天秤を零した少女

白田一木

第1話 零から一へ

 死後に行き着く川を下り、河原に座る一人の少女。白藤色の淡い髪を深紅の瞳が讃えていて、儚くも美しい。纏っているぼろ布の外套すら、美肌を飾る黒百合と遜色ない。年月を経て化け物と化した彼女は、憂いを帯びた視線を向こう側に送り続ける。

 いつまでも、どこまでも。


 身を砕く勢いの水飛沫が巨岩を削り、永劫に続く水流が弄ぶ。広大な川の底では二つの巨大な光が妖しい光を放ち、ときおり水面下で溺れる死者に近付いては泡を吐く暇もなく引きずり込んでいく。そして川を超えた先の大地では、雲霞で顔も見えないほど巨大な石の巨人が仁王立ちのまま動かない。

 巨人はごりごりと削岩音を響かせて姿勢を変えることがあり、目を凝らして観察すると原因が分かる。死者が激流の中で懸命にもがいて、なんとか一緒に運ばれてきた岩に上がったときだ。その後は決まって飛翔体が死者目掛けて飛んでいく。天を貫く轟音が解き放たれたかと思えば、津波が発生するほどの衝撃は臓物をまき散らすことすら許さない。


 世界が鳴動しようが少女に戦慄が走ることはない。自分自身の善悪を判断する在り方を零してしまったのだから。死後の行く末を決定付ける機構すら見失った、彼女の能力のせいで。

 大昔から現代まで、誰にも知覚されないままここにいる。終わることのない孤独を抱えて、遠く燦爛たる漂流物を眺める日々。


 ふと上流のほうを向く。一人の少年が、舞台を足裏で弾く音を生み出した。






 大雨による増水というものは凄まじい。橋の下で眠りこけていた自分が逃げ遅れるのは自然の摂理。がぼがぼと鼻穴や口から猛威に入り込まれた感触が鮮明に残っている。

 まだ動いている胸のポンプが水を排するために咳を誘発。体温低下に対抗する免疫がおでこをぐつぐつと温めた。立ち上がったものの、ここがどこかは未だ知れない。反対に分かっていることもある。自分自身が生きているという感覚。太柄の野太刀に分断されるような、現地と相容れない鋭い違和感。


 右手はおそらく複数あるであろう、硬く薄く小さな複数の物体を握りしめたまま固まっていた。意識を込めて広げると感触は消失し、代わりに小さく咲いたのは白い炎。

「うわっ……」

 たまらず手のひらを閉じようとした。


「今は閉じないほうがいい。すぐに手を閉じてしまえば、のちに不幸が降りかかる。炎があなたを傷付けたらそれまでだ」


 自分の身体が、すぅっと青白くなっていく。すぐ隣り……。いや周囲から声がした。ドスの利いた圧、透き通る音色は知悉を思わせる含み。

「子供か、齢は……。成人の半分を少し超えたほどの、まだ幼い男児」

 生温かい風が頬を撫でた後に、なめらかな巨石が目の前に現れた。明らかに加工された、ちょうど腰を落ち着かせることができる窪みがある。

「自分で座って試したが、尻は痛まないはず。座らないのであれば、これ以上は干渉しない」


 左を見た。鬱蒼とした闇の中でざわざわと木々が騒ぎ出す。

 右を見た。川のせせらぎが手前から奥までの空を縫う。


 生き延びる手がかりはこの見知らぬ相手しかいない。どんな姿をしているのかも知りたい。右手で発生している燃焼をそのままに、ただ声に従った。

「あの……。な、何をされるんでしょうか?」

「すると言えば、ただあなたの右手に触れるだけ。もう少し説明するならば、あなたの本質を知るために欲求に従うまで。自分の視界に新しく入ってきたものが危険かどうか、私と同じようにか弱い姿で騙そうとしていないか」

 明らかに警戒されている。そう観念して掲げた右手よりも小さな面積が、冷たい寂しさを重ねてきたことに戸惑った。この揺らめく白い花に触れて大丈夫なのかという心配が芽生えてしまうほどの儚さ。相手自身が指した、か弱いという言葉が鮮明になっていく。


 言の葉のみならず。指先からつま先、頭頂部までも。


 季節外れの桜が咲いていた。木ではなく人の形をしていた。

 俺の右手を侵していた炎が、ひたり。蓋となった彼女の手のひらに閉じ込められてしまったときに現れた変化。漏れた火が触れていた相手の腕を伝うと、話していた者の顔が目に見えた。徐々に徐々に形を捉えていき、全身を露わにしていくほど火は広がり勢いは弱まっていく。

 見開いた目。瞬間、交差する視線。


 綺麗だと思った。心から。

 ジジジと、か細い断末魔をあげて俺の異常は消失した。


 相手の反応はというもの、左手を何度も開いては閉じ開いては閉じ……。先ほどは自身を吟味してきたかのような態度。何がこの場で最適か、果たしてお眼鏡に叶ったのかが分からない。まだ首元を掴まれているなと縮こまった。

