第1話 第3章 『ユスティ・アレクシーウ』

 翌日、ラエヴネ市立大学。

「おはようございます」

 アイリは数日ぶりに大学の研究室に顔を出していた。

「おお、お帰りアイリくん。無事でよかった」

 アイリの挨拶に一番に反応したのは研究室を指揮する教授だった。

「ありがとうございます。――すみません、仕事は果たせませんでした」

 アイリの言う「仕事」とはバルジャンドへの出張のことだ。彼女はバルジャンドの大学で客員講師として講義を開くことになっていたのだ。この講義はアイリの乗る便が不時着事故を起こしたことで中止になってしまっていた。

「何を言う、君のような人材が喪われなかっただけでも幸運だよ」

「……ありがとうございます」

 教授の笑みに、アイリは複雑な気持ちで応えた。

「――とはいえ、事故から間を置かず来てもらったアイリ君には悪いけど、明日からまた休暇を取ってもらうことになったよ」

 続く教授の言葉に、アイリは内心うんざりした。

「また、ですか?」

「そう、まただ。学部長からの指示でね、『事故にあったアイリを労わってやれ』との事だ。研究の邪魔をするようで申し訳ないね」

 言葉とは裏腹に、教授の顔はどことなく嬉しそうだった。

 ――アイリが教授の言葉を素直に受け取れなかったのはこういう理由だ。

 今回に限らず、アイリは何かにつけて研究から疎外され続けている。その理由についてアイリ自身は自分の出自が関係していると考えているが、その真相は定かではない。とにかく、アイリは自分が研究室の中で疎まれているであろうことを察知しており、その事はアイリにとって多少なりともストレスだった。

「とりあえず、今日は学部生のレポート課題の採点を手伝ってくれ。君はこういうの得意だろう?」

「……わかりました」

 実際、こういった仕事はアイリの得意分野だった。しかし、アイリとしてはもっと熱心に研究に打ち込みたいところだった。自分の能力を最大限に生かせるのは研究分野であると、アイリはそう信じていた。



「――『魔法力学に於ける「一過律」が現れている事象について調べよ』か。なになに……『魔法力学に於ける「一過律」とは一度反応したアイテールとアーエールはお互いの反応範囲外に出ない限り二度目の反応を起こさないことを示したものであり……』って、そんなことは分かってるのよ。『一過律について調べよ』じゃなくってその具体例を調べろっつってんのに……これは減点ね」

 研究室の片隅で机に向かいつつ、アイリはぶつぶつと独り言を呟いていた。

 彼女が採点しているのは航空工学科の授業で提出されたレポート課題である。今となっては「魔法」と切っても切れない関係のあるこの分野の学生は、必修科目として魔法学を学んでいた。今回のレポートは一年生のもの。いくら大学に入って間もないとはいえ、レポートの書き方は既に学んでいる筈の彼らが提出する課題の質の低さに、アイリは不満を垂れながらの採点を強いられていた。

「――『一過律が示される事象は以下の通りである。1,航空機のエンジンに於ける排気圧の存在。2,アーエールを含有した塗料を塗布した物体に圧縮空気を吹きつけた際に起きる瞬間的な物体の移動。3,大気中のアイテールによって発生すると考えられる気流の規模と実際に観測される気流の規模の矛盾――』……これは良く書けてるわね。地表付近の気流についての矛盾は授業で触れてない筈なのに、よく調べたものね」

 このように、中には出来の良いレポートも紛れ込んでいる。しかしこういったレポートは全体のごく一部であり、全体的な質はお世辞にも高いものではなかった。

 細かい文字列の連続に疲労を訴える目を適宜休ませながら、アイリは採点を控えたレポートの山へと向きあう。

「『半径がr、厚みがdの円筒の内部を一定の流速Vで通過する単位流量あたりのアイテール密度Qの気流について、アーエール含有率cのチタン製インサートを挿入した際の単位長さあたりの渦の発生数を答えよ。なお、この円筒は十分な長さを持つ』。……明らかなひっかけ問題ね。計算式にそのままQを当てはめると答えがズレるっていう古典的な罠だわ。んで、回答は……」

 手早く計算式を立て、値を代入して答えを確認するアイリ。その結果は、問題製作者である講師の提示した回答と異なるものだった。

「……あら、計算ミスしちゃったかしら。ええと、金属部品内のアーエール密度の計算は合ってる。円筒の断面積計算も合ってる。他には……」

 アイリは自らの計算過程をひとつひとつ確認していく。そうして可能性をひとつひとつ探っていくうち、アイリは一つの可能性に行きついた。

「――これ、チタンの密度にレオノラ定数を乗じてないじゃない。道理で値がずれるわけだわ」

 彼女のいう「レオノラ定数」とは、特定の金属にアーエールが含有されている際に乗じる必要のある定数のことである。この値は概ね金属原子の分子量に比例することが判明しているが、この定数の存在は深く魔法学に精通した人間でないと知らないものだった。そういった意味では学部生に出題するには不適当な内容の問いであり、この問いの存在は「出題ミス」とも呼べるものだった。

