50.ある日のリン(1)

その日、リンは非番だった。


朝、明るい日差しを瞼ごしに感じてリンの意識がゆっくりと浮上する。昨日は寝入ったのが遅かったので正直まだ寝ていたい所だが、一方でこのまま寝続けるのは夫であるイーサンへの罪悪感も募る。



昨夜、リンは明日は休みという事でイーサンとイチャイチャして夜更かししてしまったのだ。


「私は明日、休みなんだ」風呂上がりにリンはそう言ってウキウキとイーサンを夜飲みに誘い、ワインを飲んで、夫の赤茶色の長い髪の毛をサイドから編み込んで楽しみ、その逞しい胸板や二の腕をペタペタと触ってなし崩し的にベッドへと誘った。


「おい、俺は明日は早出なんだ」当初はそう言って酒盛りに消極的だったイーサンは、勧められるままに一杯だけとワインを飲み、編み込んだ髪にリンが愛を囁いて騎士らしく口づけすると口元を緩め、リンが胸筋を触ると、ぐう、と唸って「リン、その気にさせた責任はとれよ」と言いながら抱き締めてきた。


明日が休みのリンとしては望むところであった。


という訳で夜更かしになった。


そして今朝、まだ朝日が昇ったばかりの時間、イーサンは微睡むリンに名残惜しそうに何度もキスをしてから仕事に出かけている。

リンは何とか「行ってらっしゃい」と言ったと思う。あんまり覚えてないが、たぶん、言ったとは思う。「行ってらっしゃい」がきちんと言葉を成していた自信はないが。


「うううー」

まだ眠いし、イーサンとは違ってワインもそれなりにいただいたリンは酒の余韻も残っている。ここは昼まで贅沢にゴロゴロしたいが、昨日自分が計画的に甘い夜更かしに巻き込んだイーサンは既に働いているのだ。


「イーサンも働いているし、起きるか」

そう呟いてリンは身を起こす。

城の勤め人の出勤の時間はとうに過ぎているが、それでも今はまだ常識的な朝の時間帯だ。

これくらいの時間に起きれば、巻き込んだイーサンへの罪悪感も少なくて済む。


のろのろとベッドから出て、顔を洗う。

頭がしゃきっとしてきたリンは、綿のズボンと着古した白いシャツに着替えると階下のダイニングへと向かった。



「あらまあ、おはようございます。旦那様ならもうお出掛けになられましたよ」

ダイニングでは、一仕事終えた住み込みメイドのベラが朝食を食べている所だった。

もぐもぐしながらリンの朝食を用意しようと立ち上がるベラ。リンはこのメイドのこういうおおらかな所が好きだ


もぐもぐしながらも動き出すベラを制して、リンは自分でキッチンからパンとスープを取ってきた。

スープはまだ温かい。


「奥様に用意させてしまい、すみません」

「いいんだ、遅くに起きた私が悪い。ニッキーは学校か?」

ニッキーはベラの連れ子で12才の少女だ。


「はい、学校ですよ。今日は帰ってくるのはお昼過ぎだったかしら」

「そうか」

「奥様は本日はお昼と夜は家で召し上がりますか?」

「ああ、そうか。今日はイーサンは外で食べてくるんだったな」

ベラに聞かれて、昨夜イーサンが「明日の夜は宴会に付き合いで顔を出すから外で食べてくる。顔を出すだけだからそんなに遅くはならない」と言っていたのを思い出す。


イーサンの夕食が要らないなら、自分の為だけに食事を作ってもらうのはベラに悪い。この屋敷は屋敷というほどの広さもないが、まあまあ広い一軒家で、ベラはそこを一人で掃除もしてくれているのだ。休める時に休んでおいてほしい。


「昼は残り物を適当に食べるよ。夜は私も外で食べてくる。だから今日はニッキーとゆっくりしてくれ」

笑顔でそう伝えると、ベラは嬉しそうに「分かりました」と答えた。


さて、朝食を食べ終えたリンは、あっという間に手持ち無沙汰になる。

イーサンと結婚するまでは騎士団の女子寮で暮らしていたので、非番の日であっても周りには同じく非番の女騎士達が居て、食堂でだらりと話し、気が向けば寮の庭で打ち合いをした後は、寮母さん監督の下、皆で炊き出しをしたりもしていた。なのでこんな風に暇にはならなかった。


結婚して一ヶ月ほど経つのだが、週に一度やってくる非番の日を一人で過ごすのはまだ慣れない。

イーサンも居るのであれば、また違うのだろうが、双方、団長であるので休みはあまり被らないのだ。


(頑張って起きたものの、何しようかな)

試しにベラに掃除を手伝うと申し出てみる。


「とんでもないです。私の仕事を取らないでくださいよ」

さすがにこれは断られてしまった。


「でもベラ、暇なんだ」

「お買い物やお散歩、読書などしてみたらどうですか?」

「欲しいものはないし、読書は好きじゃない。散歩もなあ、特に目的なく歩くのって苦手なんだよ」

「流行りのカフェに行ってみるとか」

「カフェかあ……」

「話題のスイーツを食べるんです」

「スイーツねえ……」

カフェに座ってスイーツを食べる自分を想像してみる。

リンは甘いものは嫌いではないが、好きでもない。あれば食べるくらいのものなのだ。

どちらかと言うと、肉とか酒がいい。


「スイーツ……」

特に食べたくはない。

見かねたベラが、パン屋に行って明日のパンを買ってくるという仕事を与えてくれた。


「ありがとう、ベラ。ついでに散歩もしてくる」

パン屋という目的があれば、大回りしての散歩も楽しめる。リンは朝食の食器を下げて町へと出掛けた。



“勝利の女神”として名前が知られ、絶大な人気を誇るリンだが騎士服でなければ町中でも意外に顔はさされない。

騎士団長であるリンは、仕事で町に出る時は騎士服をまとって更に馬上である事が多いので、平民の成りをして徒歩であればまず気づかれないのだ。

アッシュグレイの髪は珍しくもないし、ルーナ国の女性は大半が髪を長くしてスカートを履いているので、ショートカットでパンツスタイルのリンはぱっと見は平民の少年だ。尻は元々薄いし、小振りな胸も騎士の時の習慣で潰すような下着を着けている。身ごなしにも女性のたおやかさは皆無なので、町中では少年として扱われる。

皆、まさか女神が一人で着古したシャツに綿パンで男装してウロウロしているなんて思わないのだ。


なのでリンは特に変装もせずに気軽に通りを歩き、パン屋へと入った。


バゲットとロールパンを買い込んで袋に詰めてもらっていると、パン屋の娘はしげしげとリンの顔を見てきた。


「お兄さん、綺麗な顔だねえ」

これは結構言われることだ。顔が整っている事は相手が少年となれば言いやすいのだろう。

慣れているのでリンはにっこり笑って受け流す。“お兄さん”についてもいちいち否定はしない。リンとしては女として扱われようが男として扱われようがどちらでもいい。


「ありがとう。よく言われるんだ」

「だろうね、羨ましいなあ」

「君も、可愛らしいよ」

「あはは、ありがとう。確かにまあまあモテるよ。でも、お兄さんみたいな美人さんに褒められると嬉しい。ロールパン一個おまけしとくね」

パン屋の娘はウインクしてロールパンを足してくれた。

その仕草はとても自然で愛嬌がある。確かにこれはまあまあモテるだろう。


会計をして「毎度ありい、また来てね」という明るい声に見送られてパン屋を出る。

リンはバゲットの突き出た袋を抱えて通りをぼんやりと歩いた。

戦争が終わってそろそろ一年経つ。ルーナの王都は戦火にさらされなかった事もあってすっかり元通りだ。寧ろ前国王の課していた様々な税がなくなって前より生き生きしている。平和だ。


歩きながらリンはふと、少し前にイーサンが言った事を思い出す。


それは結婚して一週間くらいの時だった。

イーサンは一度しか言わないから真剣に聞いてくれ、と前置きしてからこう続けた。


「リン、無理強いはしないし急かしもしないが、俺はお前に騎士を続けて欲しくない。せめて出来るだけ早くに団長は辞めて欲しい。お前の今の地位は実力に相応しいと知っているしそれは認めているが、惚れた女に危険な仕事はさせたくない、というのが率直な願いだ」


榛色の瞳は真っ直ぐにリンを見ていた。

絶句していると、赤い鬣の大きな男は身を小さくして「怒ったか?」と小声で聞いてくる。

その様子に笑ってしまって、愛しさが募り、キスをした。

返事は「心には留めておく」にしておいた。


(騎士を辞めてほしい、かあ)

町の喧騒が遠退く。

騎士を辞める事は今のリンにとっては考えられない事だ。考えられない事を考えても仕方ない。イーサンも『無理強いはしないし急かしもしない』と言っていた。今はまだ考える時機ではないと思う。


(……子供ができたら、また違うんだろうか)

リンは立ち止まって自分の平坦な腹を見下ろす。

妊娠や出産を機に仕事を辞める女騎士は少なくない、採用した人数の半分はそれで辞めていっている。

女騎士は圧倒的に職場結婚が多く、騎士の夫の稼ぎで十分に暮らしていけるからという事もあるが、何より心持ちが変わるのだろうと思う。


リンとて、結婚したのだし子供ができるのはあり得ないことではない。ただ、リンの場合は今までずっと女としての体のケアはしてこなかった。月のものが止まっていた事もざらにある。

辺境伯の城で貧血を起こした出血も、数ヶ月ぶりにきたものだった。

戦争中の生活は特に過酷だったし、前国王に入れられた地下牢では一気に痩せた。そのせいか今も周期は不順だ。果たして自分は子供を授かる機能があるのかは不明で、それはイーサンにも伝えてある。

生真面目な赤獅子はぐっと黙ってから、ただ「気にするな」と言った。


(まあ、でも、できないと決まってもない)

これを悩む事こそ仕方がない。そして妊娠したとして、その時自分は喜ぶのだろうか、それとも困るのだろうか。


(…………)

困りはしない気がする。赤茶色の髪の毛の子供を想像すると何やらくすぐったい。

こればっかりは、その時が来ないと分からないだろう。もしくは、その時が来ないと分かってからでないと分からない。


(……あの人は二人目を産んでからも、団長だったんだよな、やっぱりすごいな)

そこでリンの脳裏にリンの憧れの女騎士の顔が浮かぶ。既に騎士を引退したその女性は、茶色い髪を高い位置で一つに結んだ長身の女騎士で、結婚して子供を産んだ後も騎士団長を務めていた。

そもそも、彼女は一人目の子供を産んでから女性初の騎士団長になったのだ。


「あ……やばいな」

リンは憧れの女騎士を思い出した所で、イーサンとの結婚当初に従兄弟のファビウスに言われた事を思い出す。


『リン、うちの母には早めに報告に行ってくれよ。暇な時に一人でふらっとでいいんだ。あの人は夫婦での報告なんて求めてない。リンの顔を直接見て、幸せそうなら納得するから』

思い出して、さあっと血の気が引くリン。


「……うわあ、一ヶ月経つのに行ってないぞ」

リンは片手で青ざめた顔を覆った。

これは、やばい。一刻も早くファビウスの母親に結婚の報告に行かなくては。

リンの足が動き出す。


ファビウスの母、リンにとっての伯母であるその人の名前はジョイス・サーラ、現在の身分は伯爵夫人だ。

ジョイスは平民上がりの女騎士でルーナ国では女性として初の騎士団長になった人で、リンの憧れであり、師匠であり、人生の目標としている女性だ。

情に厚く、一本気な人でリンの事を実の娘のよう気にかけてくれているし、リンも家族同然に慕っている。そして遠方にいる両親とは違い、ジョイスは王都のサーラ伯爵家のタウンハウスに暮らしている。報告は簡単に出来る距離だ。


ジョイスを蔑ろにした訳ではなかったのだが、この度の自分の結婚はかなり急だったし、式はおろか、双方共に遠方である実家への挨拶もまだ出来ていない。そのせいもあってリンはいまだに結婚したという実感がないのだ。

結婚したというより、好きな男と暮らしだしたくらいの感覚で、だからジョイスへの報告を失念していた。


リンは慌ててまずはパンを置きに家へと走った。



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