第1話 第2章 『調査進展』
事故翌日のラエヴネは、前日と打って変わり抜けるような晴天だった。
夜明が明けてそう経たないうちにも関わらず、ユスティら事故調の面々は既に事故現場へと到着していた。
「おう、早いなお前たち」
そんな彼らより先に現場に到着していたのはテオドラ以下数名の警官たちだ。彼らのうち何人かは前日からの非常線維持のための面子だろう、どことなく疲労しているように見受けられた。
「何分人手が足りないからな。少しでも早く調査を始めて時間を稼がないといけない」
「知ってるよ、さっきのはただの労いだ」
テオドラはそう言うとユスティの肩を叩いた。
「我々の本来の集合時間にはまだ一時間以上ある。こいつらはそんな中進んで集まってくれた有志だ。好きに使ってくれ」
テオドラの言葉に、ユスティは有志らの方を向いた。
「ありがとうございます。――ですが、非常線維持にあたっていた方々は外れてください。体力集中力ともに不十分です」
「ハッキリ言うねぇ。だがその通りだ。――おい、お前らは帰れ。明日再集合だ」
テオドラにそう命令された面々は、敬礼すると文句のひとつも無く踵を返した。
「よし。葵、ハンナ。昨日言った通りだ」
「了解……本物の80Mシリーズだ、ワクワクするなぁ……」
「りょーかい。――あなたたち、コッチをよろしく!」
ユスティの指示に従い、ハンナらは三々五々に散っていった。その場に残されたユスティは、テオドラと共にラエヴネ市内の病院へ向かう。事故から間もないうちに無傷の者も含めた乗客百二十九名全員が病院へ搬送され、多くが(検査目的のものも含め)入院している。これから行う事情聴取は昨日話を聞けていない軽傷者と重傷者の一部だ。
病院へと向かう車内、テオドラは暇つぶしとばかりにユスティに話しかけた。
「そういえば、お前は少し前までクライマに出張してたんだったな。帰国してそう時間は経ってないが、疲労や時差は大丈夫か?」
「問題ない。俺はどこでも寝られるからな」
「そーいう話じゃないんだがな……まぁ、いいか。――それにしても、事故調主席サマは忙しいな。平時は航空機事故の有識者として、ひとたび事故が起きれば組織の頭脳として東奔西走……私にゃ真似できないね」
テオドラはハンドルから手を放し、大げさに肩を竦めてみせる。無論、これは運転時のマナーにもとる行為だ。
「警察官がそんな事してていいのか?」
「お堅いねぇ、主席サマ。マナーはマナー、法に明記されている訳でもあるまいに」
「『安全運転義務』は法律に明記されているぞ」
「……ホンっト、お堅いねぇ」
そう言うと、テオドラは両手でハンドルを握り直した。
話を逸らした張本人であるユスティは、特に何を前置きする事もなく話を本筋へと引き戻した。
「忙しいのは俺だけじゃない。葵やハンナだって暇なワケじゃないしな」
「とはいえ、お前の忙しさは別格だろう。特に現場だと尚更」
「……その点は否定できないな。やることも、考えることも多い」
ユスティはサンルーフから空を仰ぎ、シートに背中を預ける。
「――ただでさえ、航空業界は人手不足なんだ。誰かに『代わってくれ』と頼むわけにもいくまい」
「人が足りないのはうちも同じだな。どの業界も人手不足、こんなんで『遺産』の解読を進めちまって大丈夫なのかねぇ……」
その問いにユスティは答えなかった。答えは彼の中に存在したが、それを口に出すのは憚られた。
暫し流れた微妙な沈黙に、テオドラは話題を変える。
「それで――どうだった?クライマは」
テオドラは含みのある視線をユスティに向けた。
「どう――とは?」
「決まっているだろう、煙草と酒だ」
ユスティの想像を遥かに超える俗っぽい質問に、ユスティは少し胸焼けがした。
「ああ、成程……酒は見てないが、煙草はそこそこ色んな種類があったな。紙巻き用の
「ほう!それは興味深いな。ラエヴネで『煙草』といえば紙巻きか葉巻だが、シャグだけ別で売るのは驚きだな。――ひょっとして、喫煙具もこっちには無い種類のものがあったりしたのか?」
「ああ。『
ユスティの言葉に、テオドラは手もみして興奮を噛み締めていた。
「そうかそうか。……今度休暇申請して行ってみるか」
「商店を通して輸入すればいいんじゃないか?」
「そうじゃあないんだ。直に店に行ってまだ見ぬ煙草を目の当たりにする、この興奮が分からんか」
「……」
