彼と出会う前のJさんの場合

 >【キリスト】

【早稲田二文】

《けいふくでんてつみくにあはらせん》

 >【わらべ】

【グリザイユ】

 >【焼き菓子】


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 罪人の血と嘆きが染み渡り、草が根を張ることも木が花をつけることもない丘への道の脇を、エルサレムに住んでいる悪しき言葉を持つ者全てが埋め尽くしていた。ある男が丘に登る道行きを悪意と侮蔑で迎えるためである。ヘビのような囁きは、丘の下から一人の男の頭が覗くと、嘲笑の渦へと徐々に変わっていった。


 ボロを纏ったその男は自らが打ち付けられることになる木材を背負いながら歩いていた。額からは汗の代わりに血が流れ、口からは祈りの代わりに吐息が漏れている。彼の後ろには二人の兵士が控えており、手に持った青銅の槍をすぐにでも彼の脇腹へとつき入れられるようにしていた。


「どうしたんだい、救世主!お前の神はいつお前を救ってくれるんだい」


 太ったパン屋の女房が嘲るように言った。


「お前が預言した中にこの様になることは記されていたのかね」


 痩せた羊飼いが見下して言った。


 その他、ありとあらゆる悪意ある言葉が彼に投げかけられ、同じように礫と汚物が投げかけられたが、兵士たちはそれを見てただ笑うばかりである。


 道を囲む民衆の中には彼の弟子と思しき者たちがいたが、師を助けようとする彼らに対し男は目で制し、言った。


「いずれ、私の言ったことは真実となる。だからお前たちは備えなさい」


 その言葉に弟子たちは涙ぐんでいたが、民衆は嘲りを濃くし、罵倒の言葉は更に勢いを増すばかりである。泥のような悪意の中を男は丘の上へと登っていき、その姿を民衆たちは娯楽としてただ楽しむばかりであったのだ。


 そんな光景を、道脇のイチジクの木の上から眺める子供がいた。子供は笑うでも、怒るでもなく、響く笑い声を聞いていたが、つまらなさそうに木から飛び降りると、自分の家へと駆け出す。


 子供が家の近くまで来たときである。一人の男がうなだれて、物乞いのように土濡れの壁へと持たれるのに行き合った。子供はその男の前で立ち止まると、男の顔を覗き込む。男はひどいくまを作り、目尻を真っ赤に腫らしながら充血した目からはとめどない涙を、乾いた唇からは許しを請う言葉を流していた。


