26.捨て駒

2曲目のダンスも踊り終え、とりあえずリンの役目は終了だ。

ライアンが「後は舞踏会を楽しんで」と言い、リンはお言葉に甘えてすっと会場の隅に引っ込んだ。


ライアンはルイーゼと共に、王妃派の主要な貴族達や中立派の大物と言葉を交わしていて、イーサンはリンが捕虜だった辺境の地よりはるばる参加している辺境伯と話し込んでいる。

イーサンがもらい受ける予定の領地は辺境伯領と近い、しっかり親交を温めておくのだろう。

イーサンがちらりとリンを見る。

リンは、気にするな、とひらひらと手を振っておいた。


このまま会場で酒や食事を楽しんでもいいが、ドレスは落ち着かないし、休憩室で1人でちびちび飲んでもいいかなあ、とも思う。


さて、どうしようかと考えていると、「シルビア殿より、お化粧を直したいと言付かっております」と侍女が1人、リンを呼びに来た。


リンは呼びに来た侍女は、ルイーゼ王妃付きの者ではなかった。

リンの眉がほんの少し、ぴくりと動く。

王妃付きのシルビアさんが遣いを寄越すなら、見知った者にするだろうと思うが、目の前の侍女は知らない顔だ。


でも、今夜はかなり久しぶりの大がかりな舞踏会で、イレギュラーが起こる可能性はある。

だがそれにしても、化粧直しなんて、そういったものが必要ならシルビアさんは事前に伝えていそうだ。

少し怪しい呼び出しだなと思う。

リンは一呼吸する間、思案した。


とりあえず、付いてはいくか。

怪しい予感はするが行ってみる事にする。本当にシルビアさんが待っていては気の毒だ。

リンは卓の上の誰かの食べ残しの皿から、デザートフォークをそっと手のひらに握りこんだ。


「分かりました。参りましょう」

侍女に返事をして、案内を促すと侍女は少し青い顔で「こちらです」と歩き出した。


そして会場を出て、侍女に付いて行ったのだが……


うーん……これは、困ったな。

歩きながら苦笑しそうになってしまうリンだ。


先導する侍女は今や気の毒なくらいびくびくしていて、完全に怪しくなっていた。あまりにもお粗末だ。ここまでバレバレだと、困ってしまう。


リンが通常の騎士の装いなら、この明らかに怪しい呼び出しは望む所で、むしろ意気揚々と飛び込むのだが、今日はドレスで丸腰なのだ。

武器らしい武器は手のひらのデザートフォークだけ。危険かもしれない現場に、危険だと分かって行くのは無謀なだけだ。


悩ましいな。

怪しい呼び出しに興味はあるが、この格好では対処できないかもしれない。


しばらく迷った後、大人数を用意出来そうな、屋外や離宮へと行くようなら引き返す事にして、そうでなければ行ける所まで行ってみよう、と決めた。


「こちらです」

そうして侍女がたどり着いたのは、舞踏会用の休憩室の一室だった。


ふむ。

もしかしたら、ファビウスが警戒していた、政治的な話だろうか、とリンは思う。

旧国王派か中立派の貴族が、秘密裏に取引でも持ち掛けてくるのかもしれない。取引されるような事はないのだが。


まあ、入ってみるか。

舞踏会の会場と同じフロアの休憩室に部外者がいる可能性は低い。リンは警戒しつつも騙されてみることにした。


「ありがとう」

侍女にお礼を言うと、休憩室に入った。



休憩室は暗かった。ベッドサイドの読書灯しかついていない。

カチャリ、と扉に外から鍵がかけられる。


鍵かあ、面倒くさいな、と思っていると、むわっと変に甘い匂いが鼻についた。

リンはすぐに息を止める。


部屋の中の気配を探ると、読書灯の近くにずんぐりした人影があった。

部屋には、その人影とリンだけのようだ。


「ネザーランド男爵令嬢」

人影が嬉しそうにリンをそう呼ぶ。

読書灯にぼんやりと照らされているのは、いつぞやの小太りのちょび髭貴族、ハームス伯爵だった。


嬉しそうになので、一瞬、伯爵も閉じ込められた被害者なのかと思ったのだが、続く言葉は被害者のものではなかった。

「お待ちしてましたよ」

むふー。


あ、気持ち悪い。

待たれていただけで、気持ち悪い。


ゾワゾワしながら、リンは読書灯の下で大量の香が焚かれているのに気付く。暗くて最初は分からなかったが、部屋中に煙が充満していた。

煙は上の方が濃い。


部屋に入ってからすぐに息は止めているが、鼻につく匂いは感じている。

顔の回りも煙が覆っているようだ。

リンは、煙の薄い床の方へと身を屈めた。この煙はきっとよくないものだ。


そんなリンにハームス伯爵は嬉々として語り出す。

「おや?もう、足にきましたか?さすがに通常の5倍の濃度で焚いてますと、効きが早いですなあ、知ってますか?ネザーランド男爵令嬢、これは今流行りの香でしてね、こうして吸うと、とても幸せな気分になるのですよ。慣れるまでは足にきますがね、体の力も入りにくいでしょう?慣れるまではね、そうなんですよ。私はもうすっかり慣れてますので、気持ちが高揚するだけの素晴らしい心地なんですが、初心者のネザーランド男爵令嬢には少しお辛いでしょう」


は?

こいつ、違法薬物焚いているのか?

城の舞踏会の休憩室で?


リンはびっくりして、ハームス伯爵を見る。


そんな事をしたら、一発で身の破滅だ。

正気か?