テオドラの言葉の圧にユスティは押し黙る。彼もその喜びは分からないでもなかったが、こうも興奮した様子で語られると下手な言葉を吐けなかった。
彼の沈黙を否定と受け取ったのか、テオドラの語調は強さを増した。
「いいか、喫煙具に限らず物を買うときは必ず現物を見るべきだ。商店を通せば世界各国いろんなところから物を買い集めることは出来るが、それがどんなものでどんな使われ方をしてどんなふうに愛されているのか、それを実際に見てこそ『良い買い物』ができるんだ。そもそも『煙草』というのはお茶やコーヒー同様に旧世界から脈々と続く嗜好品の一つであって――」
滔々と説法を垂れるテオドラの口は止まらない。
いい加減面倒くさくなったユスティは、この先の話を記憶に留めることはしなかった。
病院に着いたテオドラとユスティは、病院の受付で傷病者の部屋割りを聞いていた。
「事故の被害者の方は二階から五階の個室に割り当てられております。警察の方から指示のあった通り、面会は家族や親戚等関係者の方に限定してお通ししております」
「助かります。ご協力に感謝します。――テオドラ」
ユスティの呼びかけに、テオドラは先回りして
「私は五階から回ろう。お前は二階からだ」
「分かった」
そう言うと、テオドラは足早に階段を登っていった。
ユスティは受付係に会釈し、彼もまた階段を上がっていった。
時刻は病院について一時間ほど経った頃。
「――ありがとうございました」
ユスティは何人目かの話を聞き終えて個室を出た。――ユスティが見覚えのある女性とすれ違ったのはそんな折だった。
「――アレクシーウさん」
「……貴女は」
そこにいたのは、ユスティが昨日最初に話を聞いた女性――アイリだった。
「今日も聞き込みですか?お疲れ様です」
「いえ、こちらこそ。お怪我も無いようでなによりです」
アイリは病院着ではなく私服姿だった。花束や果物のバスケットを持っているあたり、恐らくは見知った誰かの見舞いに来たのだろう。
彼女の装いを観察するユスティの視線に気付いたアイリは、自分の来院目的を明かした。
「実は私の隣の席だった人――パイロットの方がここに入院しているらしくて、それでお見舞いに来たんです。同じ機に乗り合わせていた人の多くは入院しちゃってますし、私だけでもお礼を言いに行きたくて」
「パイロットが……ここに?」
ユスティは一瞬己の耳を疑った。ハンナ曰く、パイロットは全員航空会社に匿われてしまっているとの事だった。そんなパイロットの一人が、この病院にいるというのか。
「ええ、そうみたいです。実際に操縦を担当していた方は別の病院に運ばれたみたいですけど、非番だった方はこの病院に入院されているらしいです」
これは僥倖だ。本来なら実際に操縦していたパイロットに話を聞きたいところだったが、それでもコックピットの様子を覗いたであろうパイロットの存在は、確かな情報の欠乏している今は貴重な情報源だ。
「――すみません、サルメライネンさん。お見舞いの順番を割り込ませて頂いてもよろしいでしょうか」
尋常ならざるユスティの口ぶりにアイリは少し疑問を感じたが、彼女は快く彼の申し出を受け入れた。
「構いませんよ。元々アポイントがある訳でもないですし」
「助かります。そのパイロットの方のお部屋はどこかご存じですか?」
「ええ、さっき聞きました。ご案内しますね」
場所は移り、件のパイロットの部屋の前。
「失礼します。航空機事故調査委員会の者です」
ユスティは病室のドアを軽くノックし、中にいる者の
「どうぞ、お入り下さい」
その応えは数秒のうちにあった。
「失礼します」
そう言うとユスティは病室の中へと入った。
「初めまして。航空機事故調査委員会のユスティ・アレクシーウです。マティアス・レイヴォネンさんでよろしいでしょうか」
「ええ。アレクシーウさん、ご足労頂きありがとうございます」
ベッド上から握手を求めるマティアスに、ユスティは歩み寄ってその手を握り返す。
「して、ご用件は?」
「事故当時、パイロットであるあなたが見聞きしたことを伺いに参りました」
「事情聴取ですか。構いませんよ。どうぞこちらへ」
ユスティは病室据え付けのスツールをマティアスの横たわるベッドに寄せ、着席の是非を伺う。マティアスはそれに首肯した。
一礼してスツールに腰かけたユスティは手帳とペンを取り出し、マティアスの話を聞く姿勢に入った。アイリはその後ろで彼らの様子を興味ありげに眺めていた。
