撮影現場でのQ

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 暗い夜道、赤レンガの壁で隔てられた路地を一人の女が歩いていた。ガス灯がもたらす文明の光の外、星の夜よりも尚暗い闇の奥からは姿の見えぬ獣の息遣いが感じられる様に思え、そのために女の足取りは自然とその歩みを早める。


 これは全くの偶然だったが、女の行動は正しかった。闇の奥には確かに獣が潜んでいた。その獣の目は赤く充血し、よだれを垂らしながら股座を隆起させている。その荒い息遣いはけれど努めて押し殺され、女の耳には届かない。仮にその一呼吸でも女が聞いていたならば、これから起きる悲劇は起きることなく夜は明けただろう。しかし、そうはならなかった。


 ならなかったが故に、人面をしたその獣は、今まさに女が通り過ぎた街頭が照らす暗闇のすぐ外にまで歩み寄っていた。


 女にとってもう一つ不幸であったことは、獣が照らされた道のすぐ外にいるその瞬間に後ろを確認したことだろう。もしも一秒遅く、もしくは九秒早く振り返っていたならば、後ろから忍び寄るその影を認め、駆け出すことができたからだ。その間の悪さのために、女の運命はまさにそのために、決定づけられた。


 女が十秒おきのルーティーンを行ったまさにその瞬間、彼女の目には出刃包丁を振りかぶった獣の姿が映った。女の体が恐怖ですくみ、咄嗟の悲鳴を上げようと目と口が大きく開かれ、息を吸い込む。それと同時、獣は振り上げたとは逆の手を女の口元へ凄まじい速度で突き出し、それと同時に。


 ビデオライトが倒れ、けたたましい音と共にガラスの破片が散らばった。


「カーット!」


 男の怒号が響き渡る。


 突然のことに固まっていた二人だったが、照明がつくと二人してため息を付き、どこか肩の力を抜いた。


「馬鹿野郎、てめぇ、アカリぶっ壊して撮影どうすんだ!」


 平謝りをする照明係を尻目に、追われていた女が小道具を整理しているスタッフの方へと気のない足取りで歩いていった。


「はぁ、また雷が落ちたわね」


「あ、ヨシナガさん。カントクのあれは始まると長いですからね。今のうちに少し休んでください」


 ヨシナガと呼ばれた女はひらりと手を上げると隅に並べられたパイプ椅子に腰掛ける。それを見た女性が、部屋の隅から歩み寄り魔法瓶を差し出した。ヨシナガはそれに顎で礼をいうと、蓋に瓶の中身を注ぐ。その蓋から紅茶の香りと共に湯気が漂うと、息を吹きかけながら少しずつ喉を潤し始める彼女。その姿は先程の漠然とした恐怖を抱えた姿とは全くにつかない、ともすれば爛漫な少女にも見えた。


 カントクと呼ばれた男、実際に監督なのだが、の怒鳴り声を背景に、女は魔法瓶を渡したのと同じ彼女の付き人から台本を受取り、読み返し始める。


「ちょっと、イケダくん。次のシーンなんだけど」


「僕ですか、次というとボクが馬乗りになる?」


 イケダと呼ばれて振り返ったのは先程までヨシナガに襲いかかろうとしていた男である。


「ちょっと待ってください。この、あーっと、股間の詰め物が邪魔で動きにくくて」


 小股でヨシナガに近づいてくるイケダ。イケダが近付いた時点でヨシナガは台本を彼に見せると、指で示しながら相談を始めた。


「このシーン、私が倒れるのをノーカットで回すって聞いてるんだけど、下って地面じゃない。だから、一旦壁の方によれてから横になりたいんだけど。それに、そのほうが抵抗してる感じになるじゃない?」


 聞かれたイケダは少し考えると頷いた。


「確かに、怪我のリスクもあるし、そのほうが自然かもしれない。それなら、少しだけもみ合う演技も入れた方が良いかもしれませんね」


 でしょ。と破顔するヨシナガに赤面するイケダ。微笑ましい光景だったが、そこにカントクの雷が落ちる。


「ヨシナガ、イケダ、何くっちゃべってんだ!」


 思わず背筋を伸ばして謝る二人。しかし、カントクの雷は止まらない。


「大体な、聞いてりゃ壁によれる?もみ合うだ?馬鹿言ってんじゃねえ!お前ら出歯亀も知らねえのか!」


 その言葉に顔を見合わせる二人だったが、その仕草が監督の怒りに油を注いだ。


「あのな、出歯亀ってのは 8年に起きた婦女暴行殺人の犯人だ。まあ冤罪だかなんだか知らねえが、そこはどうでもいい。この犯人はな、女湯を除くようなスケベ野郎でソレが高じて女を強姦殺人しちまったって奴だ」


 二人のはあと気の無い返事に井桁を増やすカントクだったが、こらえて続ける。


「その殺された女な、布を噛まされてたとはいえ、鑑識によるとロクに抵抗せず押し倒されたって話だ。解るか、人間なんてのは訓練でもされてなきゃ咄嗟のときは体が縮こまって何もできねえんだよ。だから、もみ合うってのはウソのシャシンだ。こんなポンチ映画とお前らは思ってるかもしれねえがな、どんな相手でもシャシンにだけは嘘をついちゃいけねえんだ。解ったら書かれたとおりに演技しろ、マヌケ!」


 最後に再び落ちた雷に二人は身をすくめると赤ベコのように首を縦に振った。しかし、カントクの積乱雲はいまだ強い風雨をもたらす。


「大体な、さっきの演技はなんだ、ヨシナガ」


「え、アタシですか」


「他のどこにヨシナガサマがいらっしゃるんだよ、ウスラトンカチ!いいか、お前は後ろに気配をなんとなく感じつつも夜道を急いでるんだ。それで気になって後ろを何度も振り向く。だから、振り向くタイミングってのは気が張り詰めきった瞬間であって、一定の間隔で振り向くもんじゃねえんだ。それをなんださっきのは、コチコチコチコチ振り子時計かオマエは!」


 ハイと消え入りそうな声で答えるヨシナガを哀れに思ってか、イケダが口を開こうとするが、それよりも先に矛先が彼を向く。


「イケダ!お前もだ!お前はこの女を襲うために細心の注意を払って、猟犬のように静かに忍び寄ってるんだよな。それなのに、なんでわざわざ明かりの真ん中を突っ切って歩くんだ。端を歩け端を!お前は女を襲う瞬間まで闇の中でいるかもわからない怪物なんだ!それが長時間明かりの中で姿が解るほど呑気に歩いてたら興ざめだろうが!ちゃんとホンを読めホンを!」


 その怒号にイケダも肩を縮めてハイと返すしかない。


 それにカントクは鼻を鳴らすと、踵を返して様子をうかがっていたスタッフに告げる。


「よーし、今のカット取り直すぞ。ドウグは地面均しとけ」


 その言葉にまたですか、これからですか、と各所から不満が上がるが、カントクが一睨みすると途端にシンとする。


「よーし、フィルムは。しっかりアグフアのカラーだな?回想用のモノクロと間違えるなよ」


 カメラの設定や位置を変えた照明などをカントクが確認する内にセットが撮影の空気に包まれていく。


 柳川市でこのように撮られた映画、その興行成績が以下ほどだったかはここで語ることはしないが、撮影現場には熱気が溢れ、それが作った積乱雲が毎度のように雷を落としていた。


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 一言:映画の用語はわからんです。

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