第4話 忘却の果て 4
「ねえ、お父さん。話いい?」
葵は晩飯の精進料理をテーブルの上に置くと、父親の泰三に言った。
泰三は頭を丸坊主にして袈裟を着ていた。五十になる泰三はこの榮安寺の住職であり、寺は三百年前から作られたものだ。
寺院の成り立ちは江戸時代に一人の出家者によって建立された寺であり、その子孫が荻野家に繋がっている。
「何だ?」
泰三は額の横皺がくっきりと現れ、体格は大柄であり、口角は下がっている。睨まれたら怖いイメージがあり、実際に厳格で、葵も含め子供三人には厳しく育ててきた。
「こないだ、小学生から知ってる男子がちょっかい出してくるって話あったじゃない?」
「ああ、何かと女好きのガキだと言ってた奴だな」はんてんを着ていた泰三は、両腕を袖に通し、正座をして葵と向き合った。
「その男子があたしに対してもセクハラまがいのことするんだ。小学生の時は全然そんなことはなかったんだけどね」
「先生には言ったのか?」
「被害者の女子何人かで何度も先生に言ったんだけど。その男子のお母さんがアメリカでレポーターやってて、相当な圧力が学校側に掛かってるらしくて、それで難しいらしくって……」
葵は泰三と目を合わそうとはしない。葵は泰三と十七年もの付き合いだ。すぐに感情的になることなんて目に見えている。
案の定、泰三はテーブルを叩いた。
「学校の先生も先生だな。こんなお騒がせな奴がいるのにもかかわらず、そいつに加担するなんて可笑しいだろう。そいつを連れて来い!」
「連れてどうするの?」横で早くご飯が食べたそうに葵の妹、泉が同じく正座をして少し落ち着きなく、好奇の目を輝かせながら言う。
「そいつを寺修行させてやる。おい、聡!」泰三は隣の和室の本堂で瞑想をしていた、葵の兄荻野聡の方に向いて言った。
「はい!」聡は目を開けて、左の方向に聞こえた泰三の方を見た。
「二階の修行僧の部屋を、今日掃除しろ」
「はい! 分かりました」
聡は黒縁メガネを掛けていて、泰三とは対照的に痩せ細っていた。そして、何よりも聡の特徴的な部分はいつも目がうつろで感情が感じられなかった。
「ちょっと、お父さん」葵が止めるように言った。「いくら何でも、修行は止めた方がいいわよ。昔のこと忘れたの?」
葵は六年前のことを思い出していた。六年前まで榮安寺では修行僧を募集していた。そこで駆けつけてきた僧侶たちを、住職の泰三が修行をさせたのだが、早朝四時に起床、読経、朝食、掃除などの作務と一般的な修業とは変わりなかったのだが、ただ、僧侶たちは三人いたのだが、全て逃げ出した。
それは、泰三の性格にあった。何かあると感情的になり、暴力を振るった時もあった。
しかも、その時も修行の一つだと正当化する泰三に対して、徐々に嫌気がさして修行僧たちは辞めていったのだ。
「忘れてない。アレはあいつらが弱いんだ。身体で教えているだけなのに、それを体罰だと言い張る奴らが可笑しいんだ」
泰三は喋るたびに過去を思い出して、意固地になっていた。
「その時も、そうだけど、今なんてそんなことしたら体罰に当たるよ。分かってんの?」
「分かってる。お前は黙って、そいつを連れて行けばいいんだ」
葵は困惑していた。確かに恭一の性格を変わって欲しい。しかし、寺修行なんて彼には興味が無いし、泰三とケンカして彼の両親がやってきたら、修羅場になってしまう。
それに、葵自身も自分の家庭を見せるのが嫌だった。複雑な気持ちを抱えているのに、泰三も恭一も……。本当に男性って……。
こんな時に、お母さんがいてくれたら……。
葵の母親、秀美は葵が五歳の時に病気で亡くなった。肝臓がんだった。秀美の家庭は貧乏だったらしく、学生時代から勉強とバイトを両立していたくらい、葵にとっては優秀な母親だった。
しかし、それも小学生に上がってから知ったことだったのだが……。
真面目な秀美がいたら、秀美にべた惚れだった泰三も素直になっていただろうし、小学生以来口をきいていない聡に対しても、葵に対しては潤滑油の役割をしてくれたのかもしれない。
泰三と恭一の二人のやり取りをもう一度葵は想像した。やっぱり完全に揉めるだろう。そのことを考えるとまた頭の中で混乱して、泰三に相談するのではなかったと悔やむばかりだった。
葵は自分の寝室に掛け布団を胸までかけて、消灯して仰向けになって恭一のことを考えていた。
しかし、いつから変わってしまったのだろうか……。
中学生の時は一緒のクラスになったことはなかったので、全て把握できていたわけではないが、あの時恭一は、女子には確かに興味はあった。実際にクラスの女子と彼氏彼女の関係になっていたという話を聞いた時には、葵は人知れずショックを受けたものだ。
その時は、そうだよな。見た目は、顔は目が細くていかにも三枚目の俳優な雰囲気だが、でも、人を傷つけない性格だったし、それでいてスポーツが得意で、陸上部に入ってたっけ。
葵も後を追うように陸上部に入ろうとしていた。ちょっとでも、話す機会が欲しかった。しかし、その時に恋人が出来たという話が出てきて、何を求めているんだろうあたしと、自嘲していた。
でも、その彼女とは別れたらしく、尚更、どういう訳か、恭一は自分と同じ高校に入っている。
そして、昔の馴染みで話しかけてくれている。だが、セクハラばかりをする。
――あいつは、胸フェチなんだろう。
葵は自分のふくよかな胸を両手で触った。こんなもののどこがいいのだろう?
すると、横に布団を敷いていて、掛け布団をくるまっていた泉が人懐っこく笑って言った。
「どうしたの、お姉ちゃん。胸なんか触って。また大きくなったの?」
葵は息を呑んで隣の泉を見た。「うるさいわね。あんただってお母さん譲りのおっぱいでしょ。ったく」
「もしかして、初恋の人想ってたの?」
「そんなんじゃない。早く寝なさい。お父さんが怒るわよ」葵は身体を左に向けて泉を背にした。
葵が小学六年だった時、その時に初めて妹に好きな人がいるということを告白した。泉は物心ついた時から、いつも強気で負けん気がある姉が好きだった。何かあると遠くから姉が庇ってくれるような気がして、いつも尊敬の気持ちだった。
そんな姉が初めて女性としての言葉を聞いた。その時、姉は更に一歩高い場所に行くのだと泉は感嘆していた。
その姉を動かした男子というものにも興味があった。どんな人なんだろう。姉はそれ以上話をしてくれなかった。しかし、最近その男子が姉に対して手出しをすることを彼女本人から聞いた。
泉はモテないことはなかった。これまで何人かの男子から告白された。しかし、泉としては一番好きなのは姉の葵なのだ。
「でも、一回お姉ちゃんが好きになった人と見てみたいな。あたしも一緒の高校にいるのにどの人か教えてくれないんだもん」
「そんなんじゃないから。勘違いしないで」
「ふーん」
泉も身体を右に預けて、葵と背中合わせになっていた。
そう、そんなんじゃない……。あの時の記憶たちは闇に葬るべきだ。葵は心の中でそう呟いて、瞼を閉じた。
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