第二章 (ルイーゼ)
35.逃げた国王 ~ルイーゼ編~
「今、なんと?」
ルイーゼ王妃は執務室にやって来た、キース・カザネス宰相の言った事が信じられなくて聞き返した。
この10日ほど、ルイーゼは目の回る忙しさだった。
ルイーゼの夫が治めるこのルーナ国が、隣国の大国、サンズ国に吹っ掛けた戦争はそろそろ3年になる。
元々勝ち目はなく、自国の自治領とのいざこざを避けるために、サンズとの国境のいくつかの領地を餌に自治領を焚き付けて始めた戦で、国王としては不意打ちで国境沿いの領地を奪い、和解金でもせしめる算段だったようだが、 目論見は大きく外れた。
不意打ちで落とした、サンズの領地は奪い返され、2ヶ月前にはルーナの辺境の城もあっさりと降伏した。辺境伯は完全に国王を見限ったのだ。
そこを拠点としてじわじわと、サンズの本軍はルーナの王都に迫っている。
そして、辺境の他の領主の寝返りも分かり、ルーナの王都に残っていた幾つかの騎士団まで、降伏を決めて都を去ったのは1ヶ月前だ。
この10日は、いよいよ敗戦を覚悟し、サンズの本軍がゆっくりと城を目指す中、何とか都の民を逃がす算段をし、万が一の籠城に備えて食料や医療品をかき集め、そんな中でも王都での徹底抗戦という無謀としか思えない事を言っている国王を説得しようと何度も試みたが、ことごとく無視をされ……という10日だったのだ。
本日も会ってはくれないだろうが、夫である国王に謁見を申し出るつもりだった。
ルイーゼは王妃であるが、謁見を申し出て許可されなければ夫である国王には会えない。
王妃として嫁いだのは、16才の時、婚約は10才から成していたが、ルイーゼと国王との結婚は我が儘で自分本意な国王に枷を付けておくための、先王とルイーゼの実家である侯爵家、そして侯爵家の周辺勢力が望んだもので、国王はこの結婚を心底嫌がっていたし、婚約した時からその側には若い頃からの愛人である侍女上がりの側妃が既にいた。
なので、嫁いできたルイーゼを国王は無視し、初夜は行われず離宮に放置された。
その後、ルイーゼに実務の能力がある事が分かると、やっと城の中に私室と執務室が与えられたが、そこからは面倒くさい公務は全てルイーゼに割り振られる事になった。
そんな中、ルイーゼはとにかく仕事に打ち込んだ。嫁いで4年、20才になる頃には文官達に仕事振りを認められるようになり、出来る範囲で細々とこなしていた社交と、実家の伝手も使って王妃派と言われる小さな勢力の基盤も作った。
会議のほとんどは、国王を支持する国王派と呼ばれる勢力が牛耳っていたので、国王はルイーゼの勢力を脅威とは思ってなかったようだ、むしろ会議で揶揄かうのを面白がっていた。
そして、この頃から国王はたまに夜ルイーゼの寝室を訪れるようになる。城で足掻くルイーゼを征服したくなったのだろう。
拒絶する訳にもいかず、ルイーゼは受け入れるしかなかった。
そんな夫婦だ。
今日も夫とは話は出来ないのだろう、とため息を吐いていると、カザネス宰相の訪れがあり、銀髪の何を考えているのか全然分からない宰相より、夫が都から逃げた事が知らされた。
「子飼いの第一騎士団と側妃様と昨夜、城を出られたようです」
カザネスが繰り返す。
「…………」
ルイーゼは絶句した。
逃げた?
足元が、ガラガラと崩れるような心地になる。
え?
逃げた?
国王が?
信じられない気持ちで、カザネスを見返す。
一国の王たる者が、敵軍が都に迫る中、全てを捨てて逃げた?