「ふふふ、まだ、頭は正常ですかね?驚いてますねえ、こんな場所で違法薬物ですものね、言い逃れは出来ません。でもね、いいんですよ、どうせ私はもう破滅なんですよ。私はね、捨て駒なんです、もう捨てられてるんですよ。昨日、それを知りましたがね」


ハームス伯爵がゆっくりとリンへと近づいて来る。煙を吸い込むためか、鼻息が荒い。


「あなたには、以前にお楽しみにお誘いいただいたままでしたからね、放っておくのはお気の毒かと思いまして、今夜はこのような場所を設けさせていただきました。動けない方に無理矢理というのは趣味ではないのですが、あなたは私の手には負えませんのでね。いや、しかし、今宵のネザーランド男爵令嬢はお美しいですな、これならすぐに嫁ぎ先も見つかりますよ。私が保証しましょう」


近付きながら、ハームス伯爵は舐めるようにリンを見回すので、本当に気持ち悪い。

もうこちらから距離を詰めて、手刀で落とそうかな、と思っていると、更に伯爵はこう喋りだした。


「そろそろ、頭もぼんやりしてきたでしょうか?私を切り捨てた人達について話しましょうか?彼らは今、取引の真っ最中ですよ。ええ、この舞踏会に合わせて、商談の最中です。この会が終わる頃にはそちらも引き払われますがね、おや?悔しそうですね、いいですね、まだ話が通じるんですね。場所もお教えしましょうか?お教えした所で、あなたは私と楽しむしかありませんからねえ、ふふふ」


ハームス伯爵はリンの間近まで来ると、身を屈め、リンの耳元で取引場所を囁く。

囁いた後、ふうっと息を吐きかけられて、ここがリンの我慢の限界だった。


さっと立ち上がると、状況が全く飲み込めていない、ハームス伯爵の後頭部に手刀を入れて気絶させた。


伯爵はひどく興奮していたようで、その後頭部は汗でべたべたしていて、リンは再びゾワゾワする。


身震いしてからすぐに窓を開け、外の空気を吸った。再度息を止めて、花瓶の水を焚いてある香にかける。

一番煙の濃度の濃い場所に近づいたせいか、頭がくらっとして、体を脱力感が包む。


通常の5倍って言ってたな。

そんなに焚くなよ。


苛つきながら力の上手く入らない体を無理矢理動かし、窓から身を乗り出して、新鮮な空気を出来るだけ吸う。早めに水を飲んで、顔を洗った方が良さそうだし、何より、さっき聞いた取引場所を誰かに伝えた方がいい。

ハームス伯爵は異常な精神状態のようだったから、取引の真偽は怪しいが、それでも確かめる価値はあるだろう。


まずは伯爵を縛って、それから何とかして部屋から出なくてはと考え、この靴では扉は蹴破れないなと、騎士のブーツとはもはや異種族の華奢な靴を見下ろす。


窓から屋外に出るかあ、遠回りだな、と思っていると、がんっと外から扉が蹴破られた。


「リンっ、無事ですかっ?」

なだれ込んできたのはシアと第一団の騎士達だ。

「シア?なぜ、ここに?」

あまりにタイムリーな登場に驚く。


「ハームスは監視対象でした」

シアが床に転がるハームス伯爵を、ゴミでも見るように見ながら言い、そして、部屋に残る甘い匂いに気付いた。

さっと部屋を見回して、ベッドサイドの香が焚かれた痕と、窓にもたれかかるリンの様子に、慌ててリンに駆け寄ってくる。


「っ、リン、大丈夫ですか?煙を吸いましたか?」

「かなりの濃度の煙を少し吸った。出来るだけ早めに顔を洗いたい。あと、シア、もしかしたら今黒幕が取引中かもしれない、場所を聞いた」

リンが煙を吸ったと聞いて顔色を変えるシアに、手早くさっき聞いた場所を伝える。


「舞踏会が終わる頃には引き払うと言っていた、私はいいから行け」

「1人、置いていきます」

シアは騎士を1人残して、すぐに出ていく。

残った騎士が警備に連絡し、リンは今度こそ駆けつけた泣きそうなシルビアさんにドレスの準備をした客間でたくさん水を飲まされ、再び風呂に入れられた。


風呂から上がると、再び水を飲まされて、医師の診察を受ける。

幸い、濃度の濃い煙だったとはいえ、リンが吸い込んだのは僅かな量で、今感じている脱力感も一晩もすれば消えて、依存や中毒は残らないだろうと言われる。


ふう、よかった、やれやれ、と一安心してシルビアさんの淹れてくれた紅茶を飲んでいると、今夜の警備の責任者のファビウスが駆け付ける。


「リン!怪しいと分かっていて、丸腰でのこのこ付いて行くな!」

数年ぶりくらいで見る、怒れる従兄弟だ。

とてもじゃないが、デザートフォークは持っていたんだ、なんて言える雰囲気ではなくて、素直に怒られる。

今回の自分の行動は、無断で単独な上に武器もデザートフォークしかなかった。もし団員がこんな事をしたらリンだって厳しく怒っただろう。


ファビウスのこんこんとした説教がやっと終わる頃、今度はイーサンがやって来た。

そのイーサンに開口一番、「どうなった、捕まえたか?」と聞いたのだが、これがよくなかった。


「第一声がそれか?」

低い低い声で聞き返されて、そこから丸腰で怪しいと分かっている現場に行った事を、再びこってり怒られた。

もちろん、デザートフォークなら持ってたなんて、言えなかった。


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