閑話 すぐに来なさいと、あなたは言ったけれど


 物心付いた頃からずっと、傍にあったもの。


 それは大好きな母親と――


 鈍い痛み。


「あぁああああああああ! 腹立つなぁ! 時代遅れのクソ親父がよぉ!」


 主人が怒りを暴力に変えて、叩き付けてくる。


 そこに遠慮は一切ない。


 彼は幼い頃からずっと、そうだった。


「クソッ! クソッ! クソがぁッ!」


 張り倒され、腹を蹴られ、頭を踏みつけられた。


 母はそんな娘の姿を、ジッと見守ることしか出来ない。


 ……これが普通なのか?


 何も教えられてはいないけれど、それでも、疑問に思った。


 だから母に聞いた。


「ねぇお母さん。どうしてわたし達は、こんなことをされるの?」


 母は淡々と受け答えた。


「それが私達の宿命なのよ」


 疲れ切った声音に宿る諦観は、あまりにも強い。


 それから母は、いろいろなことを教えてくれた。


 自分達は魔人と呼ばれる種族で、古い時代においては邪神の配下として、栄えていたという。


 だが人間達の手によって邪神が討たれたことで……自分達は全てを奪われた。


「私達はね、生まれながらの奴隷なの。だから、人間には逆らえない」


 完全なる思考停止状態。


 そうでもしなければ、過酷な運命を受け入れることなど、出来なかったのだろう。


 だが娘は。


「……これって、普通なのかな」


 言葉にならないモヤが、胸中を覆い尽くしていた。


 そんな日々が何年も続き……


 ある日、主人が娘を見て、言った。


「淫らな体に成長しやがって……!」


 普段通りの折檻。


 その最中、ボロ布に等しい衣服が破れ……


 娘の乳房が、露出した。


「ありがたく、思えよ……! 貴族のぼくが、使ってやるんだからな……!」


 娘には理解出来なかった。


 主人が向けてくる感情の所以など、なに一つ。


 だが、それが酷くおぞましいものだということは、なんとなくわかった。


 だから。


 無意識のうちに、母へ助けを求めてしまった。


 そんな娘に、母は。


「……お待ちください、クルツ様」


 母は、自らを、差し出した。


「娘ではなく、どうか、私を」


 そして。


 目の前で行われたそれが、なんなのか、そのときの娘にはわからなかったけれど。


 気付けば、涙が溢れていた。


 気付けば、口から吐瀉物が零れていた。


「ふぅ……ババァの割りには、まぁまぁだったな……」


 主人が去った後。


 娘は母に駆け寄った。


「ごめんなさい」


 なぜ謝るのか、自分でもわからない。


 ただ、何か、大きな過ちを犯してしまったように思えて。


 だから娘は、涙を流しながら、謝り続けた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 娘の頭を撫でながら、母は微笑んだ。


「いいの。貴女さえ、無事なら」


 何もかもを諦めて、なお。


 娘に対する愛情だけは、捨てられなかった。


 母は娘を想い、娘は母を想う。


 互いがそこに在るなら、もう、それだけでよかった。


 毎日がどんなに苦しくても、平気な顔をしていられた。



 ――しかし。



 別れの瞬間が、唐突に、やって来る。


「クルツ。お前の手で処分しなさい。これは命令だ」


「ひっ……! わ、わかったよ、父上……!」


 母は、殺処分されることになった。


 主人の子を、孕んだから。


 望んで出来た子供ではない。


 だが、相手方からしてみれば、そんなことはどうだってよかったのだろう。


「……お母さん」


 わけもわからぬままに、娘は声を漏らした。


 そんな彼女に母は言う。


 今まで見せたことのない、華やかな笑顔を、作りながら。



「貴女も、すぐにいらっしゃい」



 そして。


 母の首と胴が、分かたれた。


 ……そこでなぜ、衝動が赴くままに、しなかったのか。


 ……そこでなぜ、母の言う通りに、しなかったのか。


 何もかも、わからなかった。


 娘は、娘自身のことが、わからなかった。


 わからぬままに、時間が過ぎて。


 心には、諦観が積み重なって。


 今。

 いつものように、森の中で、道具として使われている。


「どうだ! 中級の魔物も、もうぼくの敵じゃないぞ!」


 彼自身はただ見ていただけ。


 魔物と戦い、これを討ったのは、娘である。


 だが娘の力は、主人たる彼の力。


 ゆえに周囲を固める騎士達は、こぞって主人を称賛した。


「さすがです、坊ちゃん!」


「あのカイル・ゲートマンを、既に超えておられる!」


「坊ちゃんの御名は、後世にまで語り継がれることでしょう!」


 どうでもよかった。


 何もかもが、どうでも、よかった。


「おらっ! ぼくに礼を言えよ、クソ魔人! 使ってくださってありがとうございますってなぁっ!」


 いつものように、殴られる。


 口元に鋭い痛みを感じながら、娘は淡々と言葉を紡いだ。


「使ってくださってありがとうございます、クルツ様」


 感情が、何も、湧いてこない。


 もはや娘の心は、積み重なった諦観に圧し潰されていた。


 まるで、生前の母のように。


「……それにしても。ふむ」


 主人の目に、下卑たものが宿る。


 娘の肢体を舐めるように見て、彼は一言。


「なんか、なぁ~?」


 視線を周囲に向けて、さらに一言。


「お前等、こいつを犯せ」


 どんな意図によるものかは知らない。


 知りたくもない。


 ただ、強く思うことがある。



 ――ここまでかな。



 娘は天を見上げ、口を開いた。


 言葉を紡ぐためではない。


 舌を噛み切るためだ。



 ――もう、いいや。



 なぜ、ここまで長引かせたのだろう。


 なぜ、今に至るまで、こうしなかったのだろう。


 何もわからぬまま、娘は母の後を――



「はい、そこまで~。お前等、それ以上やったらブッ殺しちゃうぞ?」



 声が、耳に入る。


 知らない声。


 それを放ったのは、当然、知らない人。


 気付けば、娘は行為を中断していた。


 それが、なぜなのか。



 ――そのこともまた、今の娘には、わからなかった。

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