「この講師の人、魔法学の成績が良くなかったのかしら。確かに魔法学分野は需要に対して教える側の供給が追い付いてないけど、こんな人雇ってどうするつもりなのかしら……」

 そんな事実はつゆ知らず、アイリはぶつぶつと文句を言いながら教授に訂正部分の確認を求めるため席を立つ。

「教授、この模範解答についてなんですが……」

 アイリの声に、教授はあからさまに嫌な顔をした。

「……何だね」

「この模範解答、値にずれがあります。私の検算だとこの値になるんですが、念のため教授も検算をお願いします」

 眼鏡をかけなおし、アイリの手から模範解答の用紙とアイリの計算過程を受け取る。自らもまた白紙に計算式を立て、アイリのそれと同じ速度で計算していく。

「……確かに、この模範解答は間違っとるね。きっとレオノラ定数のかけ忘れだ」

「やはりそうでしたか。ありがとうございます」

 アイリは教授の手から計算結果を受け取る。計算し終わった教授の顔が曇ったのを見て、アイリはこの回答を作った講師が教授の教え子えあることを思い出した。その事実に思い至ったアイリは、しかしその事はおくびにも出さず踵を返した。彼女は、この指摘が教授の顔に泥を塗るような事だとは全く思っていなかった。

「……フン」

 そんなアイリの後ろ姿を眺めながら、教授は不満げに鼻を鳴らす。彼は「メンツ」というものに多少の拘りがあり、それを汚すアイリの行いは彼にとって許し難いものだった。

 そんな教授の様子に気付くことなく、アイリは再び席についてレポートの山に向かっていた。



 レポートの採点をある程度終えたアイリは、昼食のためカフェテリアに来ていた。売店で適当に食べ物を見繕ったアイリは、売店を出たところで見知った顔と遭遇した。

「こんにちは、サルメライネンさん」

 入口から少し離れたベンチに座っていたのはユスティだった。

「アレクシーウさん?どうしてここに?」

 予想外の邂逅に、アイリは吃驚きっきょうの声を発した。

「丁度大学に用事があったので寄らせて頂きました。うちの施設だと、こういう計算は満足に行えないので」

 そう言うと、ユスティは手元の紙束をひらひらと揺らした。

 アイリはユスティの隣に腰かけ、その紙束の表紙を覗き込んだ。

「……なるほど、大学のコンピューターを使いに来たんですね」

「そうです。ちょっとした伝手で計算依頼を出せたので、資料を渡しに来ました」

 甦生世界において、高度な計算を行えるコンピューターは貴重な存在だ。多数の変数を用いた計算や物量の多い計算を行えるものは、その中でも更に希少だ。

「まぁ、それ以外にも用事はあったわけですがね。――サルメライネンさん」

 改めて名前を呼ばれたアイリは、口に含んでいたパンを慌てて咀嚼した。

「……、はい、何でしょう?」

 ユスティは単刀直入に話を切り出した。

「明日、午前中に時間はありますか?」

 思わぬ彼の言葉に、アイリは目をしばたたかせた。

「明日、ですか?」

「はい。あなたに見てもらいたいものがあります」

 彼の言葉は、単なる「手伝い」以上の意図が込められているように感じられた。

 ユスティの言葉に、アイリは少し考え込んだ。

「時間はありますが……何というか、私で大丈夫なんですか?」

 彼女の言う「大丈夫」とは、ユスティらの職業倫理の面への懸念だった。アイリは事故の調査などについては全くの無知だったが、事故被害者を調査に参加させることの是非について疑問を感じる程度には聡明だった。

「正直なところ、グレーです。しかし、我々にはその点を論じている余裕はありません」

 つまり、「明文化されていないルールに縛られている場合ではない」ということだ。それだけユスティらの人的リソースは欠乏しているのだろう。

「私個人としては、事故の実態を目の当たりにしているアイリさんが適任だと考えています。いかがでしょう、お力添え頂けませんでしょうか」

 ユスティの言葉に、アイリは再び考え込む羽目になった。

「研究室の方や責任者の方には俺から話を通しておきます。サルメライネンさんにもご自身の研究があるでしょうし、形式上は大学からの人材派遣ということになりますので、給料等は国から発生します。サルメライネンさんのような人材に見合った対価は保証させて頂きます」

