30.翌朝
朝、うとうととしながらイーサンは、横にいるはずの愛しい女を抱き寄せようと、腕を伸ばす。
昨夜、リンが自分の部屋を訪れた時、最初は何がなんだか分からなかった。
彼女がするりと部屋に入ってきた時は、神が自分の理性と自制心を試しているのだろうか、と思ったりもした。
そして、試された理性と自制心を総動員して酒に付き合う。
こんな時間に自分を訪ねてきて飲みたい、なんて何かあるはずなのだ、「飲みたい気分なんだ」と言ったリンの声は少し上ずっていたし、動きもいつもより硬い。
出会ってすぐに騎士の誓いをされるほどに、自分は何故かリンに全幅の信頼を置かれている。
その信頼故に、イーサンを訪ねてきたのだろうと思った。
それを損なう事だけはしたくなかったし、何か力になりたかった。
ねだられるままに色々話していると、愛しい女の表情は部屋に来た時より朗らかになって、硬さが抜けた。
よかった、いつもの様子だ。
そう安堵してしまうと、今度はイーサンのほうがしんどくなってくる。
リンの髪から、風呂上がりのいい匂いがするし、ゆったりしたシャツは何やら扇情的に思えた。
舞踏会のダンスで、ドレスの薄い布越しに触れた腰についても考えてしまう。
これではダメだ。
大体、距離が近すぎる、なんで隣に座ったんだ?
手を伸ばせば触れれるのだ。
これ以上は、理性も自制心も役に立たなさそうなので、すっかり元通りになったリンに、戻れと言うと、嘘みたいに迫られた。
「あなたが好きだ、イーサン」
そう告げられて、身体中に電撃が走ったようになる。信じられない思いで、ファビウス・サーラの事を確認して、キスをされそうになったので、そこからは主導権を握った。
無我夢中で愛した行為の後はリンが先に寝たので、そっと抱き締めて眠ったが、突然の信じられない幸せと、何の約束もしないまま手を出してしまった胡乱さに頭はすっかり覚醒していて眠りは浅く、深夜と明け方に一度ずつ目が覚めた。
目覚める度に、横で眠る愛しい女のさらさらしたアッシュグレイの髪の毛を触り、起こさないように抱き込んだ。
明け方にそうした時は、リンが起きたら、一番にきちんと結婚の申し込みをしなくては、と思いながら眠りに落ちた。
そしての朝だ。
伸ばした腕は、冷たいシーツをなぞる。
ん?
イーサンはぼんやりと目を開けた。
ベッドの隣は空だ。
「え?」
驚いてがばりと起きて、部屋を見回す。
朝日が降り注ぐ部屋の中に、既にリンはいなかった。
***
「ネザーランド団長、これは一体……」
朝一番の騎士団トップの執務室。
小柄な眼鏡の中年の総帥が途方に暮れている。
「退職願です」
リンは、“退職願”ときつく書かれた封筒を総帥の机の上に置いた所だ。
「こんなに突然、受理はできません」
「貸しを返してください」
「あっ」
「総帥には、貸しがありますよね。それで受理してください」
リンがそう宣言すると、ルミナス総帥はしばらく黙りこんだ。
うーん、と頭を抱えた後、リンを見る。
「分かりました。まずは理由を聞かせてください。あなたが何の前触れもなくこんなものを提出するなんて、理由があるのでしょう」
「理由を聞いても、受理はしてくれますか?」
「もちろんです」
そこでリンは、宰相から聞いた側妃の話と、宰相から提案された事柄について、ルミナス総帥に話した。
ルミナス総帥は、驚いて「側妃……」と呟く。
「私は、政治的な駆け引きは不得意なんです。側妃になっても、公爵令嬢になっても、私の立場は微妙です。上手くはできないでしょう。なのでしばらく放浪でもしようかとなりました」
「放浪って、あなた」
「傭兵としてとか、護衛としてなら十分やっていけますので、心配は無用です」
「いや、そうでしょうけどね。退職とは極端ですよ。まずは側妃の話の真意を確かめた方がよくないですか?」
「でもあの宰相が不確かな事を言うとは思えません。それに今回、何とかなっても、今の状況が続けば別の変な誘いがあるかもしれません。それを全て上手く断る自信はないんです」
側妃の話まであるなんて、どうやら自分の名声はかなり凄いらしい。
一介の弱小男爵令嬢としては、処理しきれない案件はこれからもあるかもしれない。政争に巻き込まれて、いいようにされるのは嫌だ。
それならば、手の届かない所に行ってしまえばいいと思う。何なら国外へ出てもいい。剣の腕一本で何とかなる。
「ふうむ」
ここで、ルミナス総帥が一瞬、リンの背後を見た気がした。
「それにしても、退職願はちょっと……私から見て、今のネザーランド団長が冷静だとは思えないんですよ。大分、動転していませんか?」
総帥にそう指摘されて、リンはぎくりとする。
それは図星なのだ。
「あー、まあ、少し、動揺はしてます。昨夜はいろいろありまして、思い出のはずが、何だか違ったんですよね……でも、退職願はちゃんと落ち着いている時に考えて、書きましたので、大丈夫です。今も冷静ではあります」
昨夜はイーサンとまさかの両想いだったので、目が覚めた時から、かなりふわふわしているリンだ。
でも、両想いであれば尚更、側妃なんて無理なのだ。
とにかく今は、何も打診も相談もされない内に、一刻も早くトンズラしなくてはと思っている。側妃の話を聞いてしまったら断れないし。
ルミナス総帥が困った顔をする。
「うーん、今のネザーランド団長は絶対に冷静ではないと思いますよ。確かに、私からは
「え?」
「後ろです」
総帥の言葉に、リンはそろりと後ろを振り向く。
部屋にはいつの間にか、凄く怒っているイーサンが来ていた。
その背後には、めらめらと燃え上がる炎が見えそうなくらい怒っている。
「うわっ」
「貴様っ、どういうつもりだっ」
かんかんになった、赤獅子がリンに詰め寄る。
「退職だと?!夜を過ごしておいて、逃げるとは、何考えてるんだ?!」
「イーサンから逃げる訳では」
「俺が昨晩の責任も取らないような男だとでも思っているのか?!」
「責任?昨晩の責任は、どちらかというと、私にあるような」
「総帥!立会人になってください!」
リンを無視して、イーサンが総帥に叫ぶ。
「えっ、はい、立会?」
あわあわする総帥。そして「昨晩?」と小さく呟く。
もちろんそれも無視して、イーサンはリンの前に跪いた。
「えっ、おい」
自分に跪く赤獅子にリンはびっくりする。
びっくりするリンも、漏れなく無視される。
「イーサン・ランカスターは誓う。今、この瞬間より、この身も心も、カリン・ネザーランドに捧げ、永遠の愛を誓う」
「うわっ、おおいっ」
リンの顔が真っ赤に染まる。
「俺と結婚してくれ」
イーサンは、愛と怒りのこもった、ぎらぎらとした榛色の瞳でリンを見上げた。
「ええぇ」
嬉しいのか、恥ずかしいのか、困っているのか、驚いているのか、もうどれなのか分からないリンだ。
胸がドキドキしてもはや苦しい、リンは途方に暮れて、ルミナス総帥を見た、そして聞いた。
「そうすい……私、これ、受けてもいいやつでしょうか?」
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