第五章 クライマックス

第34話 死後の裁定者

 暗くもなければ明るくもない。寒くもなければ温かくもない場所に俺は横たわっていた。そこは海の中のようでもあるし、火の中のようでもある。まさに『虚空』を体現したような空間だった。

 心にはなぜかあたたかみが広がる。母親の子宮のなかに戻ってきたような安心感を覚える。

 俺はこの場所には一度来たことがあった。

 電車にはねられた直後、一度だけ。


 そして、ここには番人みたいなやつがいるのを俺は知っている。

「星神金太郎。こうして会うのは二度目だね」

 スポットライトがあたったみたいに、何かの姿が浮かび上がった。ブラシでいたように美しい黄金の毛並み。すらりと細く長い四肢。ゴールデン・レトリバーがそこにいた。しっぽを左右に振り、細長い顔を俺に向けていた。

「お前は何で犬なんだろうな。どうせならきれいな女の子の方がいいんだけど」

「そもそもキミたちにはボクは不可視の存在。キミたちは目に見えないボクを無理にでも見ようとするものだから、無意識の作用が働いて、キミたちにとって神秘的と思われる姿を投影しているんだ。どう見えようとそれはすべてキミたち自身の責任。それにしてもキミはゴールデン・レトリバーを神聖視しているのかい? ……そういえば、前にもこの話をしたような気がするな」

 ゴールデン・レトリバーは言った。


「ここに来たということは、俺はまた死んだということなのか?」

「肉体が死を迎えれば、ここに来る定めにはなっている。その認識で相違ないと思うな」

「もう戻れないのか、みんなのところに」

「そのように問いかけたヒトは今まで那由多なゆたを数えるほどいるよ。だが、実際に戻れたヒトは多くない」

「頼むよ。ここで死ぬわけにはいかないんだ!」

「前世に未練があるということかな?」

「そうだ」

「それはキミの仲間に関すること?」

「仲間のみんながピンチなんだよ。そんな時におちおち死んでいられねーだろ!」

「残念ながら」とゴールデンレトリバーはあくびをひとつした。「キミの望みをボクは叶えることはできない。ボクはただの裁定者に過ぎないから」


 次の瞬間には、虚空から現れた執務机の上に寝そべり、ゴールデンレトリバーはハッハッと息を弾ませると、その長い前足で卓上のベルを叩いた。チャリーン!

「さて、裁定をはじめよう。星神金太郎。キミがに生きてきたその意味を問いただす」

 長い沈黙があった。

 時計の音すらせず、吐息ひとつ聞こえてこない沈黙の空間。

 一瞬にも永遠にも思える時間が流れた。

「星神金太郎、キミはまだ輪廻りんねの輪の外には出られない。キミはまた別の世界に生まれ変わる。そこで農夫として一生を過ごすことになる」

「頼むよ」

 俺は祈りにも似た気持ちでゴールデンレトリバーの足にしがみつくが、そいつはかえりみたりしない。

「そこで気立てのいい女房と三人の子供と九人の孫、二十七人のひ孫を得る。九十歳で大往生。いい人生だと思わないか? でのできごとがどうでもよくなる。そうは思わないかい?」


「そんなステキでスバラシイ人生、いらねえんだよ」俺は行った。「俺にはやりたいことがあるんだ。ほかのヤツから見ればくだらなくてツマラナイ人生だろうとやりたいことが」

「何をしたいんだ、星神金太郎?」

「魔の山に登るんだ。仲間たちと頂上を目指す。全ての邪魔を振り切ってな」

「ふむ。威勢がいい。立派だ。ほめてあげよう」

「でも、それはあくまで最初の目標だ。いまは違う。仲間と何かをなしとげることが面白かったんだ。その面白さにようやく気がついたところなんだ。ここでひとりだけ退場だなんて、やってられねえ。山はただの目標でしかない。大事なのはみんなといることなんだよ」

 ゴールデンレトリバーの真っ黒な瞳が俺を見返した。口が開かれ、桜色の長い舌がべろんと飛び出した。

「なるほど。では安心するといい。どうやらキミの思い通りになるようだから」


「どういうことだ!?」

「キミはまだ死んではいなかったっていうことだよ。頭の打ち所が悪かっただけ。言ってみればそうだな。『仮死状態』ってところか。死ぬにはもう少しばかりで経験を積んでもらわなくてはいけないようだ」

 ゴールデンレトリバーの姿が遠くなる。あっという間に俺たちの距離は離れていった。

 なぜかというと、俺は引っ張られている。

 後ろから。

 超高速で。

 新幹線よりも早く、リニアモーターカーよりも早く、コンコルドよりも早く。なによりも早く。

「うぉおおああああああ!」

「それでは、しばらくだ、星神金太郎」

 ゴールデンレトリバーは前足の片方を持ち上げて、俺に別れを告げた。舌を出してわらったような顔で俺を見送った。

 いまや豆物のように小さくなったゴールデンレトリバーに向けて、返礼とばかりに俺は手をあげた。

 遠くなる。

 すべてが遠くなる。

 光も、闇も、色も、空間も、時間も。

 そして俺は――。

 目を覚ます。


 まったく俺に似つかわしくないことで申し訳ないが、目覚めると俺は女の子の腕に抱かれていた。

 全身鎧の騎士タナトス。

 彼女は雪原に立ち、俺をお姫様抱っこしていた。空からチラチラと細やかな雪のかけらが降っている。

「ホッシーさん……」

 タナトスは円筒形の仮面を脱いだ。中身は俺の想像していた通りの人物だった。彼女が頭を振ると、繊細な長い髪の毛からあたりにいい匂いが広がった。

「シンデレラ・シルバーレイク……」

「そうです。あたくしです」

 その目は潤んでいた。水分を潤沢に含んだ一雫が頬を流れ落ちた。

「やっぱりお前だったか」ズキリと頭の後ろが痛んだ。「お前でよかった」

「よかった。もうあなたをなくしてしまったかと思いました」

「どうやらまだ生き延びろという神様か何者かの思し召しらしい」

 俺は親指を立てた。


「ちょっと傷薬を頼めないか。このままじゃ助かる命も助からない」

「もう使っています」

「そうか。おお、確かに効きを感じる。今回の傷薬はハッカ入りか。スーッとする」

 頭の痛みが瞬時に消える。スマホもない、テレビもない、インターネットもない世界だが、傷の治りが早いところだけは元の世界に敵わない。

「ずっと見守ってくれていたんだな。ありがとう」

「いいんです。あなたたちがこの山に旅立つことになってしまったのは、ほとんど私の責任のようなものですから」

「責任感が強いんだな。おかげで助けられてる。いまこうして生きていられるのもシンデレラのおかげだ」

「そんな、あたくしなんて」

 シンデレラは頬を染めてうつむいた。

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