まだ二分しか歩いてないぞ?

 外は雲一つない快晴だった。もう日も傾きかけてきた時間だというのに、湿度が高いせいか肌にまとわりつくような熱気を感じる。


 そんな中、彗梨は往来に設置されたベンチに座り込んでいた。


「そろそろ行けるか、彗梨」

「待ってください尾鷲さん、もう少し休憩しましょう」

「休憩……って」


 尾鷲はちらりとスマホで時間を見ると、やや困惑ぎみに言った。


「まだ家出てから二分しか歩いてないぞ……?」


 そんなことはわかっている。

 だが疲れたものは疲れたのだから仕方がないではないか。冷房の効いた部屋の中からこの暑い屋外に出きたせいか、それとも単純な運動不足か、彗梨の体は限界を叫んでいた。

 

「今日が暑すぎるのが悪いんです。天気が曇りならもう少し歩けました。人間は日光を浴びて生きていけるようにはできていません」

「吸血鬼かお前は。言うほど日差しは強くねえし」


 そのあとに「まあ蒸し暑いとは思うけどな……」と付け足す尾鷲だが、口調には明らかに呆れの感情が滲んでいた。

 一方、美咲は本当に心配そうな顔で訊いてくる。


「あの、本当に大丈夫ですか?」

「……ありがとうございます、美咲さん。でも大丈夫です。……あと少し休めば」

「そ、そうですか……」

「ほら尾鷲さんも。美咲さんを見習ってもう少し私に優しくしたらどうですか?」

「……たぶんそれ、優しさじゃなくて困惑だぞ」


 そんなことを話しているときだった。

 ふいに美咲が何かを見つけて口を開いたのだ。


「あれは……」

「美咲さん?」


 不審に思う彗梨だったが、尋ねる間もなく美咲は駆け出した。そして歩いていた大学生くらいの長身の青年に駆け寄り、呼び止めた。

 どうやら二人は知り合いらしく、青年は美咲を見ると露骨に嫌そうな顔をした。


「……またてめえか。なんでこんなとこにまで」

「偶然です。それよりお姉ちゃんのこと……」


 と、美咲の言葉の途中で被せるように青年は言う。


「しつけえよ、うるせえな! 美月は自殺したんだ。それがすべてだ」

「なっ……そんなはずない! お姉ちゃんが自殺なんて!」


 話の流れから察するに、どうやらあれが初川美月と同棲していた男らしい。

 美咲から聞いた名前は岸根隼人きしねはやと。大学生だ。


「……向こうから来てくれるなんて。私たち運がいいですね、尾鷲さん」


 疲れ切っていたので本当にありがたい。

 そんな気持ちで言う彗梨だが、隣から尾鷲の返事がない。

 

 不審に思うが、それも一瞬。

 返事がないのは当然だった。何しろ尾鷲は、美咲と岸根の会話に割り込みに行っていたのだから。


「まあまあ、言い争いはそのくらいで」

「……誰だてめえ」


 眉間に皺を寄せて尾鷲を睨む岸根。

 だが尾鷲は怯むことなく、強い口調で言い返した。


「尾鷲恢。糸継彗梨の夫だ」

「……誰だそいつ」


 ……尾鷲さん、あなたって人は!

 今すぐ訂正しに行きたい彗梨だが、ちょっと立ち上がるのがしんどかったので静観することにした。


「お姉ちゃんが自殺するはずないんです。だから、」

「しつけえ。知るかよ、死んだ女の考えてたことなんか!」

「なっ……そんな言い方!」

「言い方で過去が変わるかよ。もう諦めやがれ!」

「まあまあそこをなんとか。俺に免じて」

「てめえに免じる理由がどこにあんだよ! つーかほんとに誰なんだてめえは!?」


 彗梨は嘆息した。まったく、酷い会話である。

 どうやらこのまま尾鷲に任せていてはどうにもならなそうだ。

 そう考えた彗梨は、意を決して立ち上がり三人の下に歩み寄った。 


「待ってください、岸根さん」

「……今度は誰だ」

「糸継彗梨といいます」

「糸継……?」


 岸根は訝るように尾鷲を見た。たぶん何か誤解していた。


「その人は私の夫ではありません」

「……?」


 岸根はますます困惑を深めた顔をした。

 わざわざ説明するのも面倒なので、彗梨は諦めて本題に入ることにする。


「岸根さん。お願いします、お話を聞かせてもらえませんか」

「てめえも俺を疑ってんのか?」

「違います。私はただ、知りたいだけです」


 岸根は眉間の皺を深くする。


「知りたい? 何を?」

「美月さんが死ななければならなかった理由を」


 彗梨は岸根の目をまっすぐに見て言う。


「あなたも気になるのではないですか。恋人だったというのなら」

「はぁ? 俺が死んだ女にいつまでも執着する男に見えんのかよ」

「そうではありません。自分がいつまでも疑われるのは居心地が悪いでしょう。でも美月さんは一緒に暮らしていたその部屋から飛び降りて死んだのですから、疑われるのは仕方のないことです。何かしらの方法であなたの潔白が証明されない限り」


「……つまり、俺が犯人じゃない証拠をてめえらにも見せろと?」


 彗梨はゆっくりと首肯した。


「そうしていただけたら、私たちはもうあなたには関わりません」

「……ちっ、わかったよ」


 岸根は吐き捨てるように言った。


「俺の部屋を見せてやる。そうすりゃお前らも、あいつは自殺だとしか思えなくなるだろうよ。ついてこい」


 そうして岸根は、彗梨たちの返事も聞かずに歩き始めた。


 ――うまくいった。

 そう思いながらも、同時に彗梨は絶望する思いだった。


 ……できればもう少し休憩したかった、と。

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