「そうですな……では順を追って説明致しましょうか。――先ず、振動がありましたな。タイミングは離陸の途中だったので、生半可な揺れではなかったです。乱気流などのそれとは違う、機械的なトラブルを思わせる衝撃から始まる振動でした」
「それはどのくらい続きましたか?」
「一瞬、というには少し長い時間でした。ただ、そう長くは続きませんでした。時間にして十秒といったところでしょうか」
「なるほど」
「その振動の直後にエンジン出力が低下したのが分かりました。機体が力を失い、滑空の姿勢に入りつつありました」
「……それで?」
「――ただ、不思議なことに、そんな中で一瞬だけエンジン出力が上がった瞬間がありました」
「『不思議なことに』、ですか。つまり、エンジン出力が上がった理由に心当たりが無いという事でしょうか?」
「ええ、その通りです。恐らく振動の源はエンジンだったと思うのですが、エンジンに何らかのトラブルがあった場合、パイロットはトラブルのあったエンジンを
「……なるほど。確かに、それは『不思議』ですね」
「そうでしょう。――そしてその後、一際大きな振動がありました。エンジン出力が上がったままの状態だったので機体が少し持ち上げられ、振動と共に再び滑空状態へと戻っていきました。それ以降エンジンは出力の変化を起こさなかったので、この瞬間にエンジンは深刻に破壊されたものと思います。その後は為す術もなく、不時着を余儀なくされたというわけです」
ユスティはそこまでの話をメモに取る。アイリがその手元を覗くと、ごく短時間のうちに書かれたはずのメモから様々な可能性や疑問点が書き出されているのが見えた。ユスティはそれら疑問のうちの一つをマティアスに投げかけた。
「乗客の方から『パイロットらしき人間がコックピットへ向かった』という証言が得られているのですが、これはレイヴォネンさんのことで宜しいのでしょうか?」
ユスティのその問いかけに、マティアスは委縮するでもなく堂々と答えた。
「ええ、その通りです。最初は適切な
「状況は理解しました。機長がコックピットのドアを開放していた理由はご存知ですか?」
「詳しくは分かりませんが、離陸前の機内放送で『乗客に安心して飛行機に乗ってもらうためにコックピットドアを開放している』といった話をしていたのは記憶にあります」
マティアスの証言に、ユスティはアイリの方を向く。彼の視線の意図を理解したアイリは、マティアスに続いて証言をした。
「私もその機内放送は聞きました。私の席からコックピットの様子は見えませんでしたが、機体に不具合が起こったときにかすかにコックピットでのやりとりが聞こえたような気もします」
「具体的にどんな言葉が聞こえたかは覚えていらっしゃいますか?」
「……いいえ、覚えていません。半パニック状態だったのもありますが、ギリギリ人間の声と判別できるくらいの大きさでしか聞こえなかったので……」
すみません、とアイリは頭を下げる。
「いえ、構いませんよ。元より完璧な証言を求めてはいませんから」
フォローされたのかされてないのか分かりにくい言葉に微妙な顔をするアイリを尻目に、ユスティはマティアスの方へ向き直った。
「レイヴォネンさんがコックピットに到着した後の様子をお聞かせ願えますか」
「コックピットの中は、私の予想通り混乱の極みにありました。どうも彼らは機体の様子を把握するのに手いっぱいで、
「交信はどんな言葉を最後に終わりましたか?」
「機体の様子の報告です。管制官からは『消防と救急の準備ができている』と言われました」
「その後はどうなされましたか?」
「機長の指示に従ってコックピットを離れ、自分の席に戻って衝撃に備える姿勢をとりました。その後少ししてから衝撃があり、それ以降は朧気な記憶しかありません」
「そうですか……これらの他に気になる点や疑問に思った点などはありませんか?」
「いえ、特には……強いて言うなら、離陸前の除氷作業が長く感じられたことくらいでしょうか」
マティアスの思わぬ言葉に、ユスティは走らせていたペン先を止める。
「――除氷作業、ですか?」
除氷は離陸前に行われる作業の中で最も大事なもののひとつだ。これを怠ったが故に墜落に至ったケースもある。この作業に違和感を感じたパイロットがいるというのは、事故の調査を進める上で重要なポイントだ。