 ユスティの口から出た「人材」という言葉のニュアンスにアイリは内心うんざりしたが、彼の提案はアイリにとって魅力的な面もあった。

 第一に、アイリは昨日の時点から航空機事故調査に多少なりとも興味が出ていた。自分でも説明のつかないくらいにぼんやりとした動機による興味だったが、それでも彼女にとって自分の興味を満たせるかもしれない機会に巡り合えたは僥倖だった。

 第二に、アイリは研究室ではないところに居場所を求めている節があった。つい今しがた研究室に居場所が無い事を実感してきたところだったというのもあり、アイリは研究室以外のところで自分の能力を発揮したいと考えていた。

 ユスティの口ぶりからすれば、今回の声かけは人材補充のためのスカウトなのだろう。自分の所属していた研究室にはアイリ以上に優秀な研究者もいるため純粋に能力を鑑みたヘッドハンティングだとは考えにくかったが、何らかの資質を見出して声をかけてもらったのだとすればこれはアイリにとって望外のチャンスだった。

 ――しかし、アイリは即答を躊躇った。

「……すみません、少し考えさせてもらってもいいですか?」

 先述の通り、これはアイリにとって良い機会だった。しかし、彼の話は余りにも急すぎた。今日までは研究室の一員でしかなかった自分の立場が、明日から突然公的機関の協力者になるのだ。この唐突な変化を即座に受け入れるには、アイリはまだ若かった。

「構いません。非は突然こういった話を持ち掛けた俺にあります」

 そう言うと、ユスティは懐から名刺を取り出した。

「これが委員会本部直通の電話番号です。基本的に調査で外出しているため留守電での対応になってしまいますが、ご都合の良い時間にご連絡ください」

「分かりました」

 アイリが名刺を受け取ると、ユスティはベンチから立ち上がった。

「それじゃあ俺はこれで。失礼します」

 ユスティは一礼して去っていった。



 時は過ぎ、数時間後。計算の依頼を出し終えて大学を離れたユスティの姿は、事故機のエンジンを保管してある倉庫にあった。

 ユスティにとって、魔動機関との邂逅はこれが初めてであった。全体的に化石燃料を使ったターボファンエンジンと似通ったシルエットをしているが、正面から覗き込んだ時に見える内部構造とナセル後部の形状に若干の差異があった。『魔法』については全くの素人であるユスティはそれらの形状がどんな目的で作られどんな機能を司っているのかは理解できなかった。

 エンジンを眺めるユスティの背後から、足音が一つ近づいてきた。

「やっほ~、久しぶりだねぇ」

「……ノベリアか」

 ユスティに声をかけたのは小柄な男性だった。白衣に身を包み、首には安全ゴーグルと「ヴィンセント・メタル社 研究開発二課 ヘンドラーレ・ノベリア」と書かれた名札を下げていた。

「これがウワサの魔動機関かぁ~、なかなかおもしろい構造をしてるねぇ」

「見ただけで分かるのか?」

 ユスティの言葉に、ノベリアは首を振った。

「まさか。ちゃんと下調べをしてきたんだよ。詳しくは分からないから、機械としての『魔動機関』を多少メンテできる程度の知識だけどね」

 ノベリアは軽くそう言うが、完全に未知の技術を一朝一夕である程度理解できるのは凄まじい事だ。例えるならサッカー選手がレーサーに転向するようなもので、多少の共通項はあれど根本的に違う技術体系をものにするというのは並一通りの才能ではない。

「ねぇユスティ、このエンジンについてどう思う?」

 唐突に、そして抽象的に、ノベリアはユスティに対して問いを投げかけた。

「どう、とは?」

「このエンジンからはどんな声が聞こえるか、ってことだよ」

 説明を求めたユスティだったが、彼に返されたのはより不可解な問いだった。

「『声』か。随分と詩的な表現だな」

「そうかな?僕にとってはこの表現が過不足ないものだったんだけど」

 ユスティは顎に手をやり、暫く考え込んだ。

「……『声』という表現については理解しかねたが、見た目から分かる程度の情報ならいくつか見つけたな」

「へぇ。例えば?」

 ユスティはエンジンのナセル部を指差した。

「ナセル部の破損状況から推測するに、破壊されたのはコンプレッサー部かそれに相当する部分だろう。高回転域で稼働させている際に異物を吸い込んだか、シャフトなどが疲労破壊を起こしたかどちらかだろう」

