帰ってこれなかったVの場合
【沢渡温泉】
>【ワンダフル】
【オッテルロー】
>【近衛兵】
>【雪風】
【イクスパイリー】
================
雪原を老人が歩いている。その帽子とマフラーの間からは老木のような肌が覗き、激しい呼吸が規則正しく霧となって防寒具の隙間から漏れていた。そして、その老人から遅れて百メートル程度、もう一人の男が彼を追ってゆっくりと、しかし確かに歩み寄っていた。追う男の手にはライフルが握られ、その安全装置は外れている。
と、男が手に持った銃をかまえ、引き金を引く。銃声が雪原に響き、それとほぼ時を同じくして老人の脇の雪原が爆ぜた。それに老人はわずかにのけぞると、徐々に遅れ始めていたその歩みを早める。
「ああ、そうだ。逃げろ、イリア。お前の足が止まるまで、俺は追い続けるぞ」
銃を撃った男はそう言うと薄く笑い、再び追跡を再開した。同じ様なことが何度か続いたころのことである。老人は足を止めると、空を見上げた。
「どうした、イリア。もう限界か?」
銃を構えた男がそう問うたが、老人は答えず空を指して言った。
「若いの、ここらで休戦にしないか。間もなく吹雪くぞ」
しかし、それを聞いた男は無言で発砲し、老人の帽子が吹き飛ぶ。老人は肩をすくめて息を吐き出すと、帽子を拾い上げて再び歩き始めた。それを再び追う男。二人連れの道行きはしばらく続いたが、やがて老人が言ったように雪が舞い、風も強くなってきた。
雪風は見る間に強くなり、やがて男の視界から老人の姿を隠すほどになった。それでもわずかに残る足跡を頼りに追跡を続ける男だったが、その足跡もとぎれとぎれになり、足取りも重くなっていく。男が顔をしかめながらも歩き続けていると、突然男の姿が雪原からかき消えた。
見ればクレバスが雪原に口を開けており、男はその縁に辛うじて掴まっている。手に持ったライフルは奈落の底へ飲み込まれ、なんとか我が身一つでもと這い上がろうとする男だったが、新雪の滑らかさと氷の冷徹な硬さがそれを許さない。それでも生き足掻こうとしていた男だったが、寒さと疲労から急激に体力は奪われ、意識が遠のいていった。そして、いよいよ前後不覚になり、力の抜けた男の手を掴む者がある。男の霞んでいく視界には、マフラーで表情の見えない老人の姿が映ったように見えた。
そして、次に男が目を覚ますと、携帯ランタンに照らされた雪の壁の中だった。ぼやけた意識で周囲を見渡してみると、ランタンを挟んで向こう側に、自分がイリアと呼んだ老人が座っている。とっさに銃を探そうと手を動かしたが、空を切ったところでようやくクレバスに落ちそうになったことと、その後のことを思い出した。
「いきなり動かない方が良い。ただでさえ消耗しているんだ」
老人の忠告に、男は警戒した猫のように睨み返すと、しばらくかまくらの中には外の吹雪が吹き付ける音だけが響く。
「なんのつもりだ」
やがて男が口を開くと、老人は手に持っていた包を投げ渡す。思わず身を引いた男だったが、その銀色の包からチョコレートが覗いているのを見るとますます訝しげな表情になった。
「別に毒なんぞ入っちゃいないよ。まあ自由にすれば良いがね」
そう言ってまた黙りこくる老人をしばらく眺めていた男だったが、老人がそれ以上の動きを見せないでいると恐る恐るチョコレートを拾い上げ、一欠片口に含む。その途端、男の顔に血色が戻り、今にも閉じられそうだったまぶたは見開かれ、銀紙の中のチョコレートを貪るように食べ始めた。
その様子を老人は静かな目で眺めていたが、短く息を吐くと視線を宙に彷徨わせた。やがて、血色の戻った男が老人を見ると、急に問いかけられる。
「若いの、名前は」
男は答えず、困惑気味に唸るばかりだったが、老人は再び同じ問いかけをする。男はしばらく悩んでいたが、やがてポツリと
「プロスペロ」
とだけ呟いた。それから再び雪風のたてる音だけが響いたが、やがて老人が独り言のように話しだした。
「プロスペロ、私はお前を氷河の割れ目から救い出したな」
「だから何だ?それで俺達のファミリーを騙したことが帳消しになるとでも?」
「そんなつもりはないよ。ただ、そうだな。もし少しでも恩を感じてくれるなら少し昔話に付き合ってくれんか」
「それで同情をひこうとでも?詐欺師らしいな」
「なんとでも言うが良い」
そう言うと、老人は語りだした。