 気が済んだのか彼女は左手を下ろした。眼球を動かさないままにゆっくりとこちらに首を傾げ、向き直したさまはさながら呪われた西洋人形。その時点の表情から心情を察することはない。


 目の前で顎に手を当てて思案する様子や、悲しげに目を伏せる様子も時折垣間見る。下手に動いてはいけないから、じっと視界に入れながら用意された巨石に座っていた。

 そしてもう一度こちらを見た。今度は少々、目に光が灯っていた。


「なるほど。あなたには人を傷付ける才能も、擬態をおこなえるほどに優れた知恵もない。だが……。正確なからくりは知れないが、私を看破する能力に巡り会えたのは初めてだ」

 しなやかな腕を伸ばしてきた相手が指を絡ませてきたかと思えば、あっという間に立たされた。初めて会う相手にも関わらず、呼吸とバランスを完全に読んできた。


「ここに行き着くのは本来、死者か妖怪か神か。あるいは私たちのような……。いいや、面倒な事情を子供に聞かせることはない。帰してあげる。あなたは生きているだろう。それで終わりだ」

「帰ることができるんですか?」

「できる。私が好きにしていいのであれば楽に済む。死者がいる場所から帰ると聞いて、何を想像する?」


 自然と思い浮かんだ連想に未来を委ねることにした。

 船はあまり乗ったことがない。

 車はイメージに繋がらなかった。


 本やホラーゲーム、インターネットの怖い話を思い出してみると──

 ああ、あったな。当てはまるイメージ。

 もう一度彼女と目を合わせた。彼女は身を抱くように左肩をはだけると、そこから針山のような突起が顕現する。


「■■■ 署名 "紅寄こうより とう"

 ■■■ ■■ "■■"」


 よく聞き取れない言葉が組み合わさっていたが、確かに聞こえた彼女の名前。何かを発動する詠唱のようなものが断片と連なって。

 巨大な漆黒の節足が蠢く異形。変容を終えた少女の、百足や蜘蛛の面影を感じる身体。あっけにとられているうちに、脳裏で描いていた場所に辿り着いた。


 口に出してはいないはずだ。駅を想像したということは。

「さっきのように強く、強く念じてくれれば……。空間に溶け込んだ思考を拾いあげて、叶えられる願いもある。……そういった能力まで維持できる、この姿においては」

 情報を提供してくれる回数が多くなった。本当は誰かと話したかったんじゃないだろうか、ずっと。そんな漠然とした興味が波の花として残る。

「乗るか、乗らないか。それだけを答えてほしい」

「乗らせていただけませんか。妹が待っていて」

「良かった、行きずりで終わらずに。ちゃんと肉親が。そうか、そうなの」


 人の輪の恩恵を受けている者が放つ返答ではない。どれほど蚊帳の外にいたのだろう。そうしてまた、別れて……。

 やんわりと促そう。この女の子がここにいた証を残せる機会を見つけたときは。今まで会ったこともないはずの相手に生まれた思い。それがどうなるか、自分にすら不明瞭。


 ぷしゅう、と気持ちのいい排気音。ゆっくりと開いたドアの間から小綺麗な車内が窺える。当然のことなのだけれども、早く入らなければ閉まってしまう。それを気付かせるように、ふわっ。と背中を押された。電車の内と外で向かい合う形を成す。

「私は行けない。行くべきではない」

「……。何か、約束ごとがあるんですか? それとも、物理的に?」

「どちらでもない。ただずっと、私自身を縛っている考えがある。一緒に行けば迷惑がかかる。いま出会ったあなたにまで」


 悩んだ。空白の一瞬、扉に見合う鍵を探した。どうすれば相手の興味を埋められるのだろう。どうすれば、誰も不幸にならないのだろう。

 共通の話題を頭で整理。年代、性別、育った場所……。何も分からない。でも放棄したくもない。初心に帰れば……。


 あっ、となった。出ろと思った。右手にもう一度、ジャラジャラと硬貨が踊る感覚。それをアピールする自身の拳は、お米が詰まったお手玉にも似た。

「あの……。乗りながら、これについて教えてくれませんか?」

「"ろくもんせん"か。確かに説明が足りなかった、ごめんね。長居する理由が見つかった」


 座席に向かいながらしまえと望めば、炎が出る前に感触が無くなった。その間に境界線を、垣根を超えていた。節足を丁寧に折りたたんで乗車する様、流し目は改めて見ても風情がある。カコン、カコンと転がる音。硬い材質となった足、あばら骨が浮いたなめらかなお腹が近付いた。布の下から揺れでちらつく。