 ユスティの言葉に、ノベリアはうんうんと頷く。

「前部ファン周辺に血痕が見られないことと周辺の気象条件から、バードストライクの可能性は低い。となれば、異物を吸い込んだことが破壊の原因と仮定した場合、吸い込んだのは機体に付着した氷や脱落部品などだろう。後者の場合、飛行経路周辺に不自然な破壊の跡がある破片が見つかるだろう。前者の場合はエンジン破壊の原因はヒューマンエラーが関わっている可能性がある。捜査の過程で空港の地上作業員にも詳しく話を聞く必要があるな。疲労破壊の場合はメーカーの品質検査や設計を疑う必要がある」

 そこまで聞いたノベリアは手を叩いた。

「流石ユスティ、頭の回転が速いねぇ」

「ただの既存の情報の繋ぎ合わせパズルだ。ゼロから考えている訳じゃない」

 ユスティの言葉を聞き流し、ノベリアは自分の意見を述べた。

「僕も概ね同意見だね。エンジンの破壊は高圧部の異常に端を発していて、その原因は異物の吸入か疲労破壊か……僕は前者の可能性が高いと思っているよ」

「根拠は?」

「ファンだよ。さっき別の人から大雑把な破損状況を聞いたんだけど、どうやらファン部に損傷があるみたいだ。具体的なところは分からないけど、僕の推測では吸入した遺物は氷の欠片だ」

 そう言うと、ノベリアはエンジンに近付いていった。ユスティもそれに従う。

「何かがぶつかって起こった破損って、その部分の形状を分析すればぶつかったものの材質が分かるんだ。大まかに言えば、傷口が深ければ金属、浅ければ氷や木片って感じだね」

「質量に依存した運動エネルギーの多寡、ということか?」

「だいたいそういう事。だから、この前部ファンを調べてあげれば破壊の原因がわかるかもって事だね」

 ノベリアはひょいひょいと梯子を上り、エンジンを間近で眺め始めた。

「うんうん、やっぱりそうだね。ファン部分の破壊の痕跡は深くない。ぱっと見鳥とかの遺留物も無いし、多分氷を吸入したことによる破損で間違いないね」

 証拠はまだ無いけどね、とノベリア。ユスティは手帳を取り出し、メモに纏めた。

「そうか。帰ったらハンナとテオドラにそう伝えておく」

「よろしく~……よーし、それじゃあ始めようか。じっくり声を聴かせておくれ~、エンジンちゃん」

 梯子の上で腕をぐるぐると回したノベリアは工具を手に、周辺のスタッフに向けて指示を飛ばし始めた。

 その様子を眺めていたユスティは、倉庫の端にあるパイプ椅子に腰をかけた。今回の彼の仕事は作業の監視だ。調査を外部に委託するにあたって、不正な調査を防ぐための監視だ。

 手際よく分解されていくエンジンを眺めながら、ユスティは作業員ひとりひとりを順繰り観察していく仕事に入った。



 レポートの採点を終わらせ帰宅したアイリは、ベッドに寝転がりながらユスティ受け取った名刺を眺めていた。

「……どうしたらいいのかな」

 考えに考えて混乱してきた頭を休ませながら、アイリはぽつりと呟いた。

 無論、考えているのは事故調への協力のことだ。

 今回の話は、アイリにとって不都合な点は何もない。彼女の研究は現在在籍している研究室では進展も見込めないし、何より彼女が求めているのは彼女の知識が最大限発揮される場だ。

 彼女にとって、『魔法』という分野そのものは興味の対象ではない。知識欲や研究への熱意が無いわけではないが、それでも彼女が求めているのは『魔法』が使われている現場の最前線だ。『魔法』が使われている現場の喧騒に身を置き、魔法を扱う人間の間近でその人々を支えたいというのが、彼女が『魔法』を研究する動機だった。

 大学の研究室は、そういう意味ではアイリにとって望ましい環境ではなかった。現状『魔法』という学問は非常にマイナーなカテゴリであり、一般の生活の中で『魔法』に触れられる機会がまずない。『魔法』に触れるためには大学の研究室か企業の開発部署に所属する必要があるが、企業の開発部署と大学の研究室ではそもそもの思想が異なる(企業側の姿勢が「利益優先」を地で行くものであり、アイリの学問に対する思想とは相容れなかった)。そういう点では大学の研究室はアイリにとっての最高の妥協案ではあったが、それでも「妥協」案でしかなかった。

 大学や企業以外にアイリが活躍できそうな場所は無かったのだが、今回ユスティに声をかけてもらったことで第三の選択肢が出てきた。この提案はアイリにとって最大の利益を見込める選択肢であり、本来なら迷わずこの選択肢を採るところであった。

 ――しかし、アイリは迷っていた。

 アイリの迷いは、その仕事に対する「責任」にあった。

 大学の研究は「材料」であり、企業の研究は「製品」である。

 大学の研究成果がそれ単体で扱われることはまず無く、それらは企業らの手で加工されてようやく一般の目に触れることになる。この研究によって一般市民に不利益が生じた場合その責任は企業が負うことになり、大学の研究室がその責任を追及されることはない。