マティアスは己の言葉に説明を継いだ。
「ええ。体感的なものですので具体的な時間は分かりませんが、私が担当した機の平均的な作業時間よりも長く感じました」
マティアスの言葉を聞き終えたユスティは、メモを取り終えた手帳をパタンと閉じる。
「そうですか。参考になる情報をありがとうございます」
「いえ、こちらこそ調査に役立てていただけるなら幸いです」
ユスティはスツールから立ち上がり、再び一礼する。
「レイヴォネンさん、それにサルメライネンさん。ご協力ありがとうございました」
そう言うと、ユスティは病室を去った。
「――どうだった?」
数十分後。聞き取りを粗方終えたテオドラとユスティの姿はロビーにあった。
「こっちは特に目新しい情報は無かったよ。お前のと合わせると軽傷者全員と重傷者の何割かは聞き取りを終えたことになるが、概ね皆同じような証言だった。――そっちは?」
テオドラの言葉に、ユスティは先ほど聞いた事実を伝える。
「旅客として搭乗していたパイロットから話を聞けた。重大な証言もいくつかあったな」
彼の言葉に、テオドラはひゅうと口笛を鳴らした。
「そいつはビックリだな。パイロットはどこかの誰かさんに拉致られたんじゃなかったか?」
「非番パイロットまでは手を回さなかった――もしくは手が回らなかったようだな。一度人目を盗んで連れ出せても、二回目は無いと踏んだか」
テオドラはソファにどかっと腰かける。
「んで、重大な証言ってのは何だ?」
彼女に倣い、ユスティもその隣に腰かける。――テオドラとは違い、ゆったりとした動作で、だが。
「ひとつは『パイロットが意図していないであろう推力変動』、もう一つは『不自然に長い除氷作業』だ。後者については具体的な根拠などは無いようだが、パイロットの感じた違和感とあれば信用しないわけにもいかない」
「なるほどねぇ……そいつは重大だ」
テオドラには彼の言う「重大な証言」という言葉の意味が理解できた。それくらいには、テオドラのユスティの関係は深かった。
「前者はともかく、後者の証言は今この場で裏が取れるな。どうする?」
「この場はテオドラに任せる。俺は早いうちに現場を見る必要がある」
彼の言う「現場」とは事故機そのものとその周辺、そして事故機の通ったと思われる飛行経路のことだ。現在はハンナらと葵の手で調査が進められているが、調査委員会の頭脳であるユスティも事故現場を見ておく必要があった。
「了解、任された。帰りはタクシーでも捕まえてくれ」
「分かっている。じゃあ、頼んだぞ」
ユスティの言葉に手をひらひらと振りながら、テオドラはソファから立ち上がった。ユスティも立ち上がり、テオドラとは逆方向へと歩いていった。
病院を出たユスティは、再びある人物と遭遇した。
「お疲れ様です、アレクシーウさん」
病院前の階段に腰かけていたのは、先ほどよりも身軽になったアイリだった。
「サルメライネンさん……どうしてここに?」
彼女の目的はマティアスの見舞いだったはずだ。とうに目的を果たしたはずの彼女が未だにいることに、ユスティは少し驚いていた。
そんな彼に、アイリは自分の目的を明かした。
「事故現場を改めて見ておきたくて。どうせなら聞きたいこともありましたし、アレクシーウさんが来るのを少し待ってみたんです」
あなたも事故現場に用事があるんでしょう?と、アイリ。
「確かにその通りですが……」
「なら、ご一緒していいですか?もちろん都合が悪いならやめておきますけど」
アイリの頼みにユスティは少し考え込んだ。彼女の同行を認める理由は彼女の言う「聞きたいこと」以外に無かったが、同行を認めない理由もまた無かった。
少しの間の後、ユスティは彼女の同行を認めることにした。
「――都合が悪いということはないですね。ここにはどうやっていらっしゃいましたか?」
「自宅が市内にあるので、鉄道で来ました。大学から休暇を貰ったので、今日一日フリーなんです」
「なるほど。ではこの後タクシーで現場に向かいます。よろしいですか?」
「ええ、構いませんよ」
彼女の言う事には、彼女は大学に籍があるらしい。――しかも「生徒」としてではなく、「職員」として。ユスティにとって有益な話も聞ける可能性もあることは、ユスティの決断を後押しする材料になった。
