心残りがあったOさんの場合

【カシャン砂漠】

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【ULFA】

【ナハリン】


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 くね垣(竹垣)で道と隔てられた、よく整えられた庭。春に芽吹いた生命の香りがむせるほどに籠もったその庭に臨む和室の中央に布団が敷いてあった。敷布団と掛け布団の間には人一人には少し足りないほどの距離があり、その二つの間にはまさに一人の女が挟まっていた。常ならば寝ていると表現するであろう景色を何故挟まっていたと評したかといえば、その女は命の匂いがあまりにも希薄で、自分の意志で横になったものか誰かに寝かされて挟み込まれたものか判じかねたからである。


 女がともすれば蝋人形にも見えそうであるのは、その女が肺の病に犯されていたからである。女の家族がこの庵を与えたのは、海の向こうであっても特効薬のないこの病に罹った女への恐れと憐れみからであろう。本来肺病に罹った者は空気の澄んだ所で静養をさせるものであるが、女の生家はすでに田舎であったからこれ以上動かすというわけにもいかない。幸い、その家は地主であったから金銭に困って恐ろしいことをするような羽目にはならなかったが、新しい離れを立てるわけにもいかず、人通りも少ない故よかろうと、道に面したこの庵が与えられたのである。


 そのような経緯であるから、女の肌は生白く、腕は枯れ木のようであり、髪は脂で鈍く輝いていた。さらには、肺病の患者特有の体臭をごまかすために焚かれた香が女の汗と混じり、眉をひそめたくなるような臭気となっていた。


 このような形の女ではあったが、病に罹る前はむらでも美人と評判であった。肉付きの良い頬とすっと引かれた眉、そして雪の中の椿のような唇がすれ違う男を振り向かせていたものである。しかしそれも昔の話であった。


 女自身も自らのその定めを受け入れていると見え、生きようとする気概が見えぬために、眼前の庭と対極の死の香りを孕んでいた。


 しかし、その女が僅かに生気を取り戻す瞬間があった。それは、毎日決まった時間。くね垣の向こうを足跡が通る瞬間である。その一日二回、僅かな間だけ泥の中にいるような女の目は儚くも輝きを取り戻すのであった。女は道を通る足音を「てくてくさん」と密かに名付け、「今日はてくてくさんが早足だわ」であるとか、「てくてくさんの足音が重いのだけれど何を運んでらっしゃるのかしら」であるとか、一人で楽しんでいたのである。


 そんな一方的な交流が半年ほど続いた頃のことであった。いつもの様に「てくてくさん」がくね垣の前を通っていると、何かが地面に叩きつけられるような音が響き、足音が途絶えた。垣の向こうから音が聞こえなくなったことに不安になった女は、思わず声を掛ける。


「もし?」


 しかし、その声はか細く、木々のざわめきを超えて垣の外へ届こうとは思えないものであった。それ以上の大声を出せそうにないと悟った女はどうしようかと困り顔になったが、意を決するとふらつく体で庭先へと出る。長いこと動こうとしなかった体は嵐の中の小枝ほど頼りないものであったが、何のご加護から縄でまとめられた竹までたどり着いた女はもう一度、


「もし?」


 と声をかけた。


 すると、垣の向こうから驚いたような声が上がる。女は続けて、


「もし、大事ないでしょうか」


 と問うた。すると、落ち着いた若い男の声が返ってくる。


「ええ、ご心配をおかけしたようで」


 そのままなんとなく無言になる。女の方はああ、殿方に声をかけてしまって端のないことをしてしまったと今の姿には似合わぬ仕草で頬を染めていた。そのまましばらく木々のささやき声が二人を見守っていたが、ここまで来たならば一緒と破れかぶれになったか、女は再び話しかけた。


「あの、わらじでも引っ掛けたのでしょうか」


「へ、ああ。はい、尾が切れまして」


 男も演技の悪いことをしたと思ったのか、バツの悪そうな声で返す。それに思わず吹き出す女。しかし、久しく笑っていなかった喉と肺の病が、笑い声を激しい咳へと変える。呼吸もままならぬほどの激しい咳に慌てた男が無事かと尋ねるが、女は返事をしようにもできない。すると、男は少し考え込むと、ゆっくりとした落ち着く声で語りかけた。


