第十話 禁煙ですよ
Ⅰ県某所であった話だ。
Tさんという高齢の男性が、ある秋の夕暮れ、普段あまり来ない大きな公園を散歩していた時のことだ。
不意にパタパタと大粒の雨が降ってきたため、慌てて近くの東屋に駆け込んだ。
途端に、ざぁぁぁ……と雨脚が激しくなった。
あいにく雨具は持っていない。もっともにわか雨だから、すぐにやむだろう――。Tさんはそう考え、しばらくこの東屋で休んでいくことにした。
広々とした東屋だった。もっとも造りの方は簡素で、屋根とそれを支える柱以外は、ただ四隅に木のベンチが並ぶのみである。
ベンチに腰を下ろし、ぼんやりと公園を眺める。茂みに挟まれたコンクリートの遊歩道が、たちまち濡れて灰色に変わっていくのが見える。その先では緑の芝生が、雨粒に打たれてざわざわと唸る。
辺りに人の気配はない。この分だと、他に雨宿りに訪れる者もいないだろう。
Tさんは上着のポケットから、タバコとライターを取り出した。携帯用の灰皿も持っている。一服しようと、タバコを咥えて火を点けかけた。
その時だ。
「禁煙ですよ」
突然、すぐ後ろで声がした。
驚いて振り向くと、軒のすぐ外に背広姿の若い男が一人立って、ベンチの背もたれ越しに、こちらの手元をじっと覗き込んでいる。
傘は持っていない。当然、全身ずぶ濡れである。
Tさんは少し身を引きつつ、慌ててタバコをポケットに戻した。
「すいません。知らなかったもので」
「気をつけてくださいね」
男はそう言うと、雨の中をじたじたと歩き、茂みをかき分けて去っていった。
雨宿りをしにきたわけではないらしい。ということは、わざわざこちらがタバコを出したのを見て、咎めにきただけ……ということか。
何とも奇妙に思いながら、Tさんは、男の消えていった茂みを眺めた。
遊歩道から逸れた先は、ただ人工林の樹々が並ぶばかりだ。なぜ今の男は遊歩道を歩かずに、あんなところへ向かったのだろう。
そう思った途端に、少し肌寒さを覚えた。
雨がやむ様子はない。
じっとしていたら、やはりタバコが吸いたくなってきた。
辺りを見回し、