ささやくFさんに感化された彼の場合
>【メントル】
>【ナイト】
【オステオポンチン】
>【ホーキンズ】
【都営浅草線】
【モノルビ】
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1594年の暑い日のことである、ジョン・ホーキンズ卿はイギリスの執務室で深い悩みに囚われていた。彼の息子であるリチャード・ホーキンズがスペインの野蛮人に囚われたことが伝えられたからだ。
ホーキンズにとって血の繋がりは、比較的にはさほど重要ではない。確かに息子はかわいがっていたし、リチャードが父と同じ海軍軍人の道を進むと決めた日はワインの樽を一つ開けたほどである。後にも先にも、前後不覚になるほど飲んだのはそれきりであったが、たとえそれほど大切な息子への愛であっても、海の上でスペイン艦隊を蹴散らした快感の前には取るに足らないものであった。
ホーキンズが忠誠を誓う偉大なイギリスと海を隔てた野蛮人の巣窟であるスペインは長い間の確執があり、従兄弟のフランシス・ドレイクなどは、スペインの船に限り許された略奪行為によってあの卑怯者共に竜と恐れられるほどであった。
だからこそ、スペイン無敵艦隊を海の藻屑へと変えた88年のアルマダでの戦いによって回復された名誉は何よりも誇るべきものであったし、その功によってホーキンズはナイトの称号をも得たのである。
名誉が回復されるということは、貶められていた時期があったということでもあり、それもまたスペイン人の手によるものであった。
それは忘れもしない、 68年のファン・デ・ウルアでのことである。商品を仕入れての故国への帰路、品性下劣なるスペイン人が一度合意した停戦を破り、嵐によって弱ったホーキンズ達を襲ったのだ。その結果、ホーキンズは多くの財と人を失い、ドレイクともはぐれ這々の体で帰り着いた。そして、故国でもスペインに国家の財産を奪われた愚かな臆病者と影に揶揄され、その憎しみを心の内に燃やし続けていたのである。
この憎しみはたとえアルマダを経たあとであっても消え失せることはなく、灰の中でくすぶる炎のように隙あらば燃え盛ろうとしていた。そこに、このリチャードが捕らえられた知らせである。まさに薪をくべられた炎のごとく、憎しみが強い実体を持ってホーキンズの心に荒れ狂った。
しかし、その炎に身を任せることを躊躇させる理由がホーキンズにはあった。まずは年齢、ホーキンズはすでに60を超えており、ここ数年は海に出ることも少なくなっていた。次に海軍重鎮としての立場、スペイン憎しと戦をしかけるには背負ったものが大きすぎたのである。最後にリチャード、リチャードも成人をとうに迎えた立派な軍人であり、身内であるからと天秤に片方の皿におもりを加えることは戸惑われた。
これらのために、ホーキンズはスペイン艦隊に対する攻撃を戸惑っていたのである。しかし、肉親の情と、それ以上にスペインを再び叩きのめす機会を得られたことに、ウルアで負った傷が訴える怒りと憎悪に身を委ねんとする心がホーキンズを悩ませていたのだ。
そんな懊悩の日々を続けて3日目、執務室の扉を乱暴に叩くものがあった。誰何すれば、外から野太い声が返ってくる。
「ジョン、俺だ。いとこのフランシスだ」
「フランシス・ドレイク提督、入りなさい」
ホーキンズが促すが早いか、執務室の扉が蹴破られたような勢いで開く。そこから白髪交じりの黒髪を乱雑に束ねた、浅黒い肌の男が大股で部屋へと入ってきた。この男、フランシス・ドレイクが邪魔すると言いながら来賓用の椅子に音を立てて座ると、ドレイクの服から埃や糸くずが舞うのが採光窓からの光に照らされて見えた。
「ドレイク提督、仮にも一軍を預かるのだから、身なりに気をつけるように」
「これでも身ぎれいにしている方なんだがね、どうも礼服ってのは性に合わねえ。と、そんな話はどうでもいい。ジョン、お前の息子がヘマこいたってのは聞いてるか」
ドレイクの言葉におもわずため息が出る。軍内の主戦派からも度々同じような文句を聞いていたが、海軍の財務を預かる立場としては首をどちらにも振るわけにはいかない。
「ドレイク提督、艦隊を出せという話ならば、調整中だ。それ以外の用事がないなら退出するように」
書類をめくりながら促すと、ドレイクが立ち上がり、乱暴な足取りで近づいてくる音が聞こえた。
顔を上げると、顔を真赤にした従兄弟の顔。怒りのためかとも思ったが、船にでも乗っていたのかラム酒の匂いが鼻についた。
「おいおい、お前それでも父親か?それにリチャードの船はスペイン野郎の懐をかき回しに行ったんだぞ、助けねぇ手はないだろう。え?」
「あれももう大人だ。軍としての行動についてはこちらで決定し、通達する」
ラム酒の甘ったるい香りに眉をひそめながらホーキンズが手元の資料に目を戻すと、何かを叩き潰すような勢いで紙面に手のひらが叩きつけられた。
「ジョン、お前とうとうタネが切れたか?スペインのクズどもに一泡吹かせるチャンスなんだ、それを見す見す見逃しますってか。ウルアでのことを忘れたわけじゃねえだろ」
顔を上げると、険しい顔でこちらを睨むドレイクと目が合う。
そんな事は言われなくてもわかっている。言われなくてもわかっているのだが、それだけを理由に旗を振ることはできないのである。
「フランシス、誰が忘れるものか。スペイン人はこの世界には不要だ。だが、準備が整っていない」
「準備、準備なら問題ねえよ。船の大砲は火縄が燃えるのを今かと待っている、船員もスペインの汚い血をサーベルに吸わせてやりたくてウズウズしている。あとは号令だけだ、だろう?」
「お前の船はそうかもしれないな。だが、軍全体としては『まだ』なのだ」
「腰抜けどもめ、スペイン人の悲鳴を早く聞きたいってのによう」
イライラした様子で腕を組むドレイクを見ながら、頭の隅でどれだけの船を何時までに集められるかを考える。少なくとも25隻は欲しい。となると、出征までは1年か、2年か。
「もうお互い良い歳なんだ、フランシス。お前ももう少し落ち着け」
「ふん、年齢がスペインを憎まない理由にはならねえよ」
こともなげに言ったドレイクに、ホーキンズは片眉を上げた。言われてみればその通りで、年齢を言い訳にすることもないのである。
「メントールだな」
「あ?」
「いや、気にするな。それよりも、ドレイク提督。訓練を怠らないように。 2年はかからないだろう」
ドレイクは少し面食らったようだったが、破顔すると応と頷いて部屋から飛んで出ていった。
「落ち着きを、まあ良い」
ドレイクの後ろ姿に声をかけようとしたホーキンズであったが、すぐにそれをため息に変え、自分の手で扉を閉めに席を立った。その瞳の奥には、スペインへの暗い憎悪が燃え尽きる前の炎のように輝いていた。
そのようにして、ホーキンズは出征への決意を明確にしたのであった。ただし、ホーキンズが形容したように、オデュッセウスを導いたアテナの変化したメントールの役割をドレイクが果たしたかについては、疑問の余地が残る。ジョン・ホーキンズおよびフランシス・ドレイク両名とも、 1595年に編成された艦隊による航海の最中、病で命を落とすことになったからだ。
しかし、少なくともホーキンズにとっては光明であったのだろう。それがどのような光であったとしても。
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一言:そういえば、この二人従兄弟でしたね。
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