それはやってはならない事だ。
そんな考えを持っただけでも、羞恥で身を焼かれるような事だ。
自分の夫は、そこまでひどい男だったのかと笑いだしたくなる。
ルイーゼは自分の中にあった、夫へのほんの僅かな敬意のようなものが一瞬で消え去るのが分かった。
こうなると、そんな僅かな敬意があった事すら嫌になる。
「…………そうですか」
だが結局、ルイーゼの口から出たのは、簡単な相槌だけだった。ここで怒っても嘆いてもしょうがないのだ。10才で当時評判の悪い王太子だった国王との婚約を告げられた時から、こういう事はこれまでいくらでもあった。
婚約の時もだったし、初の顔合わせも、婚約者としての交流も、厳しい妃教育も、結婚式も、初夜のすっぽかしも、城での扱いも、山のような公務も、夜会での国王派からの揶揄も、夫が初めてルイーゼの寝室に訪れた時も、この戦争の開戦も……思い出すと切りがない。
「冷静ですね」
「そう見えるなら嬉しいです。ダニエル殿下はご一緒ではないのですね?」
ダニエル殿下とは、国王と側妃の間に生まれた現在10才の王子だ。
「最初にダニエル殿下を心配するとは、妃殿下らしいといえば、妃殿下らしい。ダニエル殿下は城に残っています」
「そうですか……」
ルイーゼは、内気そうな金髪の男の子を思い出す。
10才の王子は国王と一緒に逃げていれば、必ず身の破滅ではあった。しかし、サンズ軍の迫る城に置いていかれたこの状況も喜ばしいものではないだろう。
しかも父と母に見捨てられるように置いていかれだのだ。
側妃はともかく、国王は気の弱いダニエルをあまり可愛がってはいなかった。
それでも、ダニエルにとっては唯一の父だ。
置いて行かれたと知ったら、どうなるだろう。
「サンズはルーナを大きく混乱はさせずに、属国として支配下に置きたいのでしょう、ルーナが揉めるとあちらに飛び火しますからね。そうなるとダニエル殿下は、彼の出方にもよりますが、傀儡としていいように使われるか、離宮での蟄居ですよ。サンズの進軍の様子を見るに、温情は期待出来ます。城に残っていた方が命が助かる可能性は高い。側妃様は馬鹿ではありませんからね、それを考えて残していかれたのだと思いますよ」
「それがきちんと伝われば良いのですが」
側妃が母として、せめて何かしらの言葉を残してくれていたらいいのだが、彼女にそんな余裕はあっただろうか。
もし、ダニエルの側に侍女も残っていないようなら、自分の周りに残ってくれている侍女の内、一番穏やかで優しい子を付けなくては、と思案する。
「ところで、王妃殿下はどうされるのですか?実家の侯爵家に身を寄せますか?」
思案中にカザネス宰相に聞かれて、ルイーゼはきょとんとした。
「実家に?」
「王妃の地位を捨てて、侯爵家に籠りますか?」
地位を捨てる?
そんな事は考えてもいなかった。
ルイーゼは敗戦が濃厚になった時より、王妃としてこの城で国王と運命を共にするつもりだった。
夫への愛情はないが、夫婦であったし、ただの夫婦ではなく、王と王妃だ。ルイーゼにそれ以外の選択肢はなかった。
「それは、考えていませんでした」
「そうですか。サンズは王妃殿下が政治的に影響力がなかった事は知っているでしょうが、城で王妃として彼らを迎えればどんな扱いを受けるかは分かりませんよ?王妃という立場は利用もしやすい、あなたはまだお若いし、それなりに美しく魅力的です」
「……宰相、あなたからそのように言っていただけるとは意外です」
ルイーゼは心底驚く。宰相に自分の身を心配されるのは意外だったし、まさか女としての価値を言われるとは思わなかった。
「チェスの腕もよいです。あなたが損なわれて、数少ない好敵手を失うのは私としても残念ですからね」
ルイーゼは宰相を見つめる。
その藍色の瞳はいつもの冷たい色で、やはり何を考えてるかは分からない。
16才で城に来てから、この男が何を考えているのか真に理解したことはないと思う。
国王との結婚当初、ルイーゼが与えられていた離宮を訪れ、公務の一端を任せてきたのはこの宰相だ。
ルイーゼが慣れるまでは、いろいろ細かく教示してくれ、国王にルイーゼの実務能力の高さを進言したのもこの男だ。
そのお陰でルイーゼは離宮から城へと移ってこれた。
あれは優しさや情からではなかったと思う。宰相は使えない国王の代わりに公務を行う駒が必要だったのだ。
その後も何かとフォローしてくれつつ、「息抜きに付き合いましょう」と始めたチェスでは、当初は負け続きだったルイーゼに敗因を細かく教えてくれたりもした。
カザネスとの息抜きのチェスはその後も続いていて、今では勝率は少ないものの、たまにゲームを取れるようにまでなっている。
ひょっとして、この12年で私に弟子のような感情くらいは持っているのかしら?
ふとそう思う。
ルイーゼも、宰相には敬うべき年長者としての感情くらいはある。
国や民に対する熱意はこの宰相にはなく、そこは感心しないが、仕事の的確さと早さは文句のつけようがない。
チェスは強い。
師と言われれば、師かもしれない。
でもやはり、この男の真意は分からない。
今も、純粋にチェスの相手を失いたくないだけかもしれないし、少しは弟子の心配をしているのかもしれないし、もしかするとルイーゼがサンズの指揮官を上手く懐柔する可能性を考えて、それを避けたいのかもしれない。
サンズの指揮官は23才の才能溢れる第三王子らしい、若き太陽がこんな年増の既婚者に靡くとは思えないが。
「あなたの心配はありがたいですが、夫の去った今、王妃の名に恥じぬように私はここに残り、恭順の意を示してサンズ軍を迎えます。それが今の私に出来る事です」
真っ直ぐに藍色の瞳を見つめてそう言うと、カザネスは「王妃殿下らしいですね、では共に残りましょうか」と薄く笑った。
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