職務外労働のCさんの場合

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 男が目を覚ますと、いつの間にか自分が長蛇の列の一部になっていることに気がついた。前を見ても、見える限りに繋がる人の列。後ろを振り向けど、見える限りに繋がる人の列。少し焦点を近場に向けてみれば、誰も彼もが血の気の失せた陰気な顔。それこそ、死人のような顔をした老若男女がずらっと列をなしていた。


 はて、自分は何故こんなところにいるのだろうか。男はそう疑問に思いはしたが、周囲の景色と同様に霧がかかったように考えがまとまらない。夢現の境にいるまま男が周囲を見渡していると、前に並んでいた女の一歩前に進むのが目の端にに映った。習慣のせいか、それとも他の理由があるのか。定かではないが、なんとなく男がその隙間を詰めて一歩前に出ると、後ろに並んだ青年も一歩前に詰めてくる。その動きが列のはるか後ろまで連鎖していく様は、哺乳類の腸が消化された食べ物を後ろ後ろへと運んでいくさまを思い起こさせた。


 その伝播を特に感慨もなく眺めていた男だったが、列の隙間が視界から見えなくなる前に前の女がまた一歩進むものだから、どうにもその行く末を目で追うことができない。女の足を蹴り飛ばさないようにと前を向いてから後ろを向くと、いつの間にか隙間は視界の外、霧の彼方へと消えてしまうのだ。


 そんなことが男の数えた限りで千は繰り返された頃。この千と言う数には男もなんの感想もなかったのだが、歩みを進めて後ろを振り向く際に足元の小石に足を取られたたらを踏んだ。そうして前後に迷惑をかけただけであれば男も気にせずに同じことを繰り返していただろう。しかし、もつれた足が列から外れ、体もそれを追って出てしまうと事情が違ってくる。


 男が姿勢を整えた頃には青年がその隙間を詰め、女の後ろにピッタリと付いていた。それを見た途端、男の思考は急激にまとまり始める。よく考えてみれば、なぜ自分はこの奇妙な列になんの疑問もなく従っていたのか。そもそも、こんな場所に来た記憶もない。


 霧のいくらか晴れた頭で周りを見渡してみれば、一列に並んだ人の流れと足元のまばらに生えた草、そして見渡す限りの霧しか見えるものがない。それこそ建物や低木の一つも見えないのだから、これはどうも妙な場所であるのだが、そうするとこの先どうしたものか判断に迷う。


 眼の前の不気味な列から離れてしまいたい気持ちではあったが、他に目印も見当たらないのであるから、見知らぬ場所でいよいよ遭難してしまうだろう。遭難者を助けるような何者かがいるとも思えず、かといって列に割り込んで並び直すというのも恐ろしい。さりとてその場でじっと立ち止まっていても、眼の前の顔ぶれが徐々に変わっていく以上のなにか変事があるとも思えなかったから、男はさてどうするかと考え込む。


 すると、ホォウ、ホウとフクロウのようなそうでないような、けったいな鳴き声が霧の中から聞こえてきた。鳥もいるのかとよく目を凝らしてみれば、なんのことはない。人影がふらふらと歩いている。陰気な列と自分以外の動くものが現れたことに安堵し、影に数歩近づいた男であったがその歩みがピタリと止まる。考えてみればホウホウと声出しながら歩く人が常人であるはずもなく。


 はたしてその人影は下顎が腐り落ち、右の眼窩からは腐肉の汁が流れ落ち、左の眼も黄ばんでしわくちゃになった眼球の成れの果てと思しきものがかろうじて嵌まっているに過ぎない。フラフラと歩いているのもそれは当たり前で、ガスで破裂した脇腹からは腸管とおぼしき萎びたヘビのようなものがズルリと地面まで垂れ下がり、それが重しとなって歩む足を邪魔しているのであった。そんな生きているとも死んでいるともわからぬものが、歩くたびに喉の成れの果てから息を吐き出し、それが葦笛のように音を出していたのである。


 もしも男が町中でこんな物を見れば悲鳴を上げて卒倒したかもしれないが、このときばかりは霧のかかった頭がうまく作用したもので、「ああ、これは話をできそうにないな」と、そんな感想を抱くにとどまった。そうすると人影には興味も失せ、また人の列を眺めることにした男だが、ふと自分が歩いたことに気がついた。そういえば、自分は歩けるのだなと今更ながら自覚し、それならばこの列に沿って歩いてみようかと思い立った。


