[*]情緒不安定なL氏の場合
【イエンタイ】
【ワシントン州】
>【野に下る】
>【ワジ・アル・ヒタン】
>【ワイン・ビネガー】
【WAZA】
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この国の女王はかつて、ワイン・ビネガーに真珠を溶かして飲んだという。実際に試せば、真珠がそう安安と溶けることはないのだが、冨貴の業を示す逸話としてはぴったりだろう。
人魚の涙が真珠になったとは言うが、人魚はカイギュウになって久しい。ならば、過去に遡ってエジプトの女王が飲んだ真珠はここ、ワジ・アル・ヒタンに眠るカイジュウの流したものだったのかもしれない。
かつて、この土地はナイルが運んできた水と、長い時間をかけて育まれた大地によって豊かに実っていた。しかし、羊毛の実る草がすべてを変えてしまった。大地は塩をふくようになり、草の綿毛が落ちたかのように土は白さを増していった。そして、とどめをさしたのがナイルの上流に作られた人工のため池である。底に水を貯めるために、このデルタには肥沃な土砂が運ばれなくなった。そうして、その水たまりが生み出す電力によって、かろうじてこの土地は実りを生み出している。
ぶどうがやがてワインとなり、それがビネガーへと変化していくように、今のナイルはビネガーの時代にいる。しかし、真珠を投げ入れて飲む女王はすでにこの世にはおらず、真珠を入れようとする者も既にない。
だから私はこの国の政に見切りをつけ、野に下ったのだ。自分が船一隻に値する真珠とは思っていなかったが、なにかしなくてはならないという若い使命感に駆られてのことである。
しかし、何も変わらなかった。
大地は依然実りを拒み、路地裏からは目と腹だけが多くき目立つ痩せた子どもの瞳が私を見つめる。
「何もできなかった。何もできなかったんだ」
満天の星の下、今日の昼に発掘されたばかりのバジロサウルスに話しかける。
政治も全うできず、人道も果たせず、逃げるようにやってきたのは発掘現場の日雇労働だった。
発掘現場と言っても、ピラミッドや王家の墓の調査ではない。クジラの谷に眠る古代のカイジュウを掘り起こす仕事だ。偉大な先人の眠りを妨げるよりは気の引けない仕事だが、砂に囲まれた中で行う肉体労働は心を砂嵐のように蝕んでいいく。
今も、掘り出されたバジロサウルスにこう言われたような気がしているぐらいだ。
「なぜお前はここにいる。どうして成し遂げようとしなかったのか」
と。
何もできなかったからと言って、立ち向かい続けることもできただろう。しかし、私はしなかった。自分が何かを決めていると信じた挙げ句、たどり着いたのが人に関わらないほどの過去を見つめる今の自分だ。なんとも滑稽なジョークである。
「だったら、どうすればよかったんだ。何が、何をできたっていうんだ。お前たちなんて、はるか昔に途絶えた命のくせに!」
怒りのあまり手に持ったブラシを投げつけそうになったが、ふと我に返って動きを止める。誰も私に話しかけているはずはない。他の作業員はすでにおらず、私だけが夜の発掘現場にいるのだから。
それなのに。ようやく結果が出た仕事であるはずなのに。眼の前の化石を見ていると責められている心持ちである。耳の後ろで、お前は逃亡者だと囁く声が聞こえる気がするのだ。
「だったらどうすればよかったんだ。なあ、どうすれば」
そう語りかけても、太古の海を自由に泳ぎ回っていた巨体は砂の中で静かに眠っている。
「お前が真珠の涙を流していれば」
何にもならないと知りつつこぼし、空を見上げる。
すると、闇に慣れきった瞳がくじら座の方角で何かが光るのを見つけた。
なにかと思って目を凝らせば、光は輝きを増し、その大きさを増していく。それが何かを理解して、私は救われたきいもちになった。偉大な神が私が間違っていたと罰を与えてくださったように思えたからである。
そして、隕石が砂漠に落ちた。
その隕石は小さかったが、不運な一人の男の命を奪うのには十分な重さと速さを持っていた。
そうして死んだ男は亡骸は彼の仕事仲間が朝方に発掘現場に訪れたことで発見。
男の脇には深い眠りについた原始の鯨の骨が寄り添っており、赤い真珠のような涙を流していたという。
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一言:初隕石です。
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