてもらおうとしちゃったり……いろいろ変なのよ。私が彼に何かしらの感情を抱いているのは間違いないんだけど、それが何なのかいまいち説明がつかないのよ」
行動に一貫性が無いしね、とアイリ。
「この調査に参加した理由がイマイチ分かってないってのは、この前も聞いたな。アイツの事を『凄い』って思ってるのも聞いた」
「そうだったわね。……私、ユスティのことどう思ってるのかしら」
自分の心理を他人に問うその姿は、まるで自我の境界線の曖昧な幼児のような有様だった。それ程アイリにとってこういった感情は無縁なものであり、それ程ユスティはアイリにとって大きな存在であった。
「……わかんねぇな。俺に分かるのは、アンタがユスティに『憧れ』があるって事くらいだ」
「『憧れ』?」
アイリの
「そう、『憧れ』だ。この前、アンタはユスティの事を『凄い人間だ』って言ってたろ?」
「……そうね、そう言ったわ」
「で、アンタはユスティの事を『敵』でも『それ以外』でもないと言った。つまり、ユスティはアンタにとって特別な存在ってことだろ?」
「……そうなるわね」
自らの深層心理を暴かれる羞恥に、アイリは思わず顔を伏せる。そんなアイリに構わず、ジャックは自らの考えを語る。
「『凄い人間』に対する特別な思い。それって、要は『憧れてる』ってことなんじゃないか?自分に近いけど凄く遠い存在に憧れて、アンタはここにいるんじゃないか?」
ジャックの言う事を一つ一つ自らの心に当てはめていくアイリ。暫くそうしていたアイリだったが、あるタイミングで固まり、そのまま顔を深く俯かせてしまった。
「…………そうかもしれない……」
「だろ?アンタがユスティの事をどう思っているのかは知らないが、その心のどこかには『憧れ』がある。その方向性も、俺には分からんがな」
見るからにバカっぽそうなジャックに見事言いくるめられ、アイリは羞恥と情けなさに縮こまった。
「……何にしても、アンタはユスティのことを憎からず思っている。で、アンタがこの調査に参加した動機はそこにある。それでいいんじゃねぇか?」
「……それって、何か不純じゃないかしら」
アイリの疑問を、ジャックは鼻先で笑い飛ばす。
「ハッ、不純で結構!俺なんかモテたいからこの仕事を選んだんだぜ。動機が何であれ、結果的に貢献できてりゃ周りの人間も文句は言わねぇさ」
「そういうもんかしらね……」
ヘラヘラと笑うジャックに、アイリは自分の頭の固さを思い知らされた。
「動機は何でも良い」。確かに、言われてみればそうである。一体この世の何割が崇高な目的を持って職業に打ち込んているのだろうか。卑近な例を挙げるまでもなく、その事はアイリにも直感的に解っていた筈なのだ。
「……そうね、それもそうだわ」
「だろ?」
得意げに笑うジャック。アイリはその表情にムッとしたが、それを堪えて礼を言った。
「……ありがとう、お蔭で少し気が楽になったわ」
「そんなら何よりだ。さっきの水の礼とでも思ってくれ」
「そうするわ。……あんた、良い男ね」
アイリの誉め言葉に、しかしジャックは
「……何だ、お前ユスティが好きだったんじゃないのか?以外と尻が軽い女なんゲフッ」
斯くして両脇腹を抉られたジャックは、数分の間床と熱烈な抱擁をする羽目になった。
「――それでは、本日の報告会を始める」
時は流れ、委員会本部。一日の調査を終え、ユスティらは報告会を開いていた。前日に引き続き、ジャックもまたその報告会に帯同していた。
「……どうした?体調が悪そうだが」
「……いや、何でもねぇよ。痛ててて……」
「?そうか……ならいいが……」
蹲るジャックを捨て置いて、ユスティは会議を進める。
「先ずは俺からだ。――CVRのデータを検証した結果、機体に行われた操作が大まかに分かった。それについてはこの資料に纏めてある」
そう言うと、ユスティは手元の資料を配った。三人は貰った資料を繰り、それぞれにデータを読んでいく。
「……この分だと、FDRのデータの通りの操作がされてそうだね」
「そうね。チェックリストもちゃんと読み上げてるし、不自然なところは見当たらないわ」
「……俺にはよくわかんねぇけど、あからさまに不審な点はねぇな」
「そうだな。俺も同感だ。記録を見る限り、パイロットの操作に不審な点は無い。それが俺の見解だ」
ユスティの報告に、皆一様に納得を示す。
「念のため聞くけど、FDRの方に不審な操作を示す証拠は無かったんだよね?」