 問題は、列の先に進むか後ろに進むかである。


 先に進むのであれば列に並んでいたときと何ら変わりはしないだろうと、男は列の後ろへと歩き始めた。ところが、行けども行けども見える景色が変わらない。厳密に言えば隣に見える顔ぶれは一歩ごとに変わっていき、時たま「一歩進んだ」空白とすれ違うこともあるのだが、その些細な変化を無視すればひたすら人の列が一直線に伸びたままなのである。歩いた歩数を十万歩まで数えた男は、流石にこれはおかしいと思い始めた。いくら霧のかかった頭とはいえ数くらいは数えられるもので、はたして十万人もの人間がなぜ列をなしているのかと不思議に思う。そして、この列に果てはないのではないかと思われたので、ならばと向きを変え、列の先へと歩き始めた。


 すると、不思議なことに十万歩どころか千歩も進まぬうちに、列の先頭が見えてくる。


 列の先には扉があり、その前で人々が机に向かって何かを書き留めては扉をくぐっていた。扉の先は霧越しにもわかるほど暗く、霧以上に先が見通せない。さて、これはなんだろうかと男が不思議に思っていると、その肩を強く掴むものがいた。


 振り返ってみると、新歌舞伎座で狂言でも舞っているような、笑い顔とも泣き顔ともつかぬ微妙な表情の面をつけた人物が立っている。面の人物は男とも女ともわからず、歳の頃もはっきりとはわからないのだが、ほつれた着物のたもとから除く腕はシワに覆われている。そもそも、特筆すべきは背の高さで、 180cmはある男がようやくその人物の肩のところへ頭が届くかどうかであった。


 おどろくでもなく、男がただ誰かいるなと面の人物を見ていると、その人物は大きく息を吐いて話しかけた。


「おい、ちゃんと列に並べ」


 声を聞くに、人物は女であるようだった


「はあ」


 しかし、それがどうとは思えず、気のない返事を返す男。


「そうやって順番を守らないやつがいるから、奪衣婆も嫌になってストライキを起こすんだ」


「はあ」


「まったく、お前たちは死ぬまでのことは恐れるくせに、死んだ先については全く無頓着だ。何人かの使いを出して心構えをさせてやったのに、どうも人間というのは覚えが悪い」


「はあ」


「はあはあと、さっきからわかっているのかねえ。まあいいさ。ほら、さっさと名前を書いて門をくぐりなさい」


 そう言うと、面の女は男を机の前に引き摺るようにして連れて行く。


 その先には紙とも皮ともつかない、シワの寄った紙のようなものがおいてあり、その脇にはまた筆とも枝ともつかない筆のようなものが添えてある。


「ほら、そこに名前を書けばあとは十王が取り計らうから。手間を掛けるでないよ」


「名前を書く」


「今度はオウム返しかい。まったく、お前の名前だよ。赤子で死んだわけでもないようだ、名前の一つぐらいはついたまま死んだだろう」


「はあ、名前があったような気もしますが、どうも思い出せないで」


 男がほうけたままそう言うと、面の女は深くため息を付いた。


「だから列を外れるなと言うんだよ。考えを形にしてしまえば、霧に紛れて見えなくなるのも道理だろうに。霧の中にいればやがて自分の手足が見えなくなり、最後には自分がなにかも忘れて彷徨うしかなくなる。だから、死んだ者にはただ前を歩くことしか覚えさせていないんだ」


「はあ」


「ああ、もういいよ。名前がないなら、それ、そこの筆で指を縫って、爪印でも押せばいいさ。お前が認めることが重要なんだ、名前を落としたからと言って、死なないわけでもない。むしろ、より多めに死んだってもんだ」


「はあ、わかりました」


 そう言って男が爪印を押すと、かろうじて残っていた男の思考は霧消し、霧の中へ溶ける。そして、迷いない足取りで門をくぐると、それから男が二度と出てくることはなかった。


 それをつまらなそうに送った面の女は踵を返すと、愚痴をこぼしながら霧の中へと消えていく。


「三途の川が干上がったからとて、死人を溢れさせるわけには行かないのはわかるがね。だからって、渡守に迷子の案内をさせるのもどうだかねえ」


 そんな言葉が人の列と机、そして門以外もない空間に響いたが、それもやがて霧の中に溶けて消える。


 後には、ただ人の列がまばらに立てる足音と、ものを書く音だけが永く、永く響いていた。


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 一言:何が書きたかったんだろうか。

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