今はシリアスな場面なんです
夕刻、ある自動販売機の前で立ち止まっている男がいた。
どの飲料を買うか悩んでいるという様子ではなかった。男の焦点はその中の一つだけに定められている。だが、それを買おうとしている様子でもない。
あるいは、男の意識は過去にあるのかもしれない。
無論それは、男にそのような異能があるというわけではない。
「感傷に浸っているところ、すみません」
彗梨が横から声をかけると、男――岸根隼人は緩慢な動作で振り向いた。
そして彗梨とその傍にいる尾鷲、美咲の顔を順に見て、深々と嘆息した。
「……またお前らか」
「少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「約束が違う。もう俺には関わらないって話だったはずだ」
「事情が変わりまして」
彗梨は岸根の返答に構わず言葉を続ける。
「その自動販売機だけだそうですね。この周辺でもっ茶が売っているのは」
「……だから?」
「先日お会いした時も、あなたはここに来ていた。私たちが見たあなたはその帰りだったんですね」
「……それで? だからなんだよ」
岸根は苛立ったように言いながらも、立ち去ろうとはしない。
だから彗梨は告げる。
「あなたの心の中には、今も美月さんがいる。だから今もこの自動販売機に通っている。美月さんと交際していた当時の習慣と同じように」
「……ふざけたことを。もうどうでもいいんだよ、あんな女」
吐き捨てる岸根だが、それが否定の言葉でないのを彗梨は聞き逃さなかった。
これですべてのピースは揃った。
故に、彗梨は確信をもって尋ねた。
「美月さんを殺した犯人がわかったと言ったら、どうですか?」
「……犯人なんていねえよ。あの状況で誰が殺せるってんだ」
「犯人は異能者です」
きっぱり言うと、岸根は僅かに驚いた顔をした。
「本気で言ってんのか?」
「はい」
「証拠はあんのか?」
「はい」
「……いいだろう、聞いてやる」
岸根が腕を組んでそう言った。
ちょうどそのときだった。
「何してんのよ! あんた!」
と、聞き覚えのある女の声がした。
見ればそこにいたのは、露出の多い派手な恰好をした女。
その名を彗梨は美咲から聞いて知っていた。
伊野うさぎ、というらしい。
「丁度良かった、伊野さん」
「は? なにそれ。なんであたしの名前を……?」
「これからあなたに会いに行こうとしていたんです」
不審そうにする伊野に対し、彗梨はストレートに尋ねる。
「あなた、異能者ですよね?」
その瞬間、伊野の両目が僅かに見開かれた。
なんてわかりやすい反応だろう。
「っ……何それ、デタラメ言わないでよ!」
「あなたは昨日、私に空き缶を投げつけました。そして暴言をぶつけてきた。どちらも私に対してだけでした。……どうして私だけだったんでしょうか」
「はあ? それはあんたが隼人の家に行ったからでしょ?」
「私一人じゃありませんよ。ここにいる尾鷲さんと美咲さんも一緒でした」
「……え」
伊野の口から驚きの声が漏れた。
まったくの予想外。そんな顔だ。
「もっとも、その後私と岸根さんが二人きりになる状況はありましたけどね」
「……そ、それよ! 偶然見たの。あんたたち三人が隼人の部屋に入った後に、あんた以外の二人が出ていくところを!」
「二人が? そんなはずはありません」
「どういうこと」
「だって、美咲さんはずっとあの部屋の中にいましたから」
「はあ……何言ってんの……?」
怪訝な顔をする伊野。同時に岸根も眉をひそめていたし、美咲も僅かに驚いたような反応をした。
彗梨は構わず続けた。
「美咲さんも異能者なんですよ。自分の存在感を消し、他者に認識されなくなる異能です。あのとき美咲さんは、その力で岸根さんの部屋の中を調査していたんです。事件の手がかりを探すために」
彗梨が言うと、岸根が「……そうか」と納得したように呟いた。
「あのときDVDが崩れてきたのはそのせいか」
「騙すようなことをしてすみません。でもこれでわかったはずです。伊野さんが嘘をついているのが」
彗梨は視線を岸根から伊野に戻す。
「伊野さん、あなたは何らかの方法で私と岸根さんが話しているところだけを見たんです。しかし、監視カメラのような手段ではないでしょう。映像で残していたなら尾鷲さんたちを知らないのは奇妙です」
伊野は口を閉じたまま何も言わない。
その表情には明らかな焦りが浮かんでいる。
「監視カメラでないのなら、あなたは私と岸根さんが二人きりになっていたのをどのようにして知ったのでしょうか。私は、あなたが異能者でもなければありえないと思いました」
問題は、それがどのような異能かだ。
真っ先に思いつくのは遠隔視や未来視、過去視といった視覚の異能。しかしいずれにしても、尾鷲と美咲の存在を知らなかったというのが気にかかる。異能の力が弱くて少ししか見えなかったというのもありえなくはないが、彗梨の読みは違った。
「あなたの異能は壁抜けや空中浮遊のような、こっそりとあの部屋に侵入できる異能です。そうして私と岸根さんが話しているところをのぞき見した。浮遊は少し目立ちますから壁抜けが本命だと考えていますが……違いますか?」