ハンナの問いに、葵が
「そうだね。FDRの数値上だと、不自然なのはスロットルの操作だけ。でも、CVRの内容から考える限りだとパイロットによる意図的な操作は考えにくいね」
「それについてなんだが……葵、パイロット二人に共通項は無かったか?」
唐突にそう問われた葵は、ユスティの問いの意味を掴みかねた。
「共通項?」
「そうだ。もしこの二人のパイロットが共謀していた場合、CVRのデータを欺きつつ意図的に機体を不時着させることが出来る筈だ」
ユスティのその言葉に、葵は少し考え込む。
「……無くはないよ。でも、それは何度か同じ便を担当していたり、同じ訓練を受けていたりっていうとりとめのない物ばかりだ。そんなんじゃ彼らが共謀した証拠にはならないし、何より――」
「――『動機が無い』、だろう」
葵の言葉を奪ったユスティに、葵はゆったりと頷く。
「分かってるならいいや。……パイロットたちの評価は悪くないし、莫大な借金があったりするわけでもない。証拠も無い、動機も無い。少なくとも、現状ではパイロットの共謀を疑うに足る証拠は無いね」
ユスティの報告が終わったことを確認した葵は、先ほどのユスティの問いかけに引き続いて自らの調査結果を報告する。
「次は僕からの報告。パイロットの訓練の履歴や来歴の資料は大方調べ終わったよ。二人はラエヴネ空軍出身のパイロットで、機長は輸送機、副操縦士は戦闘機のパイロットだった。軍属時代の評価に関しても特に問題は無く、
予め大体の報告は受けていたユスティはその報告に何か質問することも無く、黙ってその報告を聞いていた。彼に変わって葵に質問をしたのはジャックだった。
「ならパイロットに問題は無かったってことか?じゃあ、スロットルの不自然な操作は何だってんだよ?」
「それは……僕らにも分からない。ユスティ曰く『偶発的な不具合の連鎖』、つまり不幸な偶然の可能性も捨てきれないらしい」
葵の説明をユスティが継ぐ。
「不具合というのは、時として連鎖的にその影響を広げていく事がある。一か所が起こした疲労破断が他の場所へ想定外の応力をかけ、それによって起こった破断がまた他の部品の破断を招いて……といったふうにな。今回のケースも、そういった不幸な偶然で起こった可能性は十分にある」
「……なるほどな。アイリが躍起になって調査していたのはそういう可能性か」
「アイリが?……なるほど、彼女の方は心配いらないようだ」
そう言うとユスティは目に見えるか見えないかのレベルで笑った。そんなユスティの反応にギョッとしたのはジャックだけだった。
「?どうしたの?」
「い、いや、何でもない……」
葵もハンナも彼のその様子には気付いていないのか、何か反応を示すことはなかった.
ジャックの生んだ微妙な沈黙を破り、ハンナが挙手をする。
「次は私ね。地上作業の監督者と責任者に話を聞いたところ、監督者も責任者も除氷作業後の点検を目視で行っていたことは認知していなかったみたい。これが本当かどうかはさておいて、マニュアルから外れた作業は現場で横行していたみたいね」
「他の作業員からも同様の話が聞けたのか?」
「ええ。話を聞けた人数は多くないけど、今のところ『目視点検をした』という明確な証言はいくつか得られているわ」
「そうか……」
そういうユスティの顔色は、ジャックにも読み取れるほど険しいものだった。ユスティにとって、こういったいい加減な作業は看過できないものなのだろう。今まで見聞きした数少ない情報を繋ぎ合わせて、ジャックはユスティの内心を推測した。
「……とにかく、これで可能性のひとつが見えたな。あとはこれを立証するだけだ」
ユスティの言葉に葵が挙手で応える。
「実験をするなら、以前除氷液の実験で使った施設を抑えておくよ」
「助かる。ハンナ、明日は実験の監督を頼む」
「らじゃ」
「葵は引き続き社内資料の分析だ。俺はエンジンの分析を見てくる」
「了解。……ここから先は忍耐勝負だね」
「そうだな。……皆、根気強い調査を頼む」
彼らの言葉は、現在の捜査が停滞しつつあることを受けてのものだ。調査の過程で新たな可能性の糸口が掴めない限りこの調査が大きな進展を見せる事は無いであろうことを、彼らは知っていた。
ユスティの言葉に、ジャックを含めた全員が頷く。こうして第七回目の報告会は終了した。
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