 しかし、事故の調査に於いては責任が直接自分に降りかかってくる。事故を調査するにあたって調査に参加した人員はひとりひとり名前を明記され、調査の責任は各個人に割り当てられる。

 アイリは怖かったのだ。

 全ての責任を一身に背負って能力を発揮することが、たまらなく恐ろしかったのだ。

 アイリとて自分の能力に疑いがある訳ではない。しかし、それを差し引いても自らの身に「責任」という名の枷が課せられることが恐ろしかった。

 天井を仰ぎながら考え込んでいたアイリの口から、ぽつりと呟きが漏れた。

「あの人は……何を考えながら仕事しているんだろう……」

 疲労によって整合性がとれなくなりつつある頭で、アイリはユスティのことを考えていた。

 彼はどんなきっかけで事故調に参加し、どんな考えで調査に臨んでいるのか。アイリには、それが気になって仕方なかった。



 エンジンの調査は、日没と共に終わりを迎えた。調査の参加していたスタッフは全て民間の企業に所属する職員であり、労働時間を超えた調査を行うことは出来なかったのだ。

 今日の分の調査結果を受け取ったユスティは、報告会のため委員会本部へと向かった。

「あ、おかえりユスティ」

「ただいま」

 ユスティを出迎えたのは疲れ切った様子のハンナだった。

「どうした、ひどく疲れているように見えるが」

「見えるんじゃなくて実際そうなんですぅ~」

 ハンナは机に突っ伏し、今にも眠りに落ちそうな様子だった。連日の外作業に疲労困憊といったハンナの様子に、ユスティは労いの声をかけた。

「じゃあ、早めに報告会を開いて今日のところは解散にしよう」

「労いの言葉がそれって不器用すぎない??人間の感情ある??」

 ハンナの言葉を無視し、ユスティは辺りを見回す。

「葵は?」

「ここだよ」

 その言葉と共に、ユスティらのいる部屋から繋がる部屋のドアが開いた。委員会本部は中央の会議用スペースから各個人用のオフィスに繋がる設計になっている。現在ユスティらの部屋を除いて空き部屋が二つあり、うち片方は倉庫として使われている。

「ちょうど資料を読み終わったところなんだ。早めに報告会開くのなら、もう始めちゃって大丈夫だよ」

「そうか。なら丁度良いな。このまま報告会を開いてしまおう」

「りょーかい……」

 力のない呟きと共にハンナも起き上がる。手元の資料を緩慢な仕草でかき集め、再度見返して報告の準備をした。

「じゃあ私から……今日でユスティから指示された範囲の70%が終わったよ。いくつか破片が見つかったから、エンジンと同じところに分析をお願いしておいた。私には何の部品か分からなかったから何とも言えないけど、多少の手がかりは掴めるんじゃないかな」

「そうか。明日以降も頼むぞ。――それにしても、70%とは凄い進捗だな」

「イリバルネさんの部下だけあって根性あるのよ。こりゃあ盛大に労ってやらないとね……」

 そう言うと、ハンナはへにゃへにゃと崩れていった

 ハンナからはこれ以上の報告も無いようなので、ユスティは順番を送った。

「葵は?」

「FDRとCVRの解析中。暗号化と圧縮がされてるから、実際に解析に入るにはもうちょっとかかるね……」

「そうか。資料の方はどのくらい頭に入った?」

「全体の八割くらい。あとはフライトマニュアルの一部と緊急時マニュアルの後半部分かなぁ」

「順調だな。マニュアルを把握できると捜査の進展がスムーズになる。引き続き頼むぞ」

 ユスティの言葉に葵は頷いた。

「俺の方からは二つほど。まず、破片の散乱状況と機体の損傷状況からのシミュレーション依頼を出してきた。結果は明後日郵送されるそうだ。……まぁ、こちらの方はあまり関係は無さそうだ。乗客の証言にも不自然な点は無かったし、不時着直前の様子は参考資料程度の重要度だろう。問題は二つ目だ」

 ユスティはエンジンを写した写真を数枚、二人に手渡した。

「エンジンの損傷についてだ。具体的な調査の進展は小さいが、可能性として機体への着氷が挙がった」

 ユスティの言葉に葵が反応した。

「着氷?確か証言だと除氷作業は長時間に渡って行われていたんだよね?」

「そうだ。長時間の除氷作業と着氷の因果関係は不明だが、少なくとも前日の夜の時点で機体への着氷が確認されていた。このことは飛行記録から推測される機体の冷え方とも一致する。よしんば除氷作業がいつも以上に念入りに行われていたのだとしたら、この二つの事象は矛盾する」

