第37話:相談事


 「青野、そろそろ帰る? 」


 読んでいた本を閉じ、ひと息つくと、坂理が言った。

 その声で、青野は我に返る。ふと、壁に掛かった時計を見ると、16時を少し回ったところだった。今の今まで、ずっと本を読むのに集中していて、時間の流れを全く感じていなかったのだ。それを認識した瞬間、急に頭が重くなるのを感じる。きっと、慣れない長時間の読書に脳が疲れてしまったのだろうと、青野は思った。


 「そうだね。結構疲れた」


 青野は読んでいた本を棚に戻し、大きく伸びをする。


 「ごめんね、付き合わせちゃって」

 「いや、いい気晴らしになったし、全然大丈夫」


 申し訳なさそうに呟く坂理に、青野は笑って返す。


 「それじゃあ帰ろうか」

 

 そう言って、坂理はさっきまで読んでいた冊子を大事そうに抱え、階段の方へと向かっていく。

 青野もその跡をついて行った。


 「あ、二人とも調べ物は終わった? 」


 青野たちが急な階段を下り、1階へ降りると、カウンターの中にいた優梨が話しかけてくる。


 「うん、これだけ借りていってもいいかな」


 坂理は、見るからに古そうな冊子を数冊カウンターに置いた。


 「また珍しいもの借りてくね。ちょっと待ってね」


 優梨は、並べられた本のラインナップに驚きつつも、慣れた手つきでバーコードを読み取り、貸し出しの手続きを行っていく。


 「お待たせ。いつもご利用ありがとうございます」

 「こちらこそ」


 坂理は、優梨からそれらを受け取ると、丁寧にカバンにしまう。


 「ねえ、二人とも、彩音ちゃん見なかった? 」


 二人がカウンターに背を向け、帰ろうとしたところで、優梨が唐突に口を開く。


 彩音という名を聞いて、青野はピクッと肩を震わせる。脳裏に浮かぶのは、優しい笑顔を浮かべてこちらを見つめる彼女の姿だ。


 「いや、俺は見てないよ」


 俺も知らないな」

 青野と坂理は、優梨の方に向き直り、答える。


 「そっか……」 」

 「湖森がどうかしたの? 」


 どこか不安げな様子でうつむく優梨に、坂理が問いかける。


 「実は、昨日の夜から寮に帰ってきてなくて、もしかしたら何かあったんじゃないかなって思って……」


 優梨はためらいつつも、質問に答える。


 「ただ出かけてるってわけじゃなくて? 」

 「うん、メッセージ送っても既読つかないし、電話にも出ないんだ。いろんな人に聞いてみてるけど、誰も知らないみたいで…… 」

 「そっか…… 」


 優梨の回答を聞き、坂理は真剣な表情で考え込む。


 「もしよければ、二人も一緒に探してくれないかな? 」


 優梨はカウンター越しに真っ直ぐ二人を見つめる。


 「うん、俺でよければ協力するよ」


 いつにもまして真剣な優梨の目を見て、事の重大さを捉えた坂理は、彼女の頼みを了承する。


 「本当? 情報屋さんがいてくれたら100人力だよ! 」

 「いや、俺ただの高校生だからね」


 大げさに喜ぶ優梨に、坂理はいつものツッコミを入れる。

 青野も当然協力しようと思った。目の前に困っている人がいるなら力になりたい。しかし、湖森彩音の名を聞くと、どうしてもあの時の光景がフラッシュバックしてしまう。


 それは、いつも通りの帰り道、まるで息をするかのように、何の前触れもなく告げられた言葉。


 「一緒にいても楽しくないし、別れよう」


 普段と変わらない優しい笑顔で、なんでもないことのように告げられたそんな言葉が脳内で反響する。

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。恋人として、近すぎず遠すぎず、適度な距離感で接してきたつもりだった。何度かデートにも行き、たくさん楽しい時間を共有した。それなのに、どうして急に……。一気に頭の中が真っ白になっていく。

 自分の何がいけなかったのだろうか。無意識のうちに、何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。いくら考えても、思い当たることは何もない。

 何も言えずに、去っていく彼女を見送ったのだ。ひとりきりになった帰り道、果てしなく広がる青空が、なんとなく歪んで見えたことをよく覚えている……。


 彩音のことを思い出すだけで、なんだか胸が苦しくなる。親友に打ち明け、例えようもない悲しみから立ち直り、もう未練はないと思っていた。だが、心の中にはまだ彩音のことを異性として意識している自分がいるのだ。あの日常に戻りたいと願う自分がいるのだ。だから、そんな気持ちが完全に吹っ切れるまで、距離を置こうとしていた。


 「青野、大丈夫? 」


 誰かに肩を叩かれ、青野は我に返る。

 青野が振り向けば、心配そうな表情で青野を見つめる坂理がいた。坂理は彩音との一件を知っている数少ない人物だ。きっと事情を察して心配してくれているのだろうと思い、青野は少し申し訳ない気持ちになった。


 「大丈夫、俺も協力するよ」


 青野は答える。

 変わらず気持ちの整理はつかないままだが、青野の中で、会いたくないという思いより、心配の方が明らかに勝っていた。もしかすると、命に関わるようなことに巻き込まれているかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。


 「本当、ありがとう」


 青野の返答を聞いた優梨は、満面の笑みで頭を下げる。


 「それで、具体的な話聞かせてほしいんだけど、ここじゃあれだし、場所変えよう」


 そう言って、坂理は図書館の出口へ向かう。


 「うん、ちょっと待ってね」


 優梨はカウンターに置かれていた書類などを棚にしまい、急いで手元を片付けると、出入り口付近で待っていた二人と合流する。

 スライド式の扉を開ければ、じめっとした嫌な空気が全身にまとわりついてくる。肌に密着する服の感覚に、青野は思わずため息をついた。


 「どこかの空き教室使う? 」

 「そうだね」


 青野が問うと、坂理は小さくうなずいた。

 三人は図書館を後にし、優梨から詳しい話を聞くため、B棟の適当な教室へと向かうのだった。

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