「っ……」
その驚愕の表情は、彗梨の言葉に対する肯定だった。
「どのような壁も物理法則を無視して通り抜けられる力。そのような力があれば、オートロックのマンションの中にも容易く侵入できます。岸根さんと話す私をこっそりと観察することも可能でしょう。もちろん、美月さんが自殺した日にだって」
「……っ、そんなことしてない!」
「岸根さんの部屋のクローゼットの中に、このヘアピンが落ちていたそうです」
と、彗梨は美咲が見つけたヘアピンを見せた。
伊野の顔に浮かんだのは、彗梨の見間違えでなければ、絶望の表情だった。
「あなたは異能で岸根さんの部屋に忍び込み、ときにはクローゼットの中に潜んで彼の生活を観察していた。端的に言えば、ストーカーをしていた。違いますか?」
「違う! ……っ、隼人違うの! この女は隼人を騙そうとしてる!」
伊野は縋るような目を岸根に向けた。
だが岸根は意に介すことなく、彗梨に訊いてきた。
「……証拠があると言っていたな?」
「ええ、言いましたね」
と、そのときである。
彗梨が続きを言うのを待たず、伊野は背中を向けて逃げ出したのだ。
「尾鷲さん追ってください!」
「まかせろ! ようやく出番だ!」
尾鷲の動きは俊敏だ。彗梨の指示と同時にすさまじい初速で駆け出すと、瞬く間に伊野に追い付いてその二の腕を掴む。
だが次の瞬間、尾鷲の手は伊野の二の腕をすり抜けた。
「は!?」
尾鷲が間抜けな声を上げた。
追い付いてきた彗梨が声を張る。
「壁抜けだって言ったじゃないですか! 服を掴んでください!」
「……そういうことか!」
再度走り出した尾鷲はまたすぐに伊野に追い付き、その服を掴んだ。
すると今度は伊野も逃れられないのか、その場でじたばたと藻掻くだけ。先ほどのように尾鷲の手がすり抜けることもない。
「どうやら……着ている服ごとすり抜けることは……できないようですね。そしてあなたが……異能者であることも、この目で……見させて、いただきました。もう、言い逃れはできません……」
「彗梨、息切れてるぞ。大丈夫か?」
「大丈夫です。ちょっと、急な運動だったもので」
「五〇メートルも走ってないが?」
「黙ってください尾鷲さん。……今は、シリアスな場面なんです」
彗梨が呼吸を整えていると、
「……あたしじゃない。 あたしはやってない」
伊野は消え入るように小さな声で、震えながらそう口にした。
「まだそんなことを……」
と呆れる尾鷲に、伊野は涙をいっぱいに浮かべた瞳を向けて、
「本当なの! 隼人の部屋に忍び込んだのは謝る! 確かにいつもクローゼットに隠れてた! でもあの日は違う! あたしは何も覚えてないの! あの女、気づいたら落ちてたんだから!」
「はぁ?」
「陰謀よ! 誰かがあたしを罠にかけたの! さっきのヘアピンを失くしたのだってあの日より後よ! 誰かがあたしのヘアピンを盗んであたしを犯人にしようとしてるとしか思えない!」
尾鷲は困ったように視線をさまよわせた。
「……いや、いくらなんでもその言い訳は苦しいぜ。あんたが異能者なのも目の前で見ちまったし……うーん、いや、ほら、俺もあんたが辛いのはわかるんだけどな。でも」
何故こんなしどろもどろになっているのだろう、この男は。
……泣かれて情が移ったとか急に言い出したらどうしよう。言い出しかねないところが尾鷲のいいところであり駄目なところだが、とにかく不安になる彗梨である。
そんなわけで、彗梨は助け船を出すことにする。
「尾鷲さん。伊野さんは嘘をついていませんよ」
「……え?」
尾鷲の目が点になった。
「もっ茶の中に睡眠薬が仕込まれていたのは覚えていますよね」
「ああ」
「では、伊野さんと美月さんはただの一度も顔を合わせたことがないというのは覚えていますか?」
「確か岸根がそう言ってたんだけっか」
「はい。そして伊野さんが忍び込んでいたのは寝室のクローゼットの中でした。でも美月さんがもっ茶を飲んでいたのはリビング。異能の効果時間が切れた美咲さんが寝室の調査を続けられたことからもわかるように、リビングから寝室の様子は見えません。無論、寝室からリビングの様子も見えません。でも、睡眠薬はもっ茶に仕込まれた。犯人は美月さんがそれを毎日飲むと知っていたから」
「……あれ?」
その奇妙さに気づいたのか、尾鷲が首を傾げた。
彗梨は言う。
「そうです。リビングの様子を見れなかった美月さんが、美咲さんが確実にもっ茶を飲むと予測できるとは思えません。伊野さんがもっ茶に睡眠薬を仕込むのは不自然なんです」
「……待てよ、それじゃあ」
「はい。睡眠薬を仕込めるのは、美月さんのことを良く知っている人。なおかつ、あのオートロックのマンションの部屋にこっそりと侵入できる異能を有していなければなりません。そしてその人は、一見するとなんの証拠とも思えないこのヘアピンを証拠として持ち出し、伊野さんを追い詰めようとしていた人物でもあります」
つまり、
「犯人はあなたですね、美咲さん」
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