第48話 あの日の出来事のよう

 陽菜と葵は美術部に出向いた。そこには十人ほどが絵のデッサンをしている。多分文化祭に出展するのだろう。

 二人が部屋に入ったことで、みんな陽菜の方に見る。さすが部長だけある。葵はその時陽菜の存在が大きく感じた。

 陽菜が席に着くと、後ろに座ってデッサンをしていた。近づいてきた男子生徒が陽菜に絵のことを聞いていた。

 そのやり取りをする陽菜は教室では見せない芯の強さを感じた。この人が絵を描いているときはきっと熱中しているのだろう。その人がそんな一生懸命何かを打ち込んでいるもののモデルを探している。葵は何とか力になれないかと情を覚えた。

 陽菜はコンパクトなデジカメを持っていた。

「葵、一緒に付き合ってくれない?」

「ん? どこかに行くの?」

「今から、モデルになるものを撮っていくの」


 廊下に出ると、昼間はあれ程いた生徒の数が少なくなっていた。部活に行く者、そして、帰宅したり、寄り道をする者もいる。

 静まり返っていくのだが、いつものように楽器の音は聞こえてくる。吹奏楽部と軽音部の音だ。美術部のように音のない場所で集中して絵描きをしている人にとっては耳障りでしかないのではと、葵は思った。

 ドラムの音も聴こえた。この激しいドラムの音は恭一だろう。長年彼の叩くドラムを聴いてきた葵ならすぐに分かった。

「そういえば、軽音部もあったわね。一回覗いてみようかな」

 軽々しく言う陽菜に対して、葵は言った。「いや、止めといたほうがいいんじゃない?」

「どうして?」陽菜は葵を見る。

「だって、軽音部なんて学校のワルさをしてる生徒たちが行く場所でしょ。それだったら吹奏楽部の方がいいんじゃない?」

「吹奏楽部は昨日お邪魔したよ。確かに悪くはなかったんだけど、団体で演奏するじゃない。あたしはそうじゃなくて一人だけで行っているところがいいのよ」

「そうなの?」

 葵は陽菜のこだわりを理解できないでいた。その部分では、自分はもしかしたら秀るものがないのかもしれないと心の中で落胆していた。


 軽音部が使っている音楽室は珍しくドラムの音でしか聴こえてこなかった。今日は恭一が一人で貸し切っていて、アメリカでの楽曲を猛特訓していたのだ。

 今日もスタジオで三人練習しているはずだ。恭一は文化祭に向けて用事があるという嘘をついた。ドラムの練習がしたいなんて言ったら、メンバーたちが恭一に対して迷惑を掛けていたのかとショックを受けるに違いない。

 それに、ある程度練習していないと、もし何かのきっかけで、多恵や柏野がまたアメリカでオーディションがあるなんて言われて、急遽行くことになっても腕前が上達していなかったら本気でドラマーになりたいのかと疑わられてしまう。

 恭一は家でも十分練習はしているのだが、やはり本格的なドラムの方がしっくりくる。この貴重な時間を少しでも無駄にしたくなかった。

 その為、今日は一人で部屋を貸し切るという話を、前々から軽音部の部員に報告していた。彼らも渋々、今日はスタジオで練習しているはずだろう。

 恭一は人影に気づく間もなく、スマートフォンで流していた洋楽を何かに囚われているようにドラムに打ち込んでいた。楽曲が終わった時、十月下旬なのに額から汗ばんでいたのを、袖をまくった腕で拭っていたら、そこで初めて人影に気づいた。

 ハッとして、ドアの部分を見る。そこには陽菜が慌ててカメラを下ろしていた。

「何だよ。用があるなら言ってくれ」恭一は心の中で一気に警戒した。

「お見事ね。普段は変態のレッテルを張ってる鳴尾が、まさかこんな表情で楽器に打ち込んでいるとは思わなかったわ」

そう言って彼女は腕組みをして中に入った。その後ろに誰かがいると思って、恭一はその人物を見る。

 葵!

 恭一は何となく恥ずかしくなった。まさかこんな場面を彼女にも見られていたということや、避けていた葵と久々の対面だったし、何より葵がもったいぶって素っ気ない態度を取っているところが何とも言えなかった。

「別にオレは文化祭に向けて必死に練習してただけだ。オレの貴重な時間を邪魔するな」恭一は自分でも何を喋っているのかもよく分かっていなかった。

 一方葵の方は、照れていた。というのも、久しぶりに恭一がドラムに打ち込んでいるのを見たからだ。小学六年生の時、コンクールの為に必死に練習していたあの姿が好きだった。ひと時でもその場面が見たくて、小学生の時に黙って彼のコンクールに行ったことがある。

 その時は、泰三に友達と遊ぶ約束を告げて、一人で電車を使って行った。

 しかし、細かい場所が良く分からなくて、結局辿り着いた時には昼を回っていた。

 恭一の演奏は終わっており、夕方までただ別の小学生の演奏をひたすら聴いていた。しかも、恭一はそのコンクールで大賞を獲れなかった。

 その事は恭一にも知られていなかった。もし知られてたとしたら、葵は恭一に想いを告げていたのかもしれない。

 そう、あの後悔した日でもあった。あの日の夕方から振ってきた雨。あの雨に打たれて走って帰ったのだが、もし、あの時恭一と一緒に帰っていたのであれば、勢いで告白をしていた。

 葵はそう推測する。だから、あの日は自分にとって大切な日だった。あの後、葵は風邪を引いて寝込んでしまった。

 その後は、告白しなかった。何故だろう。思いを告げようと言葉を走らせていたのだが、決定的な物事が無い限り難しかった。

 思春期というものが邪魔したんだと分かったのは、最近のことである。

 その恭一が、いや、きっとコンクールの演奏の時に必死にドラムを叩いていた恭一が、まるで今日そこにいたのではないかと葵は気持ちが高まっていた。

 何で、あたしがこんなに鳴尾のことを想ってんの。

 葵は不思議な気持ちで、素っ気ない態度を見せることがやっとだった。

「しかし、鳴尾の演奏も見事だったわ。それにあたしも文化祭に出展する絵も決まったし」

「どういう事だ?」恭一は葵を一瞥したが、彼女は相変わらず誰とも目を合わそうとしない。

「さっきのあんたの表情、描いてみたいの。だからモデルになってくれない?」

「モデル? オレが?」恭一は自分に指を差して素っ頓狂な声を上げた。

「ええ、こんないいモデルいないわ」

 恭一は高笑いをした。「残念だけど、オレは断る。オレはそんな時間はないし、二人に付き合ってられないからな」

「いいわよ、別に。ただ、さっき撮った写真をモチーフに絵を描き上げるけど、いい?」

「いいよ、別に。使いたいなら。で、用件はそれだけか?」

「そうよ。邪魔して悪かったわね。葵、行きましょう」

 陽菜に服の袖を引っ張られ、俯いて歩く葵。何となくいつもと雰囲気が違うのは恭一も分かっていた。

 しかし、その理由が分からなかった。

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