第19話 東雲綾乃はワインがお好き。

 世間では本格的な冬の装いが始まった12月のある日。夕方から始まったアフレコ収録も卒なく無事に終わり、そんな一時の解放感から僕は、仕事帰りに晩飯を兼ねて某居酒屋チェーンに立ち寄った。


 ここは財布に優しいとってもリーズナブルなお店だ。いつもだったらカウンター席で細々とボッチ飯をたしなむのだが、今夜は例によって女の格好だし、あれから何かと人目も気になるので、運良く空いていた奥の座敷席に案内してもらった。


「ふう〜」


 テーブルに座るや否や、僕は着ていたモフモフなコートを脱ぎ捨て、帽子やらマスクやら変装道具の一切合切を外し、黒ストッキングに包まれた窮屈きゅうくつな足を床に広げる。ああ、炭火焼きの臭いが香ばしい。


「はしたないわね。同じ女として恥ずかしいわ」

「ほっとけ、僕は女じゃねーし」


 と、気づけばいつの間にやら僕と同伴していた東雲しののめが、早速メニューを広げて「赤ワインは無いのかしら?」とか言ってる。チェーン居酒屋に何を求めてんだよ。注文を取りに来た店員さんが困るだろ。


「はい、赤ワインですね」

「え、あるの!?」


 後は適当に腹の足しになりそうなものを何品か頼んでから、先ず温かいおしぼりで顔を拭こうとすると、頬杖をついた東雲が何やらニヤついていたので、ハッとする。


「ヤバいヤバい。メイクが崩れるとこだったよ……」

「チッ」


 あ、今舌打ちしたし……危ない危ない。まんまと墓穴を掘るとこだったよ。やっぱり女の人って何かと大変だよな。これは男じゃ分からん苦労だ。


「ところで橙華とうかさん、今日の収録、いやに楽しそうだったわね。たしか、小倉もも、だったかしら?」


 ウーロン茶をチビチビ飲んでいる僕を正面にし、こんがりと焼けたホッケを割り箸でバシバシ突っつきながら東雲が言う。


「え、ももちゃんのこと?」

「(ピキッ)」


 あれ? 今、東雲の眉間みけんから何やら不穏な音が響いたような……き、気のせいだよな? ちなみに東雲が名指しした『小倉もも』とは、今回の収録から初参加した現役女子高生声優だ。ときにももちゃんは主人公の妹役を演じている新人ながらもルックスと実力を兼ねた今後の若手優良株だ。まぁ実際に可愛かったしな。女装した僕にも何の偏見もなく明るく接してくれたし。


ちゃんね……(私でさえまだ名字呼びなんだけど?)」

「え? 最後が聞こえなかったけど……」

「う、うるさいわね。さっさとこれでも食べてなさい」


 そういう東雲に手羽先を丸ごと口に突っ込まれた。ま、美味いから別に良いんだけど……あ、後でリップを塗り直さなきゃ。油でベトベトになっちゃったし……ああ、ホント面倒くさい。


「んなことよりも東雲、ぜひ聞いてくれ」

「何よ」

「ふふん。聞いて驚くなよ。何と今回、あの妻夫木渡さんに食事に誘われたんだ」

「ぶっ!?」


 僕が言うなり東雲が飲んでいた赤ワインを吹き出した。汚ねーな。テーブルが真っ赤だぞ。


「そ、それでまさかホイホイと彼の誘いに乗って、はないわよね?」

「ああ、今回は断ったさ」


 テーブルを布巾で拭きながら言う。


「そ、そう? それは、良かっ、」

「だって、この格好(女装)だろ? だから後日、改めて、」

「あああ、貴方バカなの!? 悪い事言わないから辞めときなさい。これは命令よ!」


 なんで? 数多のアニメ主人公を演じてきたあの妻夫木さんだぞ? 今後の声優人生について何かと有意義な話が聞けるだろ。


「食事だったら私になさい。いくらでも付き合ってあげるわ」

「し、東雲がそこまで言うんだったら……」


 こうなると声優、東雲綾乃は頑固として意見を曲げないだろう。とても理不尽だが、もうこちらから折れるしかない。でも知らなかった。東雲と妻夫木さんが仲たがいしてるとは……彼、本当に気さくで良い人なんだけどな。


「じゃあ、青木音響監督にも食事に誘われてるからそっちにするよ」

「ぷほっ! あああ、あんたいい加減にしなさいよ!?」

「な、なんだよ、別にいいだろ、男同士なんだし──」


 そう言って僕は、今まさに東雲が吹き出した唐揚げの見るも無残な肉片をいそいそと片付けるのであった。

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