第2話 紙喰い奇譚
電話の音が鳴った途端、目貫(めのき)の顔は不機嫌なそれに変わった。
もともと表情に乏しく、特に笑った顔は長い付き合いのものでもほとんど見たことがないような男だが、こと面倒事に対してだけは正直らしい。
以前から交友らしいことは自分からはほとんどしていなかったが、現在はそれに輪をかけて人と触れ合うことはなくなっていた。
両親は共に健在だが若い頃に絶縁して以来一切の連絡を絶っており、親戚と呼ぶものからも軒並み嫌われているので最後に話したのがいつかも覚えていない。
いまの目貫に連絡をよこすのは、目貫が知人と呼ぶ知り合いが極たまに、それ以外は面倒なことを押し付けようとするものしかない。
鳴っている電話は今どき珍しい固定電話。
携帯は昔から煩わしいと持つことを拒否した結果、数少ない知人から連絡の取れるものをひとつは持てと強引に設置されたのこれだった。
そんななので番号を知るのは極わずかな知人だけで、その大半は出る前からわかっている面倒事絡みのときだった。
居留守を使っても意味がないことはわかっているのでさも億劫そうに電話に出る。
「なんだ」
『おう、俺だ。ちょっと頼まれてくれ』
聞こえてきたのは相応の年齢を感じさせ、ついでに押しが強い手合いだと伝わる男のものだった。
「元村のじいさんか。あんたが俺に用とは珍しいな」
『当たり前だ、しょっちゅう用があってたまるか』
苦りきった声に、少なくとも当人には深刻なことが起こっているのだろうことはわかる。
口調は荒いが別に電話先の相手は目貫を嫌っているわけではない、誰に対してもこんな態度なのだ。
「用件は」
「来たら言う」
来ないという選択肢を与える気もなくそれだけ言うと切れた電話に、億劫そうに息を吐いた。
「⋯⋯まったく。便利屋になった覚えはないんだがな」
「あるところでは実際便利屋でしょう?」
思わずボヤくと、壁のところからそんな声が飛んでくる。
いつ見ても無駄にスーツをしっかりと着こなしている自分よりかなり若く見える男をじろりと見たものの反論することはしなかった。
しないのはするだけ面倒だから、という理由でしかない。
出かけるからといって着飾る趣味はないが、甚平姿のままというわけにもいかないので、買ったのがいつかわからない服に袖を通して外へ出た。
向かった先は年季の入った古本屋だった。
「おう、来たな」
待ち構えていたのは目貫よりも年上の老人と呼んで差し支えがない、しかし矍鑠とした男だった。
呼びつけた元村というその男は、髪の毛は潔く坊主にしており、歳の割にはがっしりとした体格は以前聞いたところ七十を過ぎているとは思えない。
服装はシンプルだが隙がないあたり、目貫よりよほどしっかりしている。
「相変わらず元気そうだな」
「そっちは相変わらずシケた面構えだな」
「昔からだ」
「そりゃそうだ。てめえのツラ見るために呼んだわけじゃねえから、とりあえず中入れ」
そう言って先に店内へと消えた店主を追って目貫も中へ入る。
雑然と見せてわかる人間にはきちんと区分されているのがわかる本棚と、その棚に入り切らず積まれている本の山。
置いてあるほとんどはチェーンの古本屋ではまず見かけないようなものがほとんど。
そのため目貫も昔からここには世話になり、必然的に店主とも顔見知りになっているわけだった。
目貫は本を読むことが多いが、娯楽本の類はまったくと言っていいほど読まない。
もっぱら歴史、民俗学などを読んでおり暇つぶしに辞書に目を通すこともあるが、いわゆる創作と呼ばれるものにはいっさい興味を示さない。
この店は目貫の専攻していたものそのものの本があったわけではないが郷土史が豊富なため、講師時代も世話になっていた。
なにより店主である元村の、一応は客商売であるはずだが無駄な接客や付き合いをする気がない性質が目貫には合っていた。
それはあの当時より輪をかけて人付き合いをしなくなったいまでも変わらない。
「相変わらずだなこの店は」
「嫌味か。相変わらずならわざわざお前を呼ばねえよ」
それはそうだと思うものの、ぐるりと周囲を見渡してすぐにそれとわかる異変があるわけではなかった。
そもそも、目貫自身がなにか特別な力を持っているわけではない。向こうがこちらに姿を見せたいものは否応なく見えるが、それ以外に関してはなにも持っていない。
ありふれた凡人だと目貫自身は思っているのに、悲しいかな周囲はそうさせてくれない。
「パッと見ておかしなところはなさそうだが」
「先生、あっちに離れて置かれてる本の山のほうを見てくださいよ」
元村に言ったはずの言葉にまるで呼んでない相手から返事がきて思わず顔を顰める。
「この本は」
「見りゃわかる」
無愛想極まりない返事に目貫はかがんで積まれていた本を一冊取り出してめくった。
「⋯⋯あん?」
「見ての通りだ」
「喰われてるな」
目貫の言葉は本来の意味ではなかった。
まるでなにかが食い荒らしたように、開いた本はごっそりと文字だけが紙には一切傷を付けずになくなっていた。
「呼んだ理由がわかったろ」
そう言われた目貫は大仰にため息をついた。
「あのなじいさん。俺は別に霊能者なんて自称してる連中とは違うんだ。こんなのどうしろっていうんだ」
「知るか。お前がなんだろうと『そういう』のはお前くらいしかあてがないだろ、少しはなにかやってから文句は言え」
知るかはこっちの台詞だと言いたいが堪える。
実際目貫は霊能者ではない。なんならそれを自称する人間を馬鹿にするタイプだ。
なのに自身がそう思われているのは、ひとえに過去にあった出来事をきっかけに主に呪いに分類されるトラブルを嫌々ながら解決したことがあるのを知られているからだ。
「ちなみに、ここに積んであるのは全部こうなのか?」
「ああ、そうだ。いまわかってるだけでな。その辺りはうちじゃそれほど貴重じゃないが、他に手を出されたら困る」
「買い取りでついてきたものの一部か。内容は?」
聞くとふんと元村は鼻を鳴らした。
「お前風にいえば絵空事の集まりだよ」
「なんだ、そんなものか」
思わず言った言葉に、いまにも怒鳴りつけんばかりの形相で元村は口を開いた。
「どんな本だろうとこんな目にあっていいわけがないだろうが」
その言い方はまるで道理のわからない子どもへの説教のようでおもしろくはなかったが、ここで論争をするだけ意味がないのでやめておいた。
「とりあえずしばらく調べてみる」
「おう、期待せずに待ってるぞ」
期待しないのならはなから呼ぶな、とはもちろん言うはずもなかった。
「喰われてるものの共通点があればわかりやすいがな」
そう言いながら積まれた本の背表紙を見てみたが、少なくとも目貫に縁のあるものはない。
あらすじを読めばと思ってもそれすらも喰われている。
よほど喰いごたえがある本なのか、それが目貫にはわからない。
「資料のようなものではなさそうだし、あのじいさんは絵空事の集まりと言ってたのなら喰われたのはそういうものだけってことか」
もちろん、この店にまだあるそれを喰らい尽くして消える保証はない。
目貫にとって価値のある本までこうなる前に止めたいというのが嘘偽りのない本音だった。
本の価値は人による。
どれだけ人気があろうと名作と賞賛されていようと、それを求めてない人間には無価値でしかない。
そしてそれは、なにも本に限ったことではないのだ。
「まあ、あんまりじいさんを困らせるのも本意じゃないしな」
「おや、あのご老体とそんなに仲が良いんですか先生」
元村がいなくなったからか、からかうように聞いてくる相手に目貫は睨んだ。
「それなりに長い付き合いなだけだ、講師になるより前からな」
「先生にしては信じられない長さのお知り合いですね」
「扱ってる本の質がいいからな」
「我欲に忠実なのは素晴らしいと思いますよ」
本心からではないことを見透かすように助手が嗤うのは無視した。
本の古さからして目貫は知らないが長らく人気のある物語たちなのだろう。
古典童話などは民俗学に通じるので目を通すが、それ以外のものはどれほどの名作でも目貫は自分で読むものを選べるようになって以来、課題などで必要だったもの以外は読んでいない。
ただ、それらが一定数の人々には愛されていることは理解できる。
「愛されてた、支持されてた、か」
考えながら目貫は似たような本が並んでいる棚に向かう。
「ずいぶん目立たない場所に置かれてるんですね」
「この店に来るようなのにはほとんど必要がないからな」
「なら、店に置く必要はないのでは?」
「冷やかしが来ることもあるし、資料以外のものもたまには買うやつもいる。店によってはたたき売り同然のところもあるが、あのじいさんはそういうのが嫌いなんだよ」
そんなことを話しながら目的の棚の本を見る。
どれもタイトルくらいは目貫でも知っているものがほとんどだ。
「この棚のものが喰われてるなら元凶もここにある可能性はあるな」
「先生の知らない世界がこんなにあるんですねえ」
「減らず口をたたく暇があるならさっさと探れ」
目貫の言葉に相手は嗤い、そして愉快そうに棚に並んでいる本に指を向けてそれを動かし出した。
「ははァ」
そうしていたのはほんの僅かの間、その指が止まった先にあるものを目貫は取り出した。
「なんだ?」
それは率直な感想だった。
手にしたそれは、本ではなかった。
古びたというほどではないがそれなりに年数は経っているだろうノート。
目貫の手にあるのはそれだった。
「なんでこんなものがある」
言いながら目貫はパラパラとノートに目を通した。
どうやら内容は端書き、おそらくだが創作の断片だろう。
「創作ノートというやつか?」
縁もゆかりも無いものなので目貫には判断がつかないが、ところどころに創作とは関係のない走り書きが見つかった。
『こんなものでは到底――』
『どうしても理想には程遠い――』
『いっそ――』
そこに、目貫の目が止まった。
文字はそれだけが別のもので書かれたのか暗い赤色をしていた。
『いっそ物語など存在しなければ苦しむこともなかったのに』
「⋯⋯馬鹿か?」
思わず顰め面でそう吐き捨ててしまった。
自分の力不足を悩むのは自由だ、それでも諦めきれないのもありふれたことだ。
だが、それを行おうと、自分もそうなろうと目指し叶わないと絶望しその出会いを悔い呪った挙句、八つ当たりのように他のものまで消え去れなど呆れる以外ない。
「救えん馬鹿だな」
そう切り捨てて目貫はそのノートを持って店の主に声をかけた。
「じいさん、あったぞ」
「ほんとか?」
「こいつだ」
そう言って元凶のノートを渡し、しばらくその中を読んでいた元村の反応は、しかし目貫とはまったく違うものだった。
「⋯⋯馬鹿だなあ、こいつは」
そこには明らかに憐憫が含まれていた。
「逆恨みで被害を被ったのにそんな顔するもんかね」
「お前にはわからんよ」
その言葉にかすかにムッとする。
「ああ、わからんね。おそらくはこのノートの書き手が元凶なのはわかる、そのせいであんたの大切な本が喰われたのもわかる。なのになんで、あんたは犯人を赦そうとする?」
言い放った目貫に向けられた目は物事を知らないものを見る目に感じて気に入らなかった。
「なりたいものになれなかった人間の気持ちは、お前にはわからんだろうよ」
「なんだそれは。まるで俺が挫折知らずの成功者みたいじゃないか」
「そのほうがマシだ。お前はそもそもなにかを心から欲しがったこともないだろ」
なにもかもわかったような言葉に顔を顰めたが反論することはしなかった。
目貫はこのノートにあるような情熱とは無縁だ。
だから、そこに由来する絶望とも無縁だ。
だが、それでも。
なにかを言いかけたのを飲み込んで、目貫は呼ばれた用件に対することだけ口にした。
「⋯⋯たぶん、それを燃やせば解決するだろう。喰われたものが戻るかまでは保証できないがな」
「わかった。こっちで供養しとく。ご苦労だったな、礼はそのうちまともなメシの肴を送ってやるよ」
最後の言葉も目貫には気に食わなかったが、黙って店を出た。
帰宅途中もなにかを欲したことがないと元村に言われた言葉が頭にへばりつく。
馬鹿を言うなと怒鳴りつけたかったのが本音だが、それを言っても始まらない。
欲したものはあった。欲することを欲したことが。
目貫が物心ついたとき、周りにはほとんどのものが揃っていた。
なにかを欲しいと言う前にそれらは用意されていた。
望むものはこれだと与えられてきた。
その中に、どれひとつとして目貫の望んだものがなかったことを理解するものは誰もいなかった。
ただ、与えたいものを与えているだけなのだと気付くのはすぐだった。
だからすべてに反発した。
与えられることがない、自分に相応しいと思うものを選び続けた。
家を出て安アパートに住んだのも、一流を望む声も無視して三流と見下す大学に進んだのも。
そして、呪いを専門とする講師になったのも。
呪いの研究は天職だと思っていた。自分の人生においてこれほど馴染む題材はないと思っていた。
それでもたったひとつだけ、いまの目貫には後悔がある。
「おや先生、怖い顔だ」
「黙れ」
何故、あのとき自分は彼を連れてフィールドワークになぞに出たのか。
「俺だって、なにも不自由してないわけじゃないんだよ、じいさん」
そうこぼした声はそれこそ不似合いな響きがあった。
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