とあるYでの出来事

【フォート・ジェームズ社】

 >【仲居】

 >【ハイレマイ】

 >【ダンクシュート】

【渚にて】

【システマチック】


 ================


 目が覚めると、窓の外の暗い、見知らぬ部屋にいた。そう思ったのだがよく考えれば当然のことで、機能からこの旅館に宿泊しているのだからさして不思議なことではない。頓珍漢な事を考える自分に苦笑し、寝起きで靄のかかった頭をすっきりさせようと朝風呂に入ることにした。昨日も利用した大浴場は源泉かけ流しとの評判通り、きつい硫黄の匂いと引き換えに凝り固まった疲れを流し去ってくれた。あの匂いならば目覚ましにもちょうどよかろうと階下に降りて道を進むのだが、朝も早いとあって人の気配もない。かろうじて帳場には人が座っていたものの、あとは静かなもので旅館に自分一人しかいないのではないかという気分にすらなる。そんな馬鹿な、と首を振って大浴場の女湯の暖簾をくぐると、先客があった。


 脱衣所に並べられたかごの一つには旅館に据え付けの浴衣が脱いであり、仕切り戸の向こうからは水が揺れる音だけが聞こえているのを見るに、私と同じく朝風呂にきて湯船で温まっているのだろう。一番乗りでなかったことに少し気落ちはしたが、早く風呂に入りたい一心で着たものを手早く脱ぎ捨てると、湯殿への扉を開けた。途端に硫黄の匂いが強くなり、それだけで頭の一部が覚醒する。朝の冷気に晒された湯面から立ち上る朝霞の向こうに人影が見えたが、まずはと体を清めるために洗い場へと向かった。


 寝汗を石鹸で落とし、解いた髪を軽く流すと、徐々に体温が戻っていくのがわかる。目覚めるためならばこれで十分なのだが、本題はやはり温泉であるから最低限身を清めると、髪をまとめて湯船に向かった。扉を開ける音か蛇口をひねる音かはわからないが、先客も私に気がついていたようで、湯船に入ってくる私に軽く会釈をする。ショートカットで小柄な彼女に会釈をし返すと胸まで温泉につかりふぅと息を長く吐いた。地の底で温められた水が熱を四肢まで行き渡らせる快楽に身を委ねている間、水音だけがしばらく響く。


 水面の歌声と母なる大地の腕の温かさに思わずうつらうつらしていると、扉の開く音がした。目を向けてみれば、霞の向こうにまた一人の人影である。なんとなく先客の女性と顔を見合わせたが、気にするほどのことでもないので再び温泉を楽しんでいると、新客が湯船に入ってきた。


 その女性はまさしく目の覚めるような美人で、芯の通った眉と高い鼻、そしてぽってりと肉付きの良い唇がなんとも印象的である。その女性は湯船にすっと入ってくると、私達の向かいに腰を下ろした。そのままなんとなく私達三人で見つめ合っていると、新入りの女性が口を開いた。


「お二人でご旅行ですか」


 その言葉に先客と顔を見合わせたが、彼女の言う意味に気がついて慌てて否定した。慌てっぷりがあまりにもおかしかったのか、新入りは口に手を当てて忍び笑いをする。その様子があまりにも様になっていたので、思わず二人揃って見惚れていると、彼女は湯船で火照った頬を更に赤くして恥じらいを顔を傾けることで表したのだが、その動作がまた色っぽく、同性にも関わらずヘソ下がむず痒くなる。なんとなく気恥ずかしくなって話をそらそうと、先客に水を向けることにした。


「そういえば、先客さんはどれぐらいこちらに?」


 問われた先客は見惚れていた顔をハッとさせると、赤い頬を隠せないまま表情を取り繕って咳払いをする。曰く、彼女は今日で四泊目。一週間の予定も折り返しで、来週からはまたデザイナー業に逆戻りとのことである。実のところ湯船にどの程度浸かっていたのかを聞こうとしたのだが、よく考えればそれはそれで助平に聞こえる質問だったかと思い直し、まだ目覚めきっていない頭に愕然とした。


 私はどれぐらいかと聞かれたので昨日着いたばかりだと答えると、必然話は新入りの彼女へと向く。よくわからない期待がこもった瞳で尋ねる私達に、彼女は曖昧に笑いながら答えた。


「ええ、まあ長いですよ」


「長いというと、一月ですか」


「いいえ、もう少し長いです」


「なら、二月やね」


「まあそんなところです」


「はあ、えらいもんやな。お大尽様や」


 先客が茶化すように言うと、そうでもありませんよと彼女は笑ったが、彼女が由緒正しい家の令嬢でも不思議ではないなと私は心の底で思っていたし、先客もそう思っていたことだろう。それほどに整った容姿だったから、なんとなく詮索するのも気後れがして、また無言になる。やがて、先客がお先にと風呂を上がるのに合わせて私も脱衣所に向かうと、後ろから「良い旅を」と声がかかる。その言葉に振り返ったが、朝もやの中に彼女の影は紛れてよく見えなかった。


 脱衣所に入ると先客が下着姿でいたが、難しい顔をしている。どうしたのかと尋ねると、いやな、と前置きをして深刻そうな顔で言った。


「最後に入ってきた彼女、おるやろ」


「ええ、あの美人の」


「あん人のな、着替えが見当たらんねん」


 話を聞いてみると、風呂場から出て体を拭いていると、着替えの入ったかごが二つしかないことに気がついたのだという。まさか全裸で風呂に来たわけでもないし、どうしたことかと悩んでいたそうなのだが、私にはその種が見えていた。


 なんのことはない、かごが積んである井桁の棚の一番上に載せられたかご、そのふちから着物の端が見えていたのだ。その着物は私達が来ている浴衣ではなく、この旅館の仲居が着ているものであった。


 要するに、朝、客が起きてくる前にこっそりと風呂に入ろうとしてきた仲居と、早起きした泊り客が鉢合わせしたというだけのことなのである。


 確かに、従業員が客と一緒に湯船には入れまい。だからああも歯切れが悪かったのだろう。衣があんなに高いところにあるとは、特に背の高いこともなかった彼女のことだ、ダンクシュートのように飛び上がって入れたに違いない。そう思うと、なんとなく笑いがこみ上げてきた。


 一方、そうとは知らない先客は、まさか、幽霊か、あれほどの美人、この世のものであるはずない、などと温泉で温まった体もどこへやら。顔を青くしている。かわいそうに思って種を明かしてやろうと思ったが、少し考えてやめることにした。この世には少しぐらい不思議にしておいたほうが丸く収まることもあるだろう。


 そう思いながら、肌に乗った汗と湯の名残を拭き取るのだった。


 ================


 一言:ホラー路線にしようかと思いましたが止めました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る