 子供がその様子をじっと見つめていると、男は子どもの方を緩慢に見やり、がらんどうの瞳で言った。


「向こうに行ってくれ。お前の瞳は私には眩しすぎる」


 子供がなおも瞳をそらさずにいると、男は怯えたように見を縮こまらせる。


「ああ、どうか見ないでくれ。私は、私は取り返しのつかないことをした」


 そう言って身動ぎした男の懐から袋がまろび出て、大地に銀貨を蒔いた。それに男は気求めず、うわ言のように許しを請い続ける。


「あの方を、かけがえのない方を売り飛ばしてしまった。たったこれだけの銀貨のために、兵士たちに密告をした。罪深いことをしたのだ」


 すると、子供は訪ねた。


「その人って、あの丘の上に上ってる救世主って人のこと?」


「ああ、そうか。もうあの方は死への旅路についたのか。しかし、私はそのそばに入る勇気も持てずこんなところへいる。あの方こそ真の預言者なのに」


 そう言って、さめざめとなく男を子供はつまらなさそうに見やると、言った。


「でも、あの人は詐欺師なんだから、罰を受けて当然だろ」


 そう言った子供に男は怒りをあらわにして詰め寄った。


「お前に何がわかる!あの方はすべての人を救おうとしたのだぞ!」


 しかし、子供は全く動じずに言った。


「だって、あの人、預言者じゃないじゃないか」


「そんなことはない!」


 声をなおも荒げる男に子供は重ねて言った。


「だって聖霊も悪霊もそう言ってたもの」


 それを聞いた男は動きを止め、呆然として子供を見つめた。子供は変わらずの表情でつまらなさそうに男を見つめる。


 男はなにかつぶやこうとしたが、その時彼の母親が彼を呼ぶ声が聞こえた。子供は弾かれるように駆け出すと、男が手を伸ばすのも気にもとめずに家へと向かう。


 子供が家に戻ると、母親が焼き菓子を用意して待っていた。焼き菓子は山羊の乳と小麦から作られた素朴なものであったが、子供はそれが一番の好物だったのである。


「全く、どこへ遊びに行ってたんだい」


「んー?そこらへん」


 呆れたように言う母親に子供は気のない返事をすると、皿に盛られた焼き菓子へと手を伸ばした。それを咎めた母親が子供の手を叩くと、子供は肩をすくめはしたが悪びれもしない。


「まったく、先が思いやられるよ。ただでさえ偽預言者が増えて、物騒だっていうのに」


 そう言うと、母親は眉根を寄せて振り返った。


「まさか、あんた偽預言者の処刑を見に行ったんじゃないだろうね」


「そんなところいかないよ」


 大げさに首を降る少年だったが、母親は少年の瞳を見やると、ため息を吐いて言った。


「いいかい、ああいうワケのわからない連中には関わるだけ損しかないんだ。石を投げる奴らだって同じだよ。頼むから近づくんじゃないからね」


 まったく、物騒な世の中なんだから。と、こぼしながら焼き菓子の皿を持ち上げる母親。その手元から焼き菓子を一枚抜き取ると、母親の怒りの声を背に、子供は家の外へと飛び出した。


 子供は焼き菓子を持って先程の男の元へと向かったが、男はすでにその場から姿を消していたため、焼き菓子は子供の胃の中へと消える。


「預言者なんてくだらないや。どうせみんな許されないんだから」


 盗みによって得た仄かな甘味を舌で楽しみながら、子供は呟いた。その頬を悪意の笑い声をわずかに運んできた風がなで、その頭を咎めるような日差しが熱く照らす。


 それからしばらくの時が流れ、子供が黄色い衣の似合う立派な成人になった頃、ある男がその眼の前に現れた。男は盲た者に光を取り戻し、一匹の魚で多くの者を満たしたが、成人になったかつての子供が男に強く惹きつけられたのは、男がなにか説法めいた会話を終えた後に見せる力強い笑みのためである。


 そして、今。かつての子供は土壁にもたれかかり、懐にしまい込んだ30枚の銀貨の重みに耐えかねていた。その上に、影が射すのを感じて顔を上げると、子供がこちらをつまらなさそうに見ている。


 土壁から体を起こす気力もないままに子どもと見つめ合っていると、子供が唐突に口を開いた。


「そのうち、子供が産む女よりも産まない女のほうが幸せになるんだって」


 その言葉に成人だったはずの心の内から子供の頃の情感が浮かび上がってくる。


「それで、育てるよりも、育てない方が良くなるんだって」


 それを聞いて土壁から体を起こそうとするが、打ちのめされた心がそれを許さず体を道端へと投げ出させた。


「それを、どこで」


 かろうじて口を動かし子供に問うと、子供は無言で指をさした。


 その方向を見ると、小高い丘があり、喧騒がかすかに風に乗って聞こえてくる。


 するとその瞬間、喧騒がピタリと止んだ。


 道端にあっても、そこで何があったかを悟ったために、その瞳からは涙がこぼれ落ち、口からは懇願にもならないうめき声も同様にこぼれ落ちた。


 そこには胎児のように丸まった人影が一つあるだけで、子供の姿も、その他見守る者も、誰一人いなかったのである。


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 一言:少年の名前は多分ユダ、出会った男の名前は多分ヨシュアだと思います。

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