数分後、タクシーを捕まえたユスティらは都市部を囲う環状道路を走っていた。移動中ということもあり、車内に緊張は無かった。自然な流れとして、室内にはとりとめもない世間話などが流れることになった。
「――へぇ、それでクライマに行ってらっしゃったんですね」
「ええ。一応他のメンバーも航空機事故については一家言ありますが、総合的な知識などで言えば俺が一番適任でしたから……自然とこういう仕事が増えてしまうんです」
「なら移動も多いでしょうし、大変なお仕事ですね……お疲れ様です」
そう言ったアイリの胸中に、かねてより訊いておきたかった疑問が去来した。
「……そういえば、移動は主に飛行機でするんですよね?」
アイリの少しばつの悪そうな声色に、ユスティはなんとなくアイリの言いたいことが察せた。
「そうですね。国内なら鉄道や車の移動で事足りますが、国外への移動となればそうもいかないので」
「やっぱり、そうですよね。――怖くは、ないんですか?」
「何がです?」
「それは、何というか……」
そこまで言って気が引けてしまったのか、アイリの言葉尻はしなびた朝顔のようにしぼんでいった。
「――事故のリスクのことですか?」
彼女の言葉を継いだユスティに、アイリはこくりと頷く。
「日ごろいろんな事故を目にしてらっしゃると思うんですが、そういった事故を目にしてしまうと怖くはならないのかな、って……」
なるほど、彼女の疑問も尤もだ。航空機事故の調査を専門とするユスティらは、様々な航空機事故の現場を目の当たりにしている。となれば、少なからず凄惨な事故現場も見てきている筈だ。そんな中どんな気持ちで飛行機に乗っているのか、アイリにとっては理解しようのない疑問だった。
アイリの疑問に、ユスティはおもむろに口を開いた。
「――0.0009%」
「……?」
「『遺産』に記載のあった、『航空機事故によって死亡する確率』です。これは旧世界に於いての数字ですのでそのまま甦生世界のそれとは全く異なりますがね」
「つまり、『飛行機は安全な乗り物だった』と?」
「いえ、そういうわけではありません。飛行機とその他の乗り物では力学的エネルギーが段違いです。事故で死ぬ確率がいくら低くても、その点を無視して『安全』だとは俺には言えません」
ユスティは一息つき、話に一区切りつける。
「……しかし、『安全』に近付けることは出来ます。『遺産』にあった0.0009%という確率は、この努力によって実現された数字です。そしてその『努力』というのが我々の行うような事故の調査であり、その成果が航空機にまつわる安全規則のひとつひとつです」
アイリは黙ってユスティの話を聞く。質問や疑問の類が出ないことを確認したユスティは言葉を続ける。
「つまり、『安全』というのは犠牲の上に作られるものなのです。――我々の業界には『安全規則は血で書かれる』という言葉があります。よしんば自分が航空機事故によって落命したとしても、俺の命は安全規則に文言を追加するためのインクとして活用されるのです。そう考えれば、事故のリスクを背負って飛行機を使うことに抵抗感はありません」
狂信的なまでのユスティの言葉に、アイリは怖気を誘われた。
ユスティの正気を疑ったわけではない。アイリが恐怖したのは、彼をこう考えさせるまでに至ったユスティの過去である。
「――死ぬことは、怖くないんですか?」
「……全く怖くないわけではありません。しかし、生きているものはいつか死にます。そう考えれば諦めもつきます」
アイリは、彼の言う「諦めがつく」という言葉を上手く理解できなかった。
「怖くはあるが諦めはつく……正直、理解できませんね」
「でしょうね。むしろそっちの方が『正常』だと思いますよ。命を『諦める』という言葉のニュアンスは、筆舌を尽くしても過不足なく伝えられる自信がありません」
つまり、「同じ経験をしないと理解できない」ということだ。ユスティのように事故の現場を見ることは出来ない自分には理解出来なくても仕方のない事なのだと、アイリはそう解釈した。
「事故調の中でも、俺は少数派だと思いますよ。俺以外のメンバーが飛行機に乗るときの心構えはもっと違うと思います」
「そうなんですか?……でも、やっぱり大変そうですね」
「そうかもしれませんね。日常の一部だったはずの存在が非日常に繋がるものになってしまうというのは、余計な心労を増やすことになってしまいますから」
でも、とユスティ。
