相談承りマス
蒼猫
第1話 相談承りマス
「お客さんが来るみたいですよ」
その声に家の主である男は、読んでいた本から顔を上げた。
見たところ初老はとうに過ぎているだろうその男の第一印象は、あまり良いとは言えなかった。
外見に気を使っているところがまるでなく、ヒゲこそ剃っているが癖の強い髪は自分で雑に切っているのかそれを無造作に束ねただけ。
服装は年季の入った甚平姿だが、来客のことを聞いても着替える気はなさそうだ。
顔を覆っている前髪から覗く目は、目尻は垂れているものの三白眼と呼ばれるもののためなのかかけている眼鏡の度が合っていないのか何処か相手を睨んでいるように見える。
いまいるのは玄関らしい扉が目の前に見える和室だが、男の持ち家ではない。
賃貸で部屋はこの和室だけ。最低限使える台所がありはするが、風呂は当然のようにない。
そんななので家賃は格段に安いここに暮らしてもうだいぶ経つが、金に困っているのかといえばそうでもないらしいのは男がまとう空気から察せられる。
困窮しているもの特有の空気感というものが、男にはまったくない。そういうものに頓着していない投げやりさのほうがむしろ感じ取れる。
そんな男の部屋のほとんどを占めているのは、出して以来しまわれたこともなさそうなコタツ。
部屋の主よりも主のような存在感のあるそれの中に入っている男は、その住まいと外見に相応しい仕草とでもいいたげに億劫そうな息を吐いた。
「またなにか厄介事か⋯⋯面倒くさい」
「そうは言っても追い返さないんでしょ? 数少ない人との触れ合いなんですから」
茶々を入れるような返事に、じろりと男は声がするほうを睨む。
そちらに立っているのは、コタツの男とは対象的にストレートの髪をきちんと切り揃え、そこから覗く顔はそれなりに異性から好感が持たれるだろうには整っている男だった。
夏だというのに三つ揃いのスーツをきちんと着込んでいる姿なのに暑さを感じさせず、むしろ人を寄せ付けないような冷たさが感じられた。
「他人事だと思って勝手なものだ」
「やってくる彼らが用のあるのは僕じゃないですからね、他人事なのは当然じゃないですか」
なにを当たり前のことをと言いたげな目でこちらを見てくる相手に、男はまた息を吐く。その様子にやれやれと相手は肩をすくめた。
「手に負えなさそうならいつものようにサポートしますよ、とりあえずお客のためにお茶の用意でもどうです?」
「一度もしたことがないのを知っていてよく言う」
そんな埒もない会話をしている間に、遠慮がちに扉をノックする音がした。
本来あるはずの呼び鈴というものはどうも壊れているらしいが、男の様子からして直す気はないらしい。
「開いてますよ、部屋を間違えたのでなければそのまま中へどうぞ」
愛想の欠片もない声だったが、それで引き返す気配はなく扉が向こう側から開かれた。
立っていたのは、こんな部屋を訪れるには似つかわしくない若い女性だった。
年齢は大学生あたりだろうか。
服装などにもそういう雰囲気は漂っているが、夏にも関わらずタートルネックの長袖姿というのは少しだけ気になりはする。
「あの、目貫拓(めのき・ひらく)さんのお宅はこちらですか?」
「残念ながら合ってますよ」
そう答えてからも女性は目の前に見えている部屋の光景と、コタツに入ったままの目貫と呼ばれた男を見て躊躇っているようだった。
「用があるならそこで靴を脱いでこちらに。スリッパなんて気の利いたものはないのでそのままで」
「あ、はい⋯⋯あの」
「話したいなら中に来てください。そこに立たれているのは困ります」
汚れるほどの家具もなにもない部屋だが、女性はそこからまだ少し躊躇ったあとけれど引き返すことはせず「お邪魔します」と礼儀正しく挨拶をしてあがってきた。
その外見から判断するなら派手に遊ぶタイプではないようだし、そもそもそういう輩はここに来ることはない。
しかし、最近は見た目によらないことも少なくないから当人の話を聞くまではわからないだろう。
そんなことを心の中で判断しながら、目貫は相変わらず億劫さを隠さない声のまま話を続けた。
「座布団もないので適当なところに座ってください。茶の類もありませんので」
「大丈夫です、お気遣いなく」
そんなやり取りをしてから、目貫はゆっくりとコタツから出てぼりぼりと頭をかきながら部屋の隅に置かれている冷蔵庫に向かった。
「大家からもらった缶コーヒーがまだ残ってたかな」
「いえその、本当に大丈夫ですから」
「自分が飲みたいだけです。話を聞いてる間手持ち無沙汰なので。何本かもらってるので飲みたければ自分でどうぞ」
一方的に話しながら目貫は缶コーヒーを宣言通り自分の分だけ取り出してコタツに戻った。
女性は取りに行くこともなく、気を取り直して話し出そうとした。
「あの、わたしは」
「自己紹介は結構です。名前を聞く必要もありませんし、普段なにをされていようと用件に関係なければ話さなくて構いません」
丁寧に話を始めようとした女性に、目貫は突き放すように切り捨てた。
この男に接客以前にコミュニケーション能力というものを求めるだけ無駄なのは、これだけで相手にも十分伝わっただろう。
「飲みながら聞きますけど。あんまりこういうものに縁があるように見えませんが、どういう経緯でここを?」
「えっと⋯⋯友達の友達からっていう噂で」
いつの間に自分は都市伝説になったのだ。そう思いはしたが黙ったまま先を促す。しかし、相手が言ったのは相談の内容ではなかった。
「失礼かもしれませんが、あの、目貫さんは◯◯大学に以前」
その先を引き取って、心底面倒そうに目貫は言った。
「いまその話が必要ですかね。確かにその大学で講師をしていたこともありますよ、専門もその様子だとご存知のようですね」
目貫の問いに女性は頷いた。
「民俗学の⋯⋯ひとつだと」
「良いように言えばね。その中でも特に呪いにまつわることに取り憑かれたって評判が立ってましたが、あることで入院したときにいろいろとくだらない噂が立ったため嫌気がさして辞めてこうしてるってわけです」
目貫拓、現54歳。関東のとある大学で民俗学、特に呪いを中心に講師をしていた過去がある。
あるときフィールドワークに出かけたきり数日行方不明となり、発見されたとき身体は衰弱しきった状態で意識も混濁していたためそのまま入院し、退院するとともに大学を辞めた。
ひとつ嘘があるとするなら周囲の評判も噂も目貫は一切興味も関心もなかったが、そうしておいたほうが余分な質問をされないので放っておいている。
話して楽しくもおもしろくもない来歴だが、それがいまここに暮らしている理由であり、ついでにこうして『客』が来る理由でもある。
つまり、呪いというものを信じていて、かつ、それを自分にかけられているという者たちが。
呪いに関する研究をしていただけのものに相談をしにくる人間など普通はいない。
そのいないはずのものがこうして現れるのは、目貫がそういう専門家であると一部で噂されているためだ。
奇妙なことに噂はそれを必要としているものにしか届かないため、こうして時折訪ねてくるものはいてもからかい目的のものは来ないだけマシだろう。
そして、その裏付けのように解決したことがあるため噂は限られた中でまた広まっていく。
面倒くさい。
目貫自身はそうとしか思っていないことは、もちろん目の前に座っている者には言うことはない。
「本題に入りますけど、ここに来ようと思った原因を教えてもらえますか?」
その問いに少し間があってから、女性は躊躇いがちに長袖を少しまくって見せた。
「ほお」
つい、そんな声が出たのはしかたがないだろう。
それほどまでに見事なほど、異常だったのだ。
「⋯⋯文字、それも鏡文字か」
目貫が言った通り、あらわになった腕は手書きらしい逆さになった文字で埋められていた。といって、ペンやタトゥーシールの類ではないのはひと目でわかる。
『刻み込まれている』という表現がしっくりくるものだったから、タトゥーの例えは大きくは外れていないかもしれない。
反転した状態の文字、それが一種の模様のように腕に刻まれているのはいっそ見事とも言えるし、少なくとも両腕がこうなっているのだろうことは想像できる。
「範囲は」
「最後に見た時は両腕と背中も見えるところまで広がってました。あとは、わかりません」
「わからないとは?」
「⋯⋯怖くて、確かめるのをやめたからです」
話によると始まったのは数週間前、ふと見ると右腕の内側に文字らしきものがあったのだという。
太いマーカーを使ったような反転文字なのでなんと書かれているのか一瞬わからなかったが、理解した途端ぞっとした。
『シね』
シンプルだが明確な悪意が腕に刻まれていたら怖くもなるだろう。
その日から文字、正確には言葉が増えていった。
『消エロ』『許サナイ』
単語の時もあれば長い言葉もあったが、すべて悪意と憎悪に満ちていた。
皮膚が赤くなるまで擦っても消えることはなく、そうしているうちに腕と背中のほとんどを文字で埋められてしまっていたという。
もう少し早い段階で相談に来ても良さそうなものだが、そもそもこんなことを解決できるだろう場所など普通は知らないし、迂闊に誰かに話せば正気を疑われるのは当人なのだから悩んだことだろう。
そんなときに、まるで誘導するかのようにその噂が耳に届いたのだという。
呪いにまつわる問題を解決してくれるものがいる、と。
「つまり、あなたはいま自分の身に起こっていることを呪いだと思ったわけですね」
「はい」
「理由は?」
「えっ?」
思ってもみない質問だったらしく聞かれた女性は困惑したように目貫を見た。
「怪奇現象というものは様々あります。その中でこれを呪いだと判断した根拠はなんですか?」
「だって、こんなの他になんていうんですか?」
怪異と呼ばれるものにはいろいろとあるのだが、説明するだけ時間の無駄だなといまのやり取りで目貫は判断した。
狐狸の類は流石に現代ではなかなかお目にかからないが、それに代わる怪異は増えている。
現象の数だけその原因となる怪異もあるのだが、当事者が『そう』と思い込んだ瞬間、それはその形で固まってしまう。
本人が呪いだと信じれば、それはもう由来がなんであれ呪いなのだ。
「じゃあそういうことでいいです。原因のことですが心当たりは? 例えば、心霊スポットに行ったとか」
「そういうのは好きじゃないので行ったことはありません」
「オカルト的な流行りに手を出したとかは?」
「ありません、興味がないので」
優等生のような答えだが、この場合導きだされる結論は当人がもっとも望まないだろうものだ。
「なら、あなたに恨みを持つ誰かに呪いをかけられたということになりますね」
言った瞬間弾かれたように女性が叫ぶ。
「そんなのありえないです!」
「どうして?」
その反応を見て突き放すように目貫は問う。
「どうして、って」
「外的原因が浮かばないなら、残るのはそれしかないじゃないですか」
「だって、そんな⋯⋯」
まあそうなるだろうというのは、目貫にも想像はできる。
自分が誰かに嫌われるということを受け入れられないものは多い、それなのに呪われるほどの原因がお前にあると言われれば大抵はこう返すのが普通だ。
「ハッキリ言いますが、嘘をつかれてもなんの得にも解決の手助けにもならないのでそこは正直に答えてもらいたいんですがね」
「ありません、絶対です。どうしてこんなことが起こってるのかわたしにはわかりません」
この答えも、正直目貫には聞き飽きているものだ。
自分が恨まれている自覚が仮にあったとしても大抵は隠そうとするし、まして自慢げに話すはずもない。
中にはそういうものもいることにはいるが、そういう類には関わらないと決めている。もしそうだったらこの時点でお帰りくださいと言うだけだ。
嘘をついているか否かにはさして興味はない。今回は恨まれる理由もその相手にも心当たりがないと本人は主張している。
目貫はひとまずそれだけを確認した。
「相手を特定する材料がほしいので次の質問です。書かれていることについてですが、心当たりは?」
「それが⋯⋯一番わからないんです」
その答えに目貫の顔が僅かだが変化した。
「わからないとは?」
「その、死ねとか許さないとか、そういうのは相手はわからなくてもその意味も意図もわかります。でも、その中に意味のわからないものが混ざってるんです」
「例えば?」
「えっと、その⋯⋯」
ここで言葉を濁しても意味がないだろうにと思うが、とりあえずしばらく待つ。
「⋯⋯彼を返せとか、彼は私のものだ、とか」
「それがわからない?」
ありふれた言葉だが、彼女は小さく頷いた。
「わたしいま、特に付き合ってる人とかいないんです」
「失礼承知でいいますが、彼氏ではなくともという関係の相手は」
「そんなのいません!」
見た目通りの優等生タイプらしい。そう思われること自体が侮辱だとでも思うのだろう。
「なら、あなたは無関心でも好意を持たれてる相手、告白されたが断ったというようなことは」
「そんなにモテるような女じゃないですから」
その線もない、ということらしい。
少なくとも本人にとっては、というのを頭の中で目貫は付け加える。
知らないだけで勝手におかしな妄想を持つものはこの世には当たり前のようにいるし、そんな奇矯な相手のことをこれまた一方的に想うようなものもあるのだ。
ここまで聞いた話が事実なら本人に自覚のない逆恨みの線が濃そうだが、まだ確信には至らない。
「もう少し、文字を見せてもらっていいですか」
「でも、あの」
躊躇った理由はすぐに気付いたので、心底面倒そうに目貫は付け加える。
「なにも脱いでくれとは言いませんよ、できる範囲でいいので袖をまくってほしい。それだけです」
そう言われて、女性はおそるおそる腕の袖をまくってみせた。
びっしりと、重なってる部分はあっても潰れて読み取れない箇所はない。
当然だ、読めなくては相手に伝わらない。伝わらなくては効果がない。
相手が理解して初めて、呪いというのは意味を持つのだ。
ざっと目を通しただけでも、反転された文字だとしてもそこに連なっているのが悪意と敵意に満ちていることは文字から目貫にも伝わってくる。
「読めなければ意味がないからその辺りはこういうとき助かるな」
なにも良いことではないはずのことを、まるでそれこそ資料かなにかを見るような目で目貫はしばらく観察していた。
「流石に鏡文字では読みにくいが名前があるな⋯⋯うん?」
書かれている文字を見ていて、初めて目貫から人らしい反応が出る。
「男の名前らしいものが複数人分ある」
正確に読めなくとも違う名前だということくらいは区別がつく。
複数の男の名前があるということは、呪っている相手が想っているのがひとりではないということか。
しかし、それほど節操がないのなら呪うほどひとりひとりに執着するとは思えない。
「となると⋯⋯問題は相手のほうか」
考えながら話す癖でもあるのか、誰に聞いてるわけでもないことをいくつか口にしてから目貫は女性のほうを向いた。
「知り合いで、あなたとは真逆で派手に遊ぶタイプの心当たりはありますか? それこそ、他人の恋人でも気にしないような」
「あの、それってなにか関係あるんですか?」
「そう聞くということは心当たりがあるんですね?」
質問に質問で返すなと指摘することはせず、更に質問を重ねればしばらく悩んだように口を開いた。
「⋯⋯あります」
「関係は? あまり好んで付き合うタイプではないと思いますけど」
「親しいかと聞かれると、違います。ただそういう人に心当たりがあるっていうだけで違うかもしれませんが」
「違うかどうかは調べればわかりますから、とりあえず教えてもらっていいですか」
関係ないかもしれない人間に呪いをかけた疑いを持つなど失礼だとでも思っているのかもしれないが、そういう人の良さはこういう場合邪魔にしかならない。
「⋯⋯同じゼミにそういう子がいて。なんていうか、あまり好きになれないタイプで」
「さっき言ったようなことも平気でするくらいのということですね」
「そうですね⋯⋯なんならそういう話を自慢してるのを聞いたことも何度かありますし」
その女がかなり性格に難がありそうなことだけは、言い方と表情でわかる。
「接点は」
「ゼミ以外はありません。住む世界が違うっていうか、とにかく苦手で」
「なるほど。話が飛ぶように聞こえるかもしれませんが、最近なにか物をなくしたりしていませんか?」
「え?」
「ありませんか?」
何故も言わせずにその点だけ考えろというように重ねて問えば、しばらく考えたあと「そういえば」と口を開く。
「たいしたものじゃないですけど、ペンを1本。何処かで落としたんだと思いますけど」
「じゃあたぶんそれか」
「え?」
目貫ひとりで納得していると、相手が説明を求めるように見てきている。
呪いの原因など知ったところで気分が良くなるはずもないのに、決まってこうして説明を求めてくるのがいまだ目貫には理解しかねたが断る義理もない。
「結論から言えば、呪われてるのはあなたじゃないと思いますよ。ただの身代わりです」
あっさりと、本当にあっさりとそう言われて相手は唖然とした顔になる。
「身代わり⋯⋯?」
「たぶん、さっき言った相手が実際には呪われているんでしょう。それも複数人、調べればわかると思いますが書かれてる男の名前分からね。それを受けていた相手が、被害から逃れるためにあなたを身代わりにした。それだけです」
呪いをかける方法も、それから逃れる方法も、その気になれば知ることができる。
かけるほうも逃げたほうもそれを活用しただけだ。
もちろん、そんな説明を聞かされた側はたまったものではないが。
「どうして!?」
ここに来て一番感情的に発せられた言葉にも、目貫は冷静だった。
「誰でも良かったんですよ。さっきペンをなくしたと言ったでしょう。たまたまそれを拾ったのでちょうどいいと使った。たぶん、本当にそれだけですよ」
ごく当然のように説明しても、相手は納得しようとしない。苦しんでいたことの理由が『誰でも良かった』と言われてしまえばしかたもない。
「そんな、そんなことでわたしが!?」
「じゃあ聞きますけど、私怨であなたを身代わりにしたのほうが良かったって言います?」
そう聞き返せば相手は黙る。それも当然だ。
「自分じゃなければ誰でもいいなんていうのは、よくある考え方でしょう? あなただって聖人君子なわけじゃない、いまの呪いから逃れられるためならある程度のことをする覚悟くらいはあったはずだ。まあ、どの程度の覚悟かなんてのは聞きませんけど」
なんとかしてほしいと目貫の元に訴えてくる割に、それがなにかが明確でないものはいくらでもいる。
それこそ、呪いを解くためには他人を犠牲にする必要がある場合もあるということを考えてすらいないものも少なくない。
それを悪いとは言わないし、想像力不足だとも目貫は言う気はない。
普通ならば縁がないものにそこまで考えが至るもののほうが稀なのだ。
そもそもそんなことは目貫には関係ない話だが。
「⋯⋯これから、どうしたらいいんですか」
そう聞いた女性に、目貫はコタツに置いてあった適当な紙とペンを差し出した。
「その心当たりの名前を書いてください。フルネームで。知らないのなら調べます」
「いえ、知ってます⋯⋯でも、それをどうするんですか?」
「それを聞いてどうするんです?」
冷たささえ感じるように聞けば、相手は黙った。
人が良いというのも程度によるなと、目貫はこういうときに心底思う。
躊躇いがちに書かれた名前を見て「ふむ」と言ったあと、女性のほうを見た。
「数日中にはその文字は消えると思いますし、今後またそれが戻ってくるということはないと思います」
あっさり言われた女性は拍子抜けしたような顔と問いをする。
「そんな簡単なものなんですか?」
「消えるときはそんなものです。ああ、もしその心当たりがなにかを言ってきても無視することをオススメしますよ。もっとも、どんな性格か知りませんけど呪いを誰かに流したはずなのに戻ってきたと騒ぐような馬鹿ではないでしょう」
そんな余裕もないだろうしな、というのは心の中にだけ留めておいた。
「そういうわけで、話は終わりです」
切り捨てるように言い切られ、戸惑うように女性は聞いた。
「あの⋯⋯お礼などは」
「いまそれを聞きます? せめて起こってるものが消えたと納得してから言うものでしょう」
まだ解決した証拠すらないのにこの人の良さ、よく詐欺に引っかからないものだと目貫は流石に呆れてしまう。
「ひとまずお帰りを。無事に消えたらその時に」
それで話は済んだのだからさっさと帰れという意図を察したのだろう。少しの間困惑してから軽く頭を下げると「お邪魔しました」と出ていく姿を見るでなく見ていた。
「とりあえず名前は手に入ったな」
客が帰ったあと、目貫がそう言ったのはひとりごとではない。
先程の話の間ずっとここにおり、しかし最後まで女性が目線すら向けなかった相手は目貫の言葉に口を開いた。
「つまり、本来それを受け取るべき相手に送り返すということですね」
「合ってるかどうかはお前なら見ればわかるだろ。返すのとついでにまた同じことを考えないように軽く言っておけ」
「軽く、ですか。先生も人が悪いなあ」
「お前にだけは言われたくない」
鬱陶しそうに目貫がそう言えば、相手はククと愉しそうに笑った。
かつて向かない講師をしていたとき、助手のように何かと目貫に付いてきていた男がいた。
若いのに呪いなんてものに興味を持つ変わり者で、目貫のフィールドワークにも付き合うほど物好きな男だった。
その男はいまはもういない。
目貫が行方不明になったあのフィールドワークのときに共に消息を絶ち、しかし彼はいまだ発見されていない。
そしてそれ以来、その姿を借りた人ではないものが目貫の傍らにいるようになった。
『先生』とあえて目貫を呼び、わざとらしく助手のように振る舞う、目貫以外にはそれが自ら姿を見せない限りほとんどのものは見ることができないもの。
それとの暮らしにもやり取りにも、目貫はもう慣れてしまっていた。
「呪い返しはお前の得意分野だろ、うなされる程度に留めておけ」
「若い子には甘いですねえ、まあ意味もなく狂わす趣味はないので眠るのが少し怖くなるくらいに留めますよ」
愉快そうに嘲笑うような顔をしながら、それはまた尋ねた。
「ところで先生、あのことは言わなくて良かったんですか?」
「なにがだ」
「さっき来た彼女に付きまとってた、ここへの入り方がわからず周囲をうろついてた男のことですよ」
その言葉にああと言った目貫の声には、なんの感情もなかった。
「呪い以外は俺の知ったことじゃない」
わかりきっていた答えに『助手』はククとまた笑う。
「本当に、人が悪い」
「相手は生きてる人間だ、気付いてから警察なりに言えばいいだろう。自分の手に余ることに関わらない、それだけだ」
「なるほど大変『人間』らしい言葉ですね。じゃあ、僕はこちらを片付けてきますよ、先生?」
そう言ってすぅと姿が消えたのを確かめることもなく、まだ少し残っていた缶コーヒーの中身を目貫は飲み干した。
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