第9話 生意気な隣人
アタシが東京に引っ越して、どのくらい経ったのだろうとカレンダーを見ると、一ヶ月が経過しているのに気が付く。
引っ越し早々色んな人達に出会っては、とてつもない早さで関係が構築されていた。隣人で年下の大家さんの娘に、上の階には小さな年上。それに離れた所にいる友達。
慌ただしかった生活は、次第に落ち着き、今の状況が普通の生活、なのかは分からないけれど、これがあの東京と考えると、なら普通なのだろうとアタシは自己完結させた。
台所で沸かしたお湯をコップに注ぐと、ふわっと爽やかな柑橘系の香りがアタシの鼻を擽った。
はぁ、と一つ息を漏らすと、ソワソワと落ち着かないアタシの心が少しだけ和らいだ気がした。
コップを2つ持ち、たった数Mの距離にいるお客様の前に、コップを1つ小さな机に零れないようにそっと置いた。
「アールグレイだけどいいかな?」
お客様は「ありがとうございます」とお礼を一つ。次には発した言葉はまた、生意気だった。
「今日のお茶は色がありますね」
少しだけ表情が柔らかく見えたのは、アールグレイの香りのお陰なのかは分からない。
「この日の為に御用意させて頂きました」
そんな訳ない。ただ買っておいた奴を出しただけ。
碧ちゃんがコップを口に寄せると、ピタリと寸前で止まった。
アタシなにか粗相をしてしまったのでしょうか?
「……氷が入ってるんですか?」
「夏もそろそろだし、熱すぎるのも嫌かなって」
アタシなりの気遣いだった。アタシのコップにも、もちろん入っている。熱湯に浸かった氷は、後数秒後には無くなってしまうのが分かるくらいに小さくなっていた。
ぬるすぎる、薄すぎるって事はないと思うけど、碧ちゃんはどう思っているのだろうか?
氷を入れたからといってもまだ熱く、ズズッとそっと飲みながら、アタシは視線を碧ちゃんに向ける。
「……笑ってるんだ」
「何か?」
ボソッと無意識に口に出してしまった言葉が聞こえたのか、その小さく上がった口角は元に戻っていた。
碧ちゃんとはちょくちょく会ってはいるけれど、いや、隣人なのだから会うのは普通か。
こうして家に上がってもらうのは、引っ越し以来だった。
いったい何の目的で来たのかは、分からないし、思い当たる点も見つからない。
『うるさいのでここから出て行ってもらいます』
何て言われないよね?結構大人しくしてたと思うし。まさかね?
そんな変な想像をしては、勝手に緊張して、何度も何度もコップに口を付けては、まだまだ熱いアールグレイを少しずつ減らしていく。
「つかさ」
「はい!」
「何故、そんなに緊張しているんですか?」
碧ちゃんにはバレバレのようだ。いや、きっと誰が見ても今のアタシの様子のおかしさには気付くだろう。
「別に、そんな?事ないよ」
「まぁいいでしょう。それより一つ聞きたい事がありまして」
アタシの心臓はビクンと跳ね上がる。
いったい何を言われるのか、頭の中で必死に思考を巡らせてしまう。
何か悪い事したっけ?
あっ、先週早見さんと夜喋ってたのがうるさかったとか!?それなら早見さんも同罪だ!異議あり!って奴だ!
それとも、ちょっと前に実家に電話してたのがうるさかったとか?
それか、兎月ちゃんとの電話がうるさかった?
後は、ゲームでテンション上がってたのがうるさかったとか?
…………騒音しか出してないじゃん。
「つかさ、私は少し思う事があるんです」
「はい、そのお怒りは深くアタシの心に届いております」
「…………そうですね。最近にぎやかな音が隣にも届いています」
やっぱアタシの騒音じゃん。ごめん、次からは気を付けるから出て行けなんて言わないでください。
「たいきょ――」
「――っ!!」
「太極拳って健康にいいって知ってました?」
は?太極拳?
「それと一週間後にたいきょ――」
「――っ!!」
「対局が始まるそうですね。私将棋はやった事がないんです。つかさ出来ます?」
出来ません。ルール知らないです。
「あのぉ?碧ちゃん?今日って何しに来たのかなぁって、聞いていい?」
「退去通告」
え?今ハッキリ聞こえたし、さっきみたいに変な言い回しがない。
退去通告?なにそれ?また拳法やゲームの名前なのか?それとも別の何か?