 席の端っこのほうに控えめに座る。立っていたときと同じ、自分の向かい側。


「隣に、一緒に座ってもいいですか?」

「……ありがとう。びっくりさせてしまうかと思ったが。人肌に慣れていないことが露呈したな、私が」

 そして本来、呼吸による胸の膨張と縮小を感じ取る距離。何も息づかいが聞こえず、動き出した電車のいななきが取り巻く環境を支配する。

「この電車って、どの辺りに着きますか?」

「あなたが最も印象を抱く場所。最寄りを浮かべることが、最短への道」

「ありがとうございます」

「悪くなかったよ。また出会う、誰かとあなたが。戻そう、話を」


 ふと気が付いた。同じ概念について触れようとしている自分たち。しかし彼女はただの一度も、自分と同じようなものを見せようとしていない。それどころか、俺と比べ物にならないほどに肉体に影響が出てしまっている。

「さっきの場所を渡って生まれ変わるため、決められた存在に払うお金。それが"ろくもんせん"」

「無くなったら、どうなるんですか?」

「どうにもならない、永遠に。お金が無ければ身体で払い続けるしかない。意識してごらん。触感で確かめるのは大変だろうけど、6枚ある状態が正常」


 言われるがままに感触を確かめる。五指を頑張ってぐにぐに動かしてみたが、正確に計ろうとすればこぼれてしまう。手を開いたせいで白い花弁が空気を炙ったのだから、余計なことをおこなってはいけない。何枚あるかを知るには、最低限の動きで。

「ごめんなさい、先にもっと説明するべきだった。開いていいよ、手のひらを思いきり」

「ええっ。でも」

「大丈夫。私が火を消せば損はない、あなたに。だから手を開いたら、そのままにして」


 また従った。河原に居たときと同じように。また静かに灯った。彼女に触れたときと同じように、人肉で再現したマニピュレータ同士の接触。なんてこともないように、灯火が息絶える。

「今みたいに何かが出れば6枚あると分かる。あなたの場合は不思議な炎。1枚でも足りなければ何も出ることがない。見せようとする前なら、意識をすれば手の内から消せる」

「もし間違えて閉じれば、減ってしまうのですか?」

「そう。誰かに乞わずして永らえるならば、1枚ずつ減っていくだけ。死んだ後は6枚全て船渡しに払って、誰しも渡河しなければならない。私たちの島国で育ち逝ったなら。

 0枚になったモデルケースはあなたの目の前。化け物の姿という正体を際限なく押し付けられる。そうなったら6枚奪おうが貰おうが、渡ることは許されない」


 少し、眉をひそめていた。普段は表情に乏しい彼女も反応するほどの話題だと知ってしまい、何か言葉を継げて空気を押し戻してあげたい。自分でも気が付く前に、とっさに口が開いていた。

「……辛くないですか?」

「慣れた。壊れた回路をそのままに扱っていけば、報いを受けて勝手に壊れる。以前の自分はどうしていたのだろう、気力を取り戻そうにも零れてしまった。まだ見ぬ人々にすら、申し訳が立たない。

 ……ただ、負債を肩代わりできたのはなんだか嬉しかった。間違えて炎を出してしまったときはこのような者に頼むと良い。私自身がどうかはもう測れないが、全員が外道に堕ちてはいないはずだから」


 彼女が口を閉じたタイミングで、ちょうどトンネルに飲み込まれた。電車の照明がなおも窓の反射を映して、やはりこの女の子の姿を映さなくて。眼球と鼓膜の双子たちが捉えている、僅かな存在証明。

 自分が特別だとうぬぼれてはいけない。でも自分だけなのかもしれない。もっと話したい。どこから来たのだろう。どこで育ったのだろう。どこで生まれたのだろう。

 どんなことを、望むのだろう。


「何かしたいことはありますか?」

「……したい、こと?」

 目が潤んだ。これは初めての変化だ。もし感情が揺れ動くことがプラスに転じるのであれば、このままの流れに希望を託したい。せっかく知り合えたのだから。

「私が死んでからずっと後に、時代が移り変わって寺子屋が出来て……。そこから遥か後、現代の話し方も覚えた。寺子屋も呼び方が変わって、ええと……」

「学校ですか?」

「そう! それだ!! 行ってみたいなあ、と思う」


 目的地に着くまでのあいだ、やることは決まっている。今のように会話を続ければ良い。相手を知るために能動的に動けば良い。誰しもがそうするだろう。一緒に過ごす時間、特別招待券ではなく気安く癒す鈴の音を。

「きっと、一番欲しい答えも出るかもしれない。学ぶための環境に身を置けば」

「答え……。どんなことが、知りたいですか?」


「何を培えばいいのだろう。裁かれることがない存在は」


 重く、凛として、独特な後味を残した言の葉。

 電車はまだ、揺れている。

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