第50話 最大の助っ人

 文化祭まで後一週間に迫っていた。泰三は葵からもらった永尾高等学校十一月号という、十ページくらいの冊子に目を通していた。

「へえ、文化祭って面白そうだな。わしの頃はこんな楽しそうなもんじゃなかったから、行ってみようかな」

「え、そんなもの見に行かなくていいよ。お父さんだったらきっといろんなことに口出ししたくなるし、それに甘いもの好きじゃないでしょ」

 そう笑いながら、葵は家族全員の洗濯を取り込んでいた。

 その時、居間の机に置いていたスマートフォンが鳴りだした。着信音で自分のスマートフォンだと葵はすぐに分かった。

「もう、忙しいのに、誰なのよ」

 葵は全体の半分ほどの洗濯物を大きなバスケットに入れた後、それを縁側の部分に置いて、居間に入り机に置いてあるスマートフォンを手に取った。

 ……泉からだ。

「もしもーし」葵は右手でスマートフォンを耳に当てて、左手で手を腰に当てけだるそうに言った。

「あ、お姉ちゃん。やっと出てくれた」

「そりゃあ出るわよ。何、何の用?」

「お姉ちゃん、ウチのバンドに参加してくれない?」


「何でよりによってあたしが参加しなくちゃいけないのよ」

 そうブツブツ言って、家を飛び出している葵なのだが、言葉と裏腹に気持ちは向上していた。

 理由は二つある。一つは鳴尾恭一に会えること。

 先日の恭一の頼りがいのある顔つきはあの頃と同じだった。決して包み込むような優しさではないが、無我夢中で引っ張ってくれるような男性の魅力を感じた。

 そして、もう一つは兄弟で参加できることだった。

 あの泰三に打ち明けた時から、自分も音楽ではなく何かのきっかけで和気あいあいと兄弟と打ち解けあいたかったからだ。

 葵が駅前の音楽スタジオに辿り着いた時は、泉の電話から一時間が経とうとしていた。

 しかし、ここに来て葵は少し躊躇した。何故なら恭一とはあれから全く話をしていない。自分が避けてきた相手に対して今更どう開けばいいのだろうか。

 入ろうかどうかウロウロしていたら、恭一が自動ドアから出てきて、葵は心臓が飛び出るくらい驚いた。

「どうしたんだよ。そんなにビックリすることじゃないじゃん。待ってたぜ。サポーター。行くぞ」

 そう言って、恭一はポケットに手を突っ込んで元のスタジオの場所に戻った。葵は内心一番話しにくい人物が来てくれて安堵していた。

 ……いや、もしや鳴尾が、自分が行きにくいのを知って、わざわざ出迎えに来てくれたのか……。

 葵は慌ててかぶりを振った。いや、騙されたらダメだ。と警戒している彼女が顔を上げると、それを見ていた恭一は何事かときょとんとしていた。

「どうした? お前変だぞ?」

「な、何言ってんの。別に何でもないわよ」

「ふーん、まあいいけど」そう言って恭一はスタジオのドアを開けた。

 葵の姿を見た泉は思わず笑みを浮かべた。「お姉ちゃん、来てくれたんだ」

「まあ、大変なんでしょ。文化祭前に一人体調不良で出れなくなったら……」

「ありがとう」

「それで、あたしは何をすればいいの?」葵は腕組みをして、あくまで素っ気ない態度を変えなかった。

「お前にはベースをやってもらう」と、恭一。

「ベースって?」

 それを聴いて、恭一は思わずズッコケそうになった。

「ベースはこれだ」と、恭一はベースアンプの隣にあるスタンドからベース楽器を取り出した。黒色でスタジオから無料貸し出しである。

「取り合えず、肩にかけてみ」恭一はベースを葵に差し出す。

「うわー、重い……」

「簡単に説明すると、ベースというのはギターとは違って、低音の音が出るんだ。その為目立ちにくい。しかし、縁の下の力持ちって奴で、ベースが無かったら穴が開いたようにスカスカな音楽になってしまう。その為、ベースってとても音楽には欠かせない存在なんだ」

「ふーん」

 葵は泉がストラップを肩にかけているのを見よう見まねで、肩に掛ける前に、泉の胸が誇張されている。これを自分が掛けたら……。

『お、二人ともやっぱり巨乳ちゃんだね。これは盛り上がっちゃうな』

 と、恭一がエロオヤジみたいなセリフを言うのではないかと疑って、恭一を睨みつけた。

「何だよ」恭一はうろたえる。

「まあ、このベースっていうのは重たいし肩に凝りそうだから、あたしは座って練習するわ」

 と、葵は重ねていた背もたれのない椅子を一脚取り座った。

「それで、これってどうやって弾くの?」

「えっと、こうやってピックで……」と、泉が半分まで喋った時に恭一が言った。

「泉ちゃんいいよ。オレが教える」

 そう言って、葵に近づく。葵は恭一が傍にいることに急に心臓の鼓動が鳴った。

 ……何よ、こいつ。

 恭一はピックを渡した。「これを使ってくれ」

 葵はポカーンとしていたが、奪い取るように受け取った。「あんがと」

「ベースの弾き方はいろいろあるけど、残り一週間くらいしかないから、ダウンとアップで交互に鳴らしたらいい」

「ダウン? アップ?」

 恭一は葵が持っているベースの弦を自分のポケットからまたピックを取り出して、ピックを下ろした時に弦が、そして、上げた時に弦が揺れて小さく響いた。

「まあ、簡単にいえばこういう事だ」と、恭一はそれをリズムよく鳴らす。

「これ、音鳴ってんの?」葵は弦を見ながら言った。

「これはエレキベースだから、アンプを通さないと音は鳴らない。こうやって」

 と、恭一は壁に掛けてあるシールドを取って、アンプと葵が持っているベースのボリュームが消音になっているのを確認して、それからシールドの端と端をつないだ。

 そして、アンプの電源を付けて、ボリュームを調整すると、

「あ、鳴った」と、葵は感動していた。

「お、いいね。ロックバンドのメンバーになった気分だろう」と、恭一は白い歯を見せて笑った。

「それで、ずっと右手でピックというのを慣らしたらいいの?」

「それは、左手で……」

 恭一は葵に一つひとつ丁寧にベースを教えていた。時には手と手が触れたりしていたが、恭一は早く覚えてもらうために時間を費やした。その為、今日もドラムを打つことがあまりできなかった。

 一方、葵はずっと鼓動が止まらなかった。ずっと緊張していた。それは嫌な恭一が近くにいるからではない。好きな恭一がそこにいるからだ。

 小学生で終わった恋。恭一に彼女が出来た時はどこかショックを拭いきれなかったあの恋が、今になってこんな形で蘇ってくる。何より一番驚いているのは葵自身だ。

 意識的には毛嫌いしていた人物なのに、奥底にこの感覚を求めていたのだろうか。指が触れ合う時にときめいていた。

 そして、それをギター練習しながら見ている泉は嫉妬を覚えつつ、やっぱり葵には敵わないなと思っていた。何故なら葵は完全に恭一が好きだと分かるくらい目がハートマークだったし、恭一もなんだかんだ言って丁寧に教えている。二人ともいがみ合っていたのに、結局は好き同士じゃんって、その気持ちが焼きもちもあり、温かさもあり、何だか嬉しかったり悲しかったり、複雑な気持ちだった。

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