「やだっ!なんで!?うるさいから!?」
「落ち着いてください、つかさ」
「落ち着けるかぁ!!お願い!もうしゃあしゅうしぇんけん!」
「しゃあ?何ですって?」
「うちが悪かとは、分かっとぉばってん!そこまでしぇんでもようなか!?」
「つかさ、早口で訛っていて、よく聞き取れないです。ごめんなさい、嘘ですから落ち着きましょう?」
「……嘘?」
「はい、嘘です。からかっただけですから、そもそも私にそんな権限ないですよ。高校生ですよ?」
言われてみたら確かにそうか。
なんだ、嘘か。
アタシの上がった肩はガクッと下がり、はぁぁっと少し長い溜息を吐き出した。
コップを持ち、残ったアールグレイを一口飲むと、ぬるくなっているのに気づき、アタシは一気に飲み干した。
「碧ちゃん!!嘘でもそれは言っちゃ――」
「うるさかったのは事実です」
「……ごめんなさい」
「冗談はさておき、聞きたい事はですね」
碧ちゃんは静かにコップの中身を2口ほど飲んだ。
何故今飲む。間を作らないでくれ。
「それで……?」
「実は気になっている事があるんです」
「うん」
さっき聞いたからね、知ってるよ。
「……おいしいですね、コレ」
またコップに手を伸ばす碧ちゃん。
「やけんなんばい!!」
アタシも限界という物がある。ここまで焦らされては流石に怒る。
それでも碧ちゃんは「ふふっ」と笑っては「冗談ですよ」と答える。
アタシからしたら冗談では済まないって事を、この年下に教えてやりたいが、きっと上手くいかないだろう。
「では真面目に聞きますが、つかさは、仕事をしてないですよね?」
「え、あ~、仕事?」
「ご実家がお金持ちなら、いらぬ心配でしたが」
「え?全然違うけど」
「……はぁ、貯金がたんまりあったり」
「まぁあっちのバイトで溜めてたけど、自慢出来るほどないよ?」
「……つかさは東京に楽しく人生を送るつもりで来たんですよね?」
「うん」
「それならば、お金が必要です。お金がないと楽しい事なんて出来ませんし、下手したらこのアパートにすら住めなくなりますよ」
「……言われてみたらそうだ、なんでこんな当たり前の事が気づけなかったんだアタシは……」
「意外と物わかりが良くて、私は驚きました」
アタシは頭を抱えて、底の見えない崖に立たされているくらいには焦っているのに、驚いたと言う碧ちゃんは、全然そうは見えず、涼しい顔をしていた。
「何かやりたい仕事とかあるんですか?」
やりたい仕事、出来れば仕事何かしたくないけど、そうは言ってられないのは分かってる。
あっちでバイトをしてたのはコンビニ。家から近いって理由だけで選んだけれど、絶対に二度と死んでもコンビニになんか働かない。接客自体もごめんだ。
東京はどんな職種があるのだろうか?
「ちなみにほとんどが接客だと思ってください」
「じゃあ……ベタにメイドカフェとか?可愛い服着れるのいいし、でもアタシ可愛くないし、背高いし似合わないかっ!似合いそうなのは早見さんだよね」
「早見さんはもう着てますよ」
「……」
アタシは勢いよく振り向いたけれど、誰もいない。
「来てる、ではなく、着てるです。早見さんはもうメイドです」
「嘘でしょ!?あんなでも接客出来るの!?」
アタシは大変失礼な発言をしてしまったのではないかと思っている。
「早見さんに失礼ですよ」
失礼しました。
「いやぁきっと似合うとは思うけど、接客態度とか平気なのかな?……あれ?でも銭湯でも働いてるんじゃ」
ダブルワークというやつなのだろうか。そこまでしてお金を稼いでいたとは、また早見さんの意外な一面を知ってしまった。
「ええ、早見さんには無理を承知でお願いしてたんです。ですが最近エナジードリンクなどを飲んでる姿が目立ちまして、体や健康の為、お願いした立場ですが、銭湯の方は辞めてもらおうと思っています」
「そうだったんだ。確かにそれは心配だね」
碧ちゃんの表情は少し曇っている気がした。
コップの淵を指で何度もなぞり、チラチラとこちらに向ける視線。
何かを言おうと口を少し開けては、すぐに閉まる。
珍しく落ち着きがない碧ちゃん。
「……もしかして、代わりにアタシを番頭台に座らせようとか、考えてる?」
碧ちゃんの時間が止まった。
なぞる指は止まり、口も少し開いたまま、目は大きく開かれ、目線はアタシに向いたまま。
「驚きました……今日は本当に、なんて言ったらいいか……驚きました」
おい。コイツ、アタシを馬鹿にしすぎじゃないか?
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