私はソビエト連邦の兵士として、第二次大戦、スターリングラードで戦った。あの戦場はひどい地獄だったと言われているが、私にとってはそれほどの印象はない。私は後方の補給部隊で、反抗間際にこそ戦線の近くにいたものの、それ以外は訓練どおりに行軍するだけの退屈な戦場だったよ。
私は本当は近衛兵になりたかったんだが、昔から視力が悪くてなれなかった。それで後方任務に回されたというわけだ。ただ、心の何処かでほっともしていたよ。銃を打ち合うのは怖かったのさ。
しかし、反抗間際となるとそうも言っていられなくなった。訓練でしか構えたことのない銃を手に塹壕に入り、ドイツ軍の陣地めがけて狙いをつけた時、祖国への忠誠と人としての良心が私の中でせめぎ合っていた。
もちろん、号令とともに引き金も引いた。数十発は撃ったが、多分一発も当たらなかっただろうな。私が恐れていたのと、そもそもその戦いはただの威嚇だったのだ。だから人を殺さずに済んで、心のなかでは安堵したよ。周囲にいる連中も上官以外は同じような顔をしていたな。
それで、私が戦場で銃を撃ったのはそれっきり。退却してまた補給任務に戻り、戦線も押し上げられたからだ。
補給先の中継拠点で哨戒にあたっていた時だ。ドイツ人のヘルメットが雪の向こうに見えた気がした。それで、慌てて報告を上げて、山狩をすることになったのよ。
それで総出で周囲を捜索したんだが、雲行きが怪しくなって一度中断することになった。そんな時だ。ボロボロの服を着たドイツ兵を私が見つけてしまった。反射的に追いかけると、そのドイツ人は当然逃げるさ。それで追いかけているうちに吹雪になって、視界がどんどん悪くなる。それでもお前と同じようにドイツ兵を探したよ。戦わなかった負い目もあったんだろうな。それで追いかけてるうちに、雪庇を踏み抜いて落下しそうになった。
それで崖に捕まって、どうしようかと途方に暮れていたときに、私を助けたのがあのドイツ兵だったのさ。
なぜかと英語で尋ねると、そのドイツ兵は下手くそな英語で、「つい助けた」だとさ。あれには呆れたよ。
そこまで話すと、老人は口をつぐんだ。
「それで俺を助けたと?ほだされるとでも思ったか?」
バカにしたような男の言葉に老人はゆっくりと首を振った。しかし、男は信じずになおも嘲って言う。
「そんな感動話で騙そうっていうんだろ、詐欺師め。どうせ敵同士でもわかり会えるだとか幸せな話をするつもりなんだろうが」
「殺したよ」
老人がなんでもないように言った言葉に、男はギョッとして動きを止めた。
「私は引き上げてくれたそのドイツ兵を後ろからナイフで刺し殺した。任務だったからな。それで、吹雪の中死体と一晩を明かした」
男が二の句を告げないでいるうちにも老人は淡々と話し続ける。
「それで表彰もされ、年金も少し上がったがね。あれからずっと戦争から心が帰ってこない」
そうして日常の中にいられなくなった私は、詐欺を働くようになり、それが巡り巡ってこのザマだ。と、老人は疲れた声でこぼす。だから、と言って男を見た老人の目はランタンの明かりの影になって暗く深い色をしていた。
「次は私の番だと思ったのさ。プロスペロ。そのコートの中のナイフでしようとすることをするんだ」
言われた男は、思わずコートの内ポケットに伸ばしていた手を引っ込めた。しかし、すぐに再び懐に手を入れ、引き出されたその手にはナイフが握られている。老人の顔にナイフで反射したランタンの光が当たると、彼は眩しそうに目を細め、そのまま目を閉じた。
男はナイフを振りかぶったが、しばらくその体勢でいると、息を吐いて目を閉じる。そして、ナイフを懐へとしまった。
「どうした、殺せ。殺せ!」
老人は男にすがりついたが、男はそれを払いのけると、かまくらの口から外を覗いて言った。
「いや、やめておこう。この景色の記憶に、赤い色は必要ない」
老人が倒れたまま外を見ると、いつの間にか吹雪は止み、ダイヤモンドの雪原が日差しを浴びて一面に輝いていた。
「ああ、吹雪が、吹雪が止んだ」
そう言って、老人は泣き崩れ、その声を背に男は雪原に足跡を刻みつけていく。それからしばらくして、雪原には二方向に向かう足跡が刻みつけられたが、それも再び訪れた吹雪に飲まれて消えた。
================
一言:一人だけならね……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます