40.シルビアの激怒 ~ルイーゼ編~

シルビアは激怒した。



幼い頃から、敬愛する主人として、畏れながらも守るべき妹として、慈しむべき半身として仕えてきたルイーゼより、リンの熱が下がるまで付いているよう命を受け、付いていた3日目の朝。


「おはようございます、シルビアさん。今朝はずいぶん楽です。きっと熱は下がっています!」

シルビアがリンの部屋に入ると、ベッドに座った女神がアッシュグレイの髪を朝日に輝かせながら爽やかにそう告げた。


「確認します」

きびきびとリンに近付いて額に手をあててみると、確かに平熱のようだ。


「ね!」

リンがにこにことシルビアを見上げる。


この3日間、付きっきりだった年配の侍女であるシルビアに、女神はすっかり気を許してくれている。


女神リンのファンであるシルビアとしては、こういう役得は本当に嬉しいし、ドキドキしてしまうが、この道20年以上のシルビアは、プロとしてそんな事はおくびにも出さずに手を離した。


「確かに下がっていますね」

「ええ!じゃあ、私はこれで」

ひらり、とリンがベッドから立ち上がり扉へと向かうので慌てて声をかける。


「ネザーランド団長!どちらへ?」

「? 鍛練に」

「ダメに決まってます!」

ばん、と光の早さでシルビアは扉を押さえた。


「背中の傷はまだ塞がっていないでしょう!また悪化しますよ!どうせ本日も朝イチでランカスター将軍がこちらに来られるでしょうから、鍛練の開始は閣下の許可を得てからにしてください!」


「ええぇー、あー、なるほど、確かに私は敗戦国の騎士ですしね、監視は付けないとダメかあ……あ、そもそも捕虜みたいなものだし、ウロウロしてはいけないか」

シルビアからすれば、見当違いの理由で納得したリンが、すごすごと部屋の奥へと戻る。


絶対、そっちの理由じゃねえよ!

心の中でつい、口汚い言葉を言ってしまうシルビアだ。


この2日間、シルビアが観察する限り、サンズの赤獅子イーサン・ランカスターはリンに並々ならぬ興味、というか好意を持っていると思う。


イーサンは城を制圧した初日、城の内部の把握に、サンズの騎士達の差配に、押し掛ける民の嘆願の対応に、と目の回る忙しさの中、日中に1回、深夜のリンがうとうと眠っている間にもう1回、様子を見に来ていたし、2日目も第三王子とサンズ本軍を城に迎えて大忙しの中、リンが薬で眠っているのにも関わらず、王子と共に訪れた分も含めると3回、こちらに来ていた。


どの訪れの時も、赤獅子はかなり落ち着きがなく、何というか、とても心配しながらリンの世話をしていた。


シルビアは初日にイーサンと城の中を一緒に歩いたので、リンに接する時のイーサンの顔が他の者に対してよりずっと柔らかく表情豊かなのにも気付いたし、通常状態の赤獅子が付きっきりで寝ている女 ーしかも敗戦国の騎士ー の世話をするほどの底抜けのお人好しではないというのも知っている。

おそらく、ほとんどの時間をイーサンの傍らにいるあの黒髪の長身の女騎士も気付いているだろう。


彼はとにかく、好いた女の体の心配をしているのだ。

これが、シルビアが(おそらく黒髪長身女騎士も)出した結論だ。


そんなイーサンが、まだ背中の傷も塞がらず、本人曰く地下牢生活で胃が小さくなったために食も細いままのリンに鍛練など、許すはずがない。

だが、まあ、それをシルビアが説明するのは変な話だ。


「まずは食事量を元に戻しましょう。鍛練はそれからです」

「はあい」

にっこり告げると、女神は不承不承、返事をしてくれた。



そんな感じで、朝から少し怒ったというか、呆れる事があったシルビアだが、激怒したのはこの件ではない。

この後に城の謁見室で行われた、敗戦と降伏の発表、王妃と国王の離婚と国王の王族からの排斥、そしてそれらに続いて広く伝えられた事柄に、つまりはルイーゼとライアンの結婚に、シルビアは激怒したのである。



「どういう事ですか?!」

昼過ぎ。

だあん、とルイーゼの机を叩きながらシルビアは問い詰める。


「シルビア?」

「朝の発表は一体どおいうことですくわっっ!!」


「落ち着いて、シルビア。逃げた国王を王のままにしておく訳にはいかないの。逃げ込んだ先で王権を振りかざされては困るのよ。一刻も早く王籍から除く必要があったの」


そっちじゃねえよ!!!!


心の叫びは、口をついて出ていたらしい。


「シルビア、言葉遣いが汚いわ」

ルイーゼが窘める。


「申し訳ございません、激高して我を忘れました。私が怒っているのはそちらではございません。妃殿下があのクソ野郎と離婚した事と、あのクソ野郎が本当にただのクソ野郎になりやがった事は、これまでの私の人生で最大の喜びでございます」


「え、ええ」

「その喜びも覚めぬ内に、新たなクソ野郎候補と妃殿下がご結婚とは一体どういうことですか?」

「ク……候補だなんて……」

「昨日、ネザーランド団長の様子を見に来られた第三王子殿下に挨拶をさせていただきました。見た目は素敵な青年ですが、笑顔が嘘くさい方です。あれは女を食い物にするような男です、たぶん、きっと、ぜったいに」

終始リンを心底心配する赤茶色の髪の騎士とのギャップも相まって、シルビアのライアンへの評価は低い。

そもそも、シルビアはルイーゼに近付く気配のある男に対しては全員に辛口なのだ。


「シルビア、落ち着いて。思い込みの激しいあなたの悪い癖が出ていると思うの。王族や高位の貴族ともなれば表面的に取り繕う事は自然なことよ。

大丈夫、王子殿下はルーナを安定させるために、王妃である私と結婚するだけで、それ以上の魂胆はないわ。私には徒に触れないとも仰ったのよ」


「そんなっ」

おそらく、シルビアを安心させようとルイーゼが言った「徒に触れない」はシルビアを更に奈落の底へと突き落とした。


「結婚するのに、愛さないということですか?ううっ、いやですっ!

妃殿下は12年も愛のない結婚をなさっていたのですよ?それを繰り返せと?そんなのひどい、もうよいではありませんか、侯爵家に帰りましょう?帰って穏やかに暮らしましょう?12年も頑張ったんです。今回はさすがに侯爵様も無下にはされないと思います。帰りましょおぉ、ううっ、ずびっ」

自分が泣いてる場合ではないのに、シルビアの目からは涙が溢れ出す。


自分の主はずっと、家主である父親からは政治の駒として育てられ、嫁いだ先では夫に冷遇され、と散々な目に会ってきたのだ。

やっと離婚できたのに、再びそんな日々に戻るなんてシルビアが許せない。


「ううぅっ……ぐすっ」

「シルビア」

そっと、机に叩きつけたシルビアの手にルイーゼの手が重ねられた。


「泣いてくれてありがとう。でも大丈夫なの。これからも王妃として努めれると思うとそれは嬉しいの、本当よ。今さら実家に戻ってもやる事がなくて死んじゃうわよ。私は刺繍も下手だし、読書も実用書以外はしないもの」


「ううっ、そうさせたのは侯爵様とクソ野郎ですっ」

「ライアン王子殿下は真意は掴みづらいけど、悪い方ではないわ。前の夫と違って、私の意見も尊重してくれるし、王妃として望むなら私以上を探すのは難しい、とまで言ってくれたのよ」


「うぐうっ、つまりまた仕事漬けではないですかっ、やっぱり、私が入れ替わっておくべきでした!」

もうやだ。

もう仕事に疲れ果てて、何の喜びもないような遠い目をしているルイーゼを見たくはないのだ。


シルビアはルイーゼに、のんびり花を愛でたり、茶葉のブレンドを楽しんだり、流行りのドレスを選んだり、話題のカフェに足を運んだり、レディ達の恋愛話に頬を染めたりしていて欲しいのだ。

どれも、ルイーゼが今まで全く無縁だったことだ。


「すぐバレちゃうわよ。あなた、口が悪いもの」

「入れ替われば、もちろん慎みました!」

「サーラ団長も居たし、無理だったわよ」

「サーラ団長なら、目配せで何とかなりました!」

あの金髪の近衛騎士団長ファビウス・サーラはルイーゼに好意的だったから察して協力してくれたに違いない。

女性に対して軽薄な印象のある近衛騎士団長だったが、ルイーゼに対してはあまり軽い様子を見せずにいつも敬意を払って接していたので、シルビアの中では結構評価が高いのだ。


「何とかなってたら問題よ……シルビア、とにかくもう決めてしまった事です。王子殿下は礼儀正しい素敵な若者よ。そしてちゃんとした王子様だわ、私としては、今度こそ王子様と結婚できるんだなあ、とも思っているの」


「……王子様?」

「ええ、王子様」

ルイーゼがいたずらっ子のように笑う。

こういう笑顔は何年ぶりだろう。

ほわり、とシルビアの中に希望の灯りが点る。


「妃殿下は、ああいった一見可愛らしい殿方がお好みですか?」

「外見はあまり気にしないのだけど、そうね、前の夫よりはいいと思うわ。仕事も出来そうだし、夫婦としてはともかく、パートナーとしては敬意を払い合ってやっていけるんじゃないかしら。だから本当に悲観はしていないの」


シルビアはまじまじとルイーゼを見る。

心なしか、その顔色は明るい。

当然だ、あのクソ野郎と離婚できたのだから。

そしてライアンとの結婚には、本当に嘆きはないようだ。


夫婦としてではなく、パートナーとして。

シルビアとしては、それではやはりルイーゼがいいように使われてしまうようで我慢ならないが、当の本人は気にしていない。


確かにこの主は屋敷でのんびりと過ごすのには向いていない。大人しそうな見かけとは裏腹に、行動的なのだ。

地方の現場の視察も「見てしまうのが早いでしょう」とさっさと用意して最低限の人数で行ってしまう人だ。


でもシルビアとしては、ルイーゼにたまにはのんびりと過ごして欲しいし、今からでもルイーゼを心から愛してくれるような人と一緒になって欲しい。

せっかく女として生まれたのだから、女にしか味わえない幸せも味わってほしい、と思うのはエゴなのだろうか。


シルビアは、ぐい、と涙を拭った。

とりあえず、明日からは自分はルイーゼ付きに戻って、新しく夫になるらしいライアンをしっかり見定めねば、とシルビアは決意する。


「取り乱してしまい、失礼いたしました。明日からはお任せください」

「? ええ、ありがとう」


冷静さを取り戻したシルビアにルイーゼが微笑む。


それから主は、実に主らしく、「明日からは、元通り王妃として公務に励むわ。しばらくはとても忙しくなると思うからあなたに頼んでおきたい事があるの」と前置きして、シルビアに離宮に蟄居となった、国王と側妃の息子、10才のダニエル王子を気にかけてほしい旨を伝えてきた。


「サンズ国の手前、私がダニエル王子を気にする訳にはいかないのよ。幸い、王子はサーラ団長とネザーランド団長と交流があるはずよ、特にサーラ団長には気を許しているから、出来れば最初は2人と一緒に行ってあげてちょうだい」


本当に実に主らしい。


「分かりました」

シルビアは、きりりと姿勢を正して返事をした。





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