 ユスティの言葉に葵は少し考え込んだ。

「除氷に時間をかけすぎて再氷結までの予測時間ホールドオーバータイムを過ぎたってこともあり得るけど……記録上はそんな様子も無いなぁ」

「つまり、重要表面への着氷が見逃された可能性または不適切な除氷作業が行われた可能性が疑われるということだな。何にせよ、地上作業員から詳しく話を聞く必要がありそうだな。――ハンナ、地上の捜索が終わったら、次は空港での聞き込みだ。時間があったら俺も同行する」

 ハンナはサムズアップでユスティの声に応えた。ハンナの反応を確認したユスティは話を進めた。

「俺の方からは以上だ。何か質問等は?」

 今日は誰からも質問や疑問が出なかった。メンバーの反応を確認したユスティは会議の終了を宣言した。

「それじゃあ今日はここまでだ。解散」



 帰り支度を終えたユスティは本部入り口ドアを施錠し、帰路につこうとした。建物の敷地外に佇む不自然な人影に気付いたのはその時だった。

「アレクシーウさん……こんばんは」

 その人影はアイリだった。アイリは防寒着に身を包み、本部のゲート近くに立っていた。そこそこ長時間ここにいたのだろう、マフラーから覗く耳と鼻は少し赤みがかっていた。

「……どうしてここへ?」

 予想外の来訪者であったが、ユスティの中に大きな驚きは無かった。何せ今日重要な会話をしたばかりの人間だ、何らかのリアクションがあって然るべきだとは思っていた。――直接訪問されるとは思ってもみなかったが。

「ちょっと相談があって……この後お時間ありますか?」

 まるでデートの誘いのような言葉だったが、ユスティは至って冷静に返答した。――というか、昼間の件があってはデートと勘違いしようも無かった。

「俺は大丈夫です。……相談というのは?」

「後でお話します。……正直なところ、体が冷えてしまって立ち話どころではありません」

 よく見れば、アイリの手は小刻みに震えていた。そんなアイリの様子を見て、ユスティは思わず苦笑した。


 聞けばアイリは夕食をとっていなかったそうなので、自分の食事も兼ねてユスティらは手近なレストランに入った。ボックス席に案内された彼らは各々席につき、注文を行った。

 注文を待つ間、話の口火を切ったのはアイリだった。

「今日はお付き合い頂いてありがとうございます」

「いえ、お気になさらず。……それで、相談というのは?」

 話を促されたアイリだったが、少し話題を切り出すのを躊躇った。

 二人の周りを無秩序なさざめきが流れる。

 ――数秒の沈黙の後、アイリは口を開いた。

「……アレクシーウさんは、どうして航空機事故調査の仕事を始めたんですか?」

 思わぬ切り口に、ユスティは少し身構えた。

「……何故、そのような事を?」

「私、どうしていいか分からなくなったんです。『魔法』の研究を始めたきっかけは父なんですが、最近思うようにいっていなくて……私の両親が航空機事故で亡くなったことはお話していますよね?」

 アイリの問いに、ユスティは頷く。

「実は、私の父も『魔法』の研究をしていました。その当時『魔法』という学問は学問として成立していなかったんです。その『魔法』という存在を学問として、『科学』の一員まで押し上げたのは父の功績なんです」

 魔法に対する見聞の浅いユスティにとっては、この話は初耳だった。ひょっとしたら将来歴史の教科書に載るかもしれない人間の血族とこうやって話をするのはとても貴重な経験なんじゃないかと、ユスティはぼんやりと思った。

「元々『魔法』というのはサーカス団の演目のひとつに使われていた特殊なテクニックでして、これを定量的に説明して科学的な技術体系としての礎を築いたのが私の父です。記録もあまり残ってないので今から何年前の話かはわかりませんが、私が読んだ調査記録や研究ノートの劣化具合からかなり昔であったことは想像がつきます。それこそ、『魔法』の黎明期に作られたノートであるかのような劣化具合でした」

 そう言うとアイリは少し目を伏せる。

「……その父が事故死してそれ以降『魔法』の地位は急速に高まって、今となっては航空機産業の基幹を担うにまでなっています。そんな中で、『魔法』の立役者たる父の忘れ形見である私は、その存在を疎まれているんです」