「僕の声が聞こえますか。そう、僕の声に集中して」


 そう言って深呼吸を促す声に女が従うと、少しずつ咳が収まっていく。やがて、女が形で息をするだけになると、男はそれきり黙ってしまった。


「あの、有難うございます。お医者様でいらっしゃいましたか」


 そう女が尋ねると、しばらく間があって肯定の声が帰ってきた。


「本当に助かりまして、なんとお礼を言えばよろしいか」


 恐縮する女に男は慌てて返す。


「いえ、医者と言っても日医に入ったばかりの卵でして」


「そんなこと、本当に感謝いたしておりますの」


 堂々巡りの問答を繰り返すうちに、どちらともなく笑い出す二人。その控えめな笑いが、女の新しい日課の始まりになったのである。


 てくてくさんが垣の向こうを通る頃に、女は庭に出て待ち構えるようになった。そして、毎日同じ時間にいくつか言葉を交わすようになったのである。生きがいと動く習慣というのは重要なもので、在りし日のようにとはいかなかったが、女の肌にもいくらか水気が戻り、足取りも多少はしっかりとしたものになっっていく。


 女の家のものも、近頃は体調が良さそうだねえと喜んだが、女の関心は腫れ物のように自分を扱った家族よりも、一日数分ほど会話するだけの「てくてくさん」へと向けられていた。


 ところが、この関係にも暗雲が立ち込め始める。大日本帝國は欧米列強との戦争へと突入したのである。自分はもとより、医師である「てくてくさん」も徴兵に関係ないことと思っていた女であったが、ある日「てくてくさん」から告白されたことに心底驚くことになる。


「お嬢さん、僕は戦争に行くことになりました」


「そんな、だってお医者様は徴兵なんて」


 その声にしばらく沈黙で答えた男であったが、やがて絞り出すように白状した。


「僕は、医者でもなんでもないんです」


 女が困惑のあまり声を漏らすと、男は堰が切れたように話し出す。


「僕は、確かに医者を目指していました。しかし、帝国大学にも軍学校にも入れず、浪人しているだけの男なのです」


 曰く、知識だけは蓄えていたが、緊張しいで本番に弱く試験は散々であること、女の喜んだ声が美しくて思わず喜ばせるような見栄を張ってしまったこと、家が貧乏であるからそろそろ夢を諦めようとしていることなどを泣き声で話す男。それを女は黙って聞いていたが、最後に男がつぶやいた言葉に思わず待ったをかけた。


「ごめんなさい。僕のことは忘れてください。戦場から帰ってこられるともわかりませんので。これまでのこと、本当に申し訳ありませんでした」


「お待ちになって」


 初めて話した頃からは見違えるほど大きくなった声で女が引き止めると、男は肩をはねさせる。その姿が見えるはずもないのだが、女はその背中をしっかりと見据えながら言った。


「あなたがお医者様でなくても、私よろしくてよ。あなたは私のお友達ですもの。お友達の見栄ぐらい笑って許せますわ。ねえ、てくてくさん」


「てくてくさんとは?」


 思わず聞き返した男の声に女は思わず赤面した。心のなかで密かに呼び続けていた名前を思いがけずバラしてしまい、気恥ずかしさから黙り込んでしまう女。その心情を汲み取ったか、くすりと笑う男。それにつられて笑い出す女との二つの笑いは、始まりよりも片方は強く、もう片方は弱くなっていたが、それがちょうど同じ程の大きさになっていた。


 やがて、「それでは」と言って辞そうとする男に女は「お待ちになって」と声を掛ける。男が訝しんでいると、くね垣越しに包んだ布が放り投げられた。男が蝶の刺繍があるそれを開くと、中には縮れた毛が何本かむしられている。男が驚いて問い返す暇もなく、女は慌てた声で言った。


「その、弾除けには効くと思いますので。そういうことですので」


 女が赤面していると、男は「ありがたく頂戴します」と布を懐に入れ、深く一礼し、声をかけた。


「僕の名前は」


「結構です」


 にべもなく断られた男があっけにとられていると、女は続ける。


「それはあなたが帰ってから聞かせていただきます。ですから、今は結構です」


 それを聞いた男は無言で再び一礼すると、「てくてくさん」の足音で遠ざかっていった。


 しかし、その言葉が果たされることはなかった。「てくてくさん」が通らなくなってから一年後、女は肺の病で彼岸へと渡ったからである。女の遺体は荼毘に付され、その煙は風に乗って流れていった。


 その風が海を渡り、鉄と血と火薬の匂いが漂う土地にたどり着くと、地面に半ば埋まっている蝶の刺繍がなされた布を揺らした。布と風はしばし戯れていたが、やがて、布のほつれと風空へと登っていく。その空で鳩がホゥと鳴いたが、その姿はどこにも見えなかった。


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 一言:鉛の兵隊(しっかり者のすずの兵隊)リスペクトです。

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