「――こういう仕事は、誰かがやらなきゃいけないんです。こういう事が苦にならない誰かがね」
悲壮さは伺えない顔色でユスティはそう言った。ユスティの言葉を借りるなら、安全規則を血で書く人間は絶対に必要なのだ。こういった仕事が苦にならない人間が。
「……お疲れ様です」
ユスティの言葉に、アイリの口から労いの言葉が漏れ出た。ともすればかなりな失言になりかねなかったが、ユスティはその言葉に軽く微笑んだ。
「ありがとうございます」
現場に到着したユスティたちは、タクシーをその場に待たせて非常線手前にいた。
「ここから先は捜査関係者以外立ち入り禁止になっています。ご理解ください」
「構いません。それを分かったうえでここに来ていますから」
そう言うアイリの視線は、真っすぐ事故機の残骸へと向けられていた。
「……ここへはどういった目的で?」
ユスティの問いかけに、アイリは少し回答を躊躇した。
「……たぶん、折り合いをつけたかったんだと思います。自分が事故に巻き込まれて死にかけたという現実に」
アイリの瞳は、一瞬の間悲哀に染まった。
「――実は私、両親を亡くしているんです。それも、飛行機事故で。それで、たぶん、両親の事を心のどこかで思い出しちゃったんだと思います」
「そうだったんですか……お悔やみ申し上げます」
「いえ、そんな……もう何年前のことかも分からないくらい昔の事です。私に物心がつくかつかないか、それくらい前の事ですから」
容貌から推察するに、アイリはの年齢は二十歳前後。ということは、事故は約十五年前のものだろう。ユスティは記憶を洗ったが、彼の記憶には該当する事故は無かった。
「今では両親の顔も思い出せません。写真もほとんど残っていませんし……分かるのは、今の私と同じ仕事をしていたということだけです」
アイリの言葉に、ユスティは敏感に反応した。アイリは大学に職員として籍を置いている事は分かっていたが、具体的なところは何も分かっていなかった。事務員か、清掃員か、はたまた研究者か。――よしんば研究者であったなら、ユスティらにとって有益な情報を握っている可能性があった。ユスティにとって、この会話の流れは新たな情報に繋がるチャンスだった。
「……失礼ですが、ご職業は何を?」
「ああ、言っていませんでしたね。ラエヴネ市立大学で『魔法』の研究をしています。研究員としては下っ端もいいところですけどね」
ビンゴ――いや、ジャックポッドだ。研究職であり、しかも『魔法』の専門家ときた。慢性的に人手不足なうえ『魔法』という新技術の専門家が欠けている事故調において、アイリのような人材はまさに金脈だった。
「――研究者の方でしたか。お若いのに素晴らしい事です」
「それを言うならアレクシーウさんも凄いじゃないですか。私といくつも違わないのに、国の機関の主席だなんて……正直、嫉妬しちゃいます」
「いえ、そんな……俺はただ巡り合わせがよかっただけですよ」
ユスティの謙遜に、アイリは少しむくれて見せた。
「運も実力のうちって言うじゃないですか。その『巡り合わせ』とやらを掴めたのも、アレクシーウさんにそれだけの資質があったからですよ」
どうやらアイリは冗談で「嫉妬している」と言ったわけではなさそうだ。これ以上の遜りは不要だとユスティは判断した。
「そうかもしれませんが……やはり自分以外の存在は大きいですよ。他のメンバーの働きなしにはこの仕事は成立していません」
「アレクシーウさんにそうも言わせるなんて、お仲間の方たちも凄いんですね。なんだか憧れちゃいます」
「恐縮です」
ここで会話はいったん途切れた。
本当ならアイリについてもっと詳しく知っておきたいところだったが、生憎ユスティにこれ以上無駄口を叩く暇は無かった。ただでさえ事故調は人手不足なのだ、これ以上調査以外のことに時間を割くわけにはいかなかった。
ユスティはアイリに断りを入れ、この場を離れることにした。
「――すみません。俺は調査があるので、これで失礼します」
「あっ、そうでしたね。長々と引き留めて申し訳ありませんでした」
こちらこそ、と一礼してユスティは去った。
事故機にたどり着いたユスティを迎えたのは、コックピットでコンソールに向かう葵の姿だった。
「ああ、お帰りユスティ……」
「ただいま。状況は?」
「ハンナが音頭を執って地上の捜査が始まったとこ。ここら一帯は何もない平原だから目撃証言は期待できなさそうだけど、一応警官を数人聞き込み調査にも回してるみたい」
「なるほど。葵の方はどうだ?」
「計器類の記録は終わったところ。パッと見計器類に異常はないけど、いくつか分かったことはあるよ……」
ユスティは葵の背後にしゃがみ込み、彼の手元を覗き込んだ。
「
計器は墜落・不時着直前の様子を差して停止する。エンジン圧力比が1未満の値、即ち「吸入した空気の圧力より排気する圧力の方が小さい」ということは――
「――エンジンは空中で止まってた、ってことだね」
ユスティの言葉を葵が継いだ。
空中でエンジンが止まったらしいことは乗客らの証言から浮かび上がっていたが、それに合致する証拠が見つかり証言の信憑性が高まったのだ。
「他にもいろいろ操作の跡が残ってるね。流出弁が操作されてたり、
これらの証拠はパイロットの操作を裏付けるものだ。今のところ具体的な操作内容は不明だが、証言からおおよその想像はつく。
「他に気になる点はあるか?」
「今のところは何も……計器に不自然なところは無いし、FDRが回収されてみないことには何もわからないかな」
「そうか。――エンジンの回収はどうなってる?」
「あと一時間で回収のトラックが来るみたい。その後は専門の調査機関に回されて解析を待つ……って感じ」
繰り返しにはなるが、事故調には慢性的に人手が足りていない。調査の一部、特に専門的な分野の調査には外部機関の力を借りる必要があった。
「なら、俺の明日の仕事はそっちだな。調査の進行を直接見ておく必要がある」
「ユスティは忙しいねぇ……僕らも楽ってわけじゃないけど、ユスティは人一倍忙しいよねぇ」
「それが俺の仕事だ、仕方ないさ」
かもねぇ、と葵。
「俺は機の外をやろう。破片の散乱状況や破損の具合も調べる必要がある」
「よろしくぅ……僕は寒いのは嫌だからね」
葵を軽く労うとユスティは立ち上がり、調査の道具を取りに機から出た。
ユスティがこれから行うのは、機体の不時着寸前の様子を検証するためのデータ集めだ。破片の散乱状況からは不時着直前の機体の対地速度や侵入経路が、破損の具合からは機の降下率や侵入時の姿勢などが推測できる。これらは不時着が適切に行われていたか、不時着にあたり発生した不自然な現象の有無などを示す証拠となる。
バンに向かうユスティは、非常線手前に佇む人影を認めた。アイリだ。
あれから暫く経つが、まだ事故機を眺めているようだ。彼女曰く「折り合いをつける」ためにここに来ているようなので、時間がかかるのも致し方無いのかもしれない。彼女の邪魔をしないためにも。ユスティは声をかけないことを選んだ。
アイリは事故機の周辺で動く人影をぼんやりと眺めていた。
元々は自分の心のモヤモヤを晴らすためにここに来ていたが、今の目的は以前のそれとは違うものになっていた。
(……寒いのによくやるなぁ……)
アイリの視線は、主にコート姿の青年に向けられていた。航空機事故の調査がどんなものかを見てみたくなったのもあるが、彼女の興味は専ら彼自身にあった。
タクシー車内での会話では、彼が航空機事故調査に携わるきっかけや動機などを聞くことは出来なかった。彼が若くして公的機関の主席を務めるほどの才媛であることはそれとなく理解できたのだが、彼を「才媛」たらしめるものが何なのか、彼の出自はどこにあるのか、そういった事がアイリには気になってしまった。
つい先ほど飛行機から出てきた彼は一度非常線外の車に戻り、工具箱のような物を持って出てきた。それ以降彼は何かの距離を測ったり写真を撮ったりしている。それらの動作には迷いがなく、特定の何かを目指しているかのような手際の良さで事を進めていた。
(何を考えながら作業してるんだろうなぁ……)
アイリは航空機については門外漢であり、彼が考えているであろうことの大半は理解できないだろうことは推量できた。しかし、個人的興味として彼のような人間の物の考え方は知りたいところだった。
しかしそれとは別に、アイリの胸中には別の何かが蟠っていた。
(……なぁーんかムズムズする)
平易に言い著すなら、それは「落ち着かない」といった感覚だった。
あるべきものがあるべきところに無いような、そんな感じの収まりの悪さをアイリは感じていた。それを解消するヒントをユスティから得られないものかと考えていたのも、アイリがユスティをぼんやりと観察していた理由だ。
アイリは飛行機については全く明るくない。飛行機を支える仕組みや法則を多少知ってはいるが、それらは枝葉に過ぎない。もっと体系的な観点から見る「飛行機」の実像を、アイリは全く知らない。しかし、それでもアイリは自分に対して「なぜ知らないのか」というような問いかけをせずにはいられなかった。
いったいこの焦燥は何なのか。自分の落ち着かなさの理由を求めて、アイリはユスティのことを観察していた。
結局、アイリが帰路についたのは大きなトラックが事故現場に入っていく前後だった。それまでの間、アイリはユスティを眺めながら自分の中に湧き起った焦燥と戦っていた。
「さて、今日の調査の進展はどうだった?」
場所は移り変わって委員会本部。ユスティらは二回目の調査の報告会を行っていた。
真っ先に挙手したのはハンナだった。
「こっちはユスティから指定してもらった範囲の30%くらいが終わったよ。破片の回収は順調だけど、重大な証拠に繋がりそうなものは見つかってないかなぁ」
情報を手元のメモに書き写したユスティは彼女の報告に頷く。
「まぁそうだろうな。とはいえ今日一日で30%は良い進捗だ。引き続き調査を頼む」
「らじゃ」
続いて葵が挙手をする。
「こっちは少し気になる点を見つけた」
「気になる点?」
ユスティに問われた葵は立ち上がり、現像した写真をハンナとユスティに手渡した。
「スロットルレバー?これがどうかしたの?」
「これの位置が問題なんだ。よく見て」
少しの間写真を眺めたユスティは、写真に写った不自然な点を指摘した。
「スロットルレバーの位置か」
ユスティの答えに葵は頷く。
「そう。スロットルレバーがアイドルの位置に無いんだ」
写真に写ったレバーの位置は、側面の印字から判断するに
「あーっ!ほんとだ!」
「確かにこれは不自然だな。エンジンの燃料弁は閉じられていたんだろう?」
「そうだね。燃料供給は切られているのに、その手前の手順でアイドルにセットされているはずのスロットルは大きく開かれている。おかしいよね」
状況と証拠の矛盾に、ユスティは少し考えこんだ。
「乗客の証言だと、エンジンは二回の振動の後停止していることになる。俺の考えだと、このスロットルの状態は二回目の振動に関係している筈だ」
「振動が、二回も?」
「そうだ。しかも、乗客として乗っていたパイロットの証言によれば二回目の振動の前にエンジン出力が上がっているそうだ。この出力増加が、このスロットルレバーの位置と関係しているのかもしれない」
ユスティの言葉にハンナは疑問を示す。
「でも、エンジンが危ないって時にわざわざエンジン出力を大きくするパイロットなんているの?」
「そこが分からない。このスロットルレバーが不適切な操作の証拠なのか、はたまた別の何かを示唆する証拠なのか……何にせよ、追加の情報が出てこない限り判断はできないな」
ユスティの言葉に、他の二人も頷いた。
「俺の方からは、先ほど言ったものも含めた証言と破片の散乱状況だ。資料に纏めたので、目を通しておいてくれ」
そう言うとユスティは紙束を二人の方へ差し出した。
「なになに……ふぅーん、このパイロットの人凄いねぇ」
「ね。僕だったら怖くて動けなくなっちゃうよ……」
「それだけ責任感が強かったということだろう。――何か気になる証言はあったか?」
ユスティの問いかけに挙手で応えたのはハンナだった。
「どーしてパイロットの人はエンジンがおかしいって気付いたの?」
「通常、着陸の際中や動作の変わり目でもない限りエンジン出力は一定だ。証言によれば振動は離陸後の上昇中に発生したらしいから、上昇中に機体の姿勢が乱れたのを『エンジン不調による推力の変動』と解釈したのだろう」
「へぇー、そうなんだ」
ハンナはユスティの言葉に納得を示した。
「ってことは、不時着の原因はやっぱりエンジンなの?」
「そう考えるのが妥当だろうな。外観的にも一番損傷が激しかったのは胴体部、次いでエンジンだ。機の心臓部がこうも損傷しているとなれば、不時着の主原因はここにあると考えるのが自然だ」
「だね。僕も同意見」
「二人がそう言うならそうなのかもね。じゃあ、エンジンに関係のありそうな部品が見つかったら報告するね」
「頼む」
こうして第二回の報告会は終了した。
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