「ほう……それは何故です?」

 ユスティに問いに、アイリはかぶりを振った。

「分かりません。私とは歳の離れた年長者の方から特に疎まれているので、恐らく父が関係しているのだとは思いますが……具体的な心当たりはありません」

 あり得ない話ではないな、とユスティは思った。

 技術分野には『特許』という概念がある。これは開発物などの知的財産を創作者の財産として保護することを目的とした概念だ。仮に同時期に同じ技術が異なる人間の手によって創造された場合、特許の申請が遅れた者はその技術による恩恵にあずかれない。よしんば盗用・剽窃された技術であっても、その証拠が無い限り知的財産権の侵害とはみなされない。――つまり、新技術開発の裏では血みどろの争いが発生している可能性もあるのだ。

「そんな中、アレクシーウさんからお誘いを受けました。私にとっては渡りに船なお誘いなのですが、いまひとつ踏ん切りがつかなくて……それで、アレクシーウさんに相談してみたんです。どんなきっかけがあって事故調査の仕事に就いたのか、どんな考えで捜査をしているのか、参考にしてみたいと思ったんです」

 なるほど、とユスティ。

「……少し長くなりますが、宜しいですか?」

「構いません。是非お聞かせください」

「分かりました」

 ユスティは居住まいを正した。

「――実は俺も飛行機の事故で両親を亡くしています」

 ユスティの思わぬ告白に、アイリは吃驚きっきょうの声を抑えるのに精一杯だった。

「アレクシーウさんも……?」

「はい。今から十二年前のことです。当時俺は七歳になったばかりの頃で、父も母も共に働き盛りといった頃でした。そんな中父が小型機の事故で亡くなりまして、弁護士だった母はその事故について訴訟を起こしていました」

「訴訟?何故です?」

「なんでも事故機のパイロットは酒気を帯びて飛行機の操縦をしていたらしく、父の死はそれが原因だと考えていたようです」

 ユスティは、そこで一拍の間をおいた。

「――ただ、そのパイロットが地元の航空会社の御曹司だったらしく、証拠証言ともども握りつぶされてしまい苦労していました。そんな中遺体の解剖結果が母の手に渡り、流れは一気に俺たち原告側に回りました。――母が殺されたのは、まさにその証拠が法廷に持ち込まれる直前でした」

「殺された……?」

 思わず耳を疑うワードがユスティの口から聞こえたため、アイリは思わず聞き返してしまった。

 ユスティはそれに涼しい顔で応える。

「はい。殺されました。幸いなことに下手人はすぐに捕まり、酒気帯びの証拠も法廷に提出されたのですが、母は帰らぬ人となりました。その後俺は親戚の家に預けられ、中等教育ミドルまでを受けました」

 彼の言葉に、アイリは意外感を感じざるを得なかった。

「……ミドル出だったんですね、意外です」

「そうですか?今の教育水準で言えばミドルくらいが平均的だと思いますが」

「いえ、そうではなくて……アレクシーウさんみたいな聡明な方がミドル出というのが、少し信じられなくて」

「まぁ、事情が事情ですからね。血縁とはいえ他人の子ですから、そこまでお世話になるわけにもいきません」

 あっけらかんと言ってのけたユスティに、アイリは再び意外感を感じた。

「私だったらそうは割り切れませんね……どうにかして高等教育ハイまで行こうとしたと思います」

 実際そうでしたし、とアイリ。ユスティは運ばれてきたコーヒーを受け取り、軽くあおった。

「俺にとって、教育制度があまり意味が無いものだったのもあります。初等教育ローの頃から将来を考えられる立場にありませんでしたし、最低限ミドルさえ出ておけば何とかなるとも思っていました」

「何というか……壮絶ですね」

 かもしれませんね、とユスティ。ユスティは一息入れ、話を本筋に戻した。

「――俺が航空機事故の調査をするきっかけになったのは、ミドルの終わりに差し掛かる頃に起こった出来事です」

 その言葉に、アイリは思わず姿勢を正した。自分の最も聞きたかった話がこれからされることに加えて今までの話が想像を絶するものだったこともあり、アイリの全身には緊張が走っていた。

「なんてことはありません、ただの航空機事故です。飛行機が離陸し、壊れ、墜落する。、何てことのないただの事故です。――その事故を起こしたのが、両親を失うきっかけになった航空会社でなければ」

 アイリが緊張を自覚したのは、自分の手のひらにじっとりと滲んだ汗に気付いた時だった。震える手で自分の注文したドリンクを手に取り、ぎこちなく啜る。

「両親が死んで暫く経っていたので、俺の心に憎悪はありませんでした。……というか、元より航空会社に恨みはありませんでした。当時の俺は事故を『仕方のない事』と割り切っていたので、両親が死んだことについてあまり激しい感情は抱いていませんでした。しかし、何故か事故の報せを聞いた瞬間、今までおくびにも出なかった復讐心が首をもたげました。当時――今でもそうですが、事故について司法機関が熱心な捜査を行うことはありませんでした。件の事故も過失と故意の存在についての捜査が行われたくらいで、その事故から何かを得ようとしたり改善を促したりといった行為はありませんでした。俺はそこに目をつけ、その事故を徹底的に調べてやろうと思いました。要は、嫌がらせがしたかったんですよ」

 そう言うとユスティは自嘲的に笑った。ひどく乾いた、薄っぺらな笑顔だった。

「スクラップになるはずの機体を使う機会の無かった小遣いで買い取り、図書館に熱心に通って知識を蓄えました。来る日も来る日も資料とスクラップ相手に格闘し、事故の全容が見えたのは事故から一年経とうとしている頃でした」

 ユスティは軽くため息を吐いた。

「原因は、なんてことのない整備不良でした。操縦系統と方向舵ラダーを繋ぐ油圧系統が破損し、操縦不能になった……それだけです。一年かかって、得られた結論はたったこれだけのものでした。俺は原因とその証拠を纏めた紙束を航空会社の郵便受けに押し込み、自分の果たした小さな復讐に満足しました。――俺が航空機事故の調査をするようになったのは、これがきっかけです」

 そう言うと、ユスティは再びコーヒーを呷った。

「きっかけはくだらない復讐です。何の価値もない、ただ一人の子供が満足して終わるだけの自慰行為です。それが何の因果か仕事として成立してしまうまでに至った……と、いうわけです」

 彼の語った内容に、アイリはかけるべき言葉が見つからなかった。彼ほどの若い人間が公的機関の主席を務めているのだ、並大抵の出来事ではないとは思っていたが、彼の語った内容はアイリの想定を遥かに超えるものだった。

「……何というか、凄いですね。自分で飛行機を買い取って調査しちゃうなんて……真似しようと思っても真似できません」

「でしょうね。当時の俺はやることがありませんでしたし、暇を持て余していた節もあります。サルメライネンさんのように勉学に励んでいる方が、俺は凄いと思いますよ」

 ユスティは相変わらず涼しい顔でそう言ってのける。そんなユスティの様子を見ていると、アイリには自分の悩みがちっぽけなものに感じられた。

 ユスティの話が終わると同時に、それぞれが注文していた品物がテーブルに届けられた。

「……暗い話はここまでにしましょうか」

「……そうですね」

 緊張状態を脱した瞬間、アイリの体は空腹を訴え始めた。実に単純な体だな、と思いながら、アイリは注文したカツレツにフォークを刺した。



 食事を終えた二人は、レストランから出て帰路についた。ユスティは徒歩で帰るため、アイリを駅まで送ることにした。

「……足元、気をつけてください」

「ありがとうございます。……よっと」

「……身軽なんですね。何かスポーツでもされていたんですか?」

「ええ、ミドルとハイの頃にバスケットボールをやってました。アレクシーウさんは?」

「俺は特に何もしていなかったですね。クラブ活動にもお金がかかりましたから、主に図書館などに通っていました」

「へぇ、本の虫って感じですね」

「……そうですね。そうとも言うかもしれません」

 アイリは、何故かこういった何でもない会話のひとつひとつに安心感を感じていた。言わずもがな、ユスティとアイリは共通のバックグラウンドを持たない他人である。そんな間柄であるはずの二人の間に、アイリは妙な親密感を感じていた。

 彼女はこの感情の出どころを理解してなかった。アイリにとってユスティは自らの迷いを晴らすための観察材料のひとつであり、アイリの望みはそれによって自らの先行きが決まることのみであった。その筈が、今アイリはユスティ・アレクシーウそのものへの興味を隠せないでいる。「共感」「畏敬」「憐情れんじょう」の間に揺れ動いた彼女の心が、その拠り所を求めてユスティへと向かっていたのだ。

 ――そんな自らの心情変化に気付くこともなく、アイリは自らの胸中に湧き起る未知の感情に流されるままになっていた。

 とりとめもない会話をしている間に彼らはレストラン最寄り駅に到着した。ここで帰路を異にする彼らは、改札前で別れの挨拶をする。

「アレクシーウさん、今日はありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。また何かありましたら、気軽にお声がけ下さい」

 そう言って立ち去ろうとしたユスティの袖を、アイリが掴む。

「アレクシーウさん……今度からは『アイリ』でいいですよ。歳も近いですし、敬語もナシです」

 そういうアイリの顔は、寒さのせいか赤みがかっていた。

 アイリの意図を汲んだユスティは、彼女の言う通り呼称と口調を改めた。

「――わかった。アイリ、これでいいか?」

「――うん、ありがとうユスティ。また明日ね」

 そう言うと、アイリは改札の奥へと去っていった。

 ――その足取りが軽く見えたのは、ユスティだけではなかった筈だ。

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