第4話 ことの始まり 前編
スルリ、と。
取り出したものをなんの躊躇いもなく呑み込んだあと、ソレはこちらを見て嗤っていた。
「……あれが来ますよ」
日頃聞くことがないおもしろくないという空気を含んだ声に、誰が来るのかはおおよそ見当がついた。
いつものように三つ揃いのスーツ姿で壁にもたれかかっているが、その眉間には普段はないシワがある。
この、基本自分にしか見えない人の姿を真似ているだけの人ではないものはほとんどの人間のことは見下しきっている。
人ではないので人の心は理解できないし、人のことは良くて玩弄して愉しむためのもの程度にしか思っていなければそれはそうだろう。
そんなものが、人相手に苛立つことなど普通はない。
しかし何事にも例外はあり、いまやってくるのがそのひとつだった。
玄関をノックしたあと、こちらがなにかを言う前に勝手に扉を開いてそいつは入ってきた。
「どうも先生。お元気ですか?」
「変わる要素がさしてないから普段通りだな、そっちは」
「こっちは忙しいのが普段通りですからねえ」
そう言って笑う顔は遠慮という概念ごと存在していないものだ。
青柳というこの男は数少ない顔馴染みのひとりだった。
年齢は確か40と少しだったか。
身長は190センチ近くあり、服の上からでも鍛えられた身体をしているのがわかる。
着ているスーツも、給料がいくらか知らないがそれなりに有名なブランドのものだ。
短く刈り込まれた黒髪に、整えられた無精髭といった点も清潔さを感じさせる。
そして浮かべているのは人好きしそうな笑顔とくれば絵に描いたような好人物と言いたいが、こいつの場合あまりにも絵に描かれた人物像すぎて現実味に欠けている。
そう見えるようにすべてを作りこんでいる、そんな印象だ。
これで職業が刑事とくる。
誰からも好印象の刑事なんてのは胡散臭いとしか言えない。
そして、普通の刑事ならこんな場所を事件もないのに訪ねてくるはずがない。
笑顔のまま、なにも変わらない調子でそいつは口を開いた。
「あちらも相変わらずですか? なんか睨まれてるのはわかるんですけど、俺はあいにくきちんとは視えないんですよねえ」
ちらりとそっちを見れば、普段しない不快さをやや浮かべた顔をして青柳を睨みつけている。
それを肌では感じながら笑った顔のままなのだから、知ってはいるがこいつも変わらずなにかしらズレている。
「あれが変わるわけないだろ、いつも通りだ」
そんなことを言いながら、こいつと出会うことになったきっかけをぼんやりと思い出していた。
目を開くと見知らぬ場所にいた。
見知らぬ、と言っても何処かはわかる。
消毒液の匂いと清潔さを強調させたような部屋。
何処かの病院の個室。そのベッドに寝かされていることはそれだけで理解できたが、何故自分がこんな場所にいるのかわからない。
腕には点滴の針が抜けないよう固定されているが、入院が必要なほどの病気になった覚えはない。
事情を聞くためにナースコールのボタンを押してから考える。
いったい自分になにがあった?
そう思った時、突然気付いた。
ここに運ばれるまでの記憶がまったくない。その前に自分がやっていたことは確か……。
そう考えた瞬間、頭痛がした。
同時に、なにかが嗤う声が聞こえた気がしてそのほうを振り返る。
自分を見下ろしていたソレと目が合ったのは、そのときだった。
次の瞬間、本能的に目を逸らしていた。
そこにいたのは、どう考えても人ではなかった。
人ならぬ存在など信じるはずもなく、そんなものの話をするものを馬鹿にしていたというのに、自分の傍に立っているそれは紛れもなくそうなのだと本能で理解できた。
暗い影をまとったそれは、ぼんやりと人の形をしていた。
ぼんやりと、というのは形は概ね人なのだが輪郭がぼやけていて時々ぐらりと形を崩していたからだ。
それなのに、こちらにまとわりつくような視線だけは感じる。
見るな、となにかが警告している。
まともにアレの顔を見れば終わる。具体的なものはわからないがそう感じるなにかがあった。
しかし、そう思えば思うほど、目は自然と人間なら顔がある場所へと向いていく。
そして、ゆらゆらした顔が形作られたそれを――見た。
「……な」
その瞬間、今度こそ完全に絶句した。
そこにあった顔を、自分は知っていた。
「なん、で……」
無意識にこぼれた言葉にソレが明確に、嗤う。
「おいおい、見慣れた顔だろう。なにをそんなに驚く必要がある?」
言葉が出ない自分の代わりに、ソレは自分が絶句している理由を口にした。
「アンタと一緒にアイツに襲われたやつの顔じゃないか」
そう――助手と勝手に称して共にフィールドワークについてきていた男のものと同じ顔をしたソレがまた嗤った。
同じ顔と言ったが、明確に違うものがひとつだけあった。
目だ。
人の形をした顔にある目だけは金色に光り、爬虫類かなにかのような冷たさを放っている。
その顔が、不意にどろりとその姿が溶けたと思うと、なにもなかったように戻る。
「ああ、まだ形がうまく作れないな。腹も減ってるからしかたない」
ごく当たり前のことのように言う光景は、自分からすれば悪夢としか言えない。
見知った顔がまるでチョコレートかなにかのように溶けて戻る光景など、正気で見れるものではない。
――正気、なのだろうか自分は。
そうだと自覚がないまま、自分はとうに狂っているのではないか。
でなければこんなもの、説明がつかない。
「都合よく逃げるのはなしだぜ、センセイ?」
「……は?」
嗤いながらソレは言う。
「人ってのは都合が悪いことをなしにできると思いやすいのは変わらないらしいな。あいにくと、あんたが狂おうとどうなろうと生きてる限り約束は守ってもらわないと困るし、守らないなんてことをさせるつもりもないんだよ」
約束? こんなものといったいなにをしたというんだ。
そもそもその顔の……あいつは何処にいるんだ。
いや、その言い方は正確ではないと理解している。
あの男は、どうなったんだ。
混乱を打ち破ったのは自分でもソレでもない、不必要なほど力強いノックの音と同時に開かれた扉から飛び込んできた声だった。
「どうも! 意識が戻ったって連絡があったので飛んできたんですが容態はいかがですか?」
この場にまったくそぐわない爽やかな声の登場に唖然とする。
現れたのはどう見ても看護師ではなかった。
それなりのブランドのスーツをまとった、絵から出てきたように現実味のない爽やかな笑顔をした男がそこにいた。
「……なんだ、あんた」
「誰でなくなんだと来ましたか。いやあ、参ったなあ」
まったく参ってない顔と声で言われてもこちらが困る。
「自分は警察のもので青柳風斗(あおやぎ・ふうと)といいます。そちらは◯◯大学の講師、目貫拓さんで間違いないですね?」
「俺の認識が狂ってるんじゃなければな」
「ははは、自分の正気を疑う人は正気ですよ安心してください」
遠慮などなにもなくストレートすぎていっそ清々しささえ感じる物言いに、ろくなやつじゃないことだけは理解できる。
「警察の厄介になる覚えはないが。ここにいることと関係があるのか?」
傍らに立っているソレのことは無視して、明確に人間であるほうにだけ意識を向ける。
「まあそうですね、たぶん関係があると思うんですけど。ここはちょっと特殊な病院でしてね。ああ、といって心のほうではないですよ?」
余計なひと言を加えながら青柳と名乗った男は話を続けた。
「目貫さんのですね、心臓が見つからないんですよ」
言われたことの意味を理解するのに数秒要した。
「……は?」
そして、口から出たのはそんな間の抜けた声だった。
「間違いなく生きてますし脈拍も確認できるんですよ。けど、いくら検査をしても心臓の姿がまったく見当たらないんですよね。というわけでこちらに」
「ふざけてるのか?」
「こんな非常識なことふざけて言ってもおもしろくないじゃないですか。事実しか言ってません」
事実だとあっさりと言いのけるこいつの神経がわからない。
心臓がないのなら生きているわけがない。当たり前の話だ。
それなのに、それがないにも関わらず生きているという。
こんなくだらないことを言うメリットもわからないし、目の前の男が刑事だというのも一気に疑わしくなった。
「なにかの冗談にしても笑えんな。大掛かりな悪ふざけにしても悪質すぎる。ほんとはなんの目的があって俺をここに入れている」
「まあ、信じろと言っても無理なのはわかります。けど……目貫さんの傍にいるそれが原因だとは思うんですよね」
その言葉にゾッとした。
同時に一気にソレの存在を嫌でも意識する。
「病院へと運ばれた経緯はある程度判明しています。発見されたのは××県◯◯村にある山の麓。聞き込んだところその土地に伝わる話を検証しに来たと村のお年寄りに話を聞いていたというのは確認できています。で、その山に向かっただろう日から一週間近く消息不明の後に衰弱した状態で発見。急ぎ搬送された先でさっきも言った通りの異変が発見されたためこちらに移動となった、というのがこちらで把握してることです」
あえて余計な感情をこめずに語られる内容に、徐々に自分の記憶が刺激される。
「問題はここからなんですよね」
青柳はこちらの心情などまったく理解するでもなく話を続ける。
「連れ立っていた同行者はいまだ行方不明のままです。そして、目貫さんからは心臓を見つけることができず極めつけに傍には明らかにここにいるべきでないものがいる」
ズキズキと頭が痛む。頭の奥にしまっているものをの蓋を無理矢理開けようとする感覚がする。
「その辺りのこと、説明できますか?」
頭の中に手が入ってきている気がする。
その手が無遠慮に脳をまさぐっている。
そしてずるり、とナニカがその記憶を引き出した。
そんな感覚と同時に、自分はそのことを思い出した。
見慣れた部屋、いつものように部屋にいる自分。
手には分厚い資料。傍らにはコーヒー。
いつもと変わらない風景。
――目貫先生。
そんな声とともに、誰かが部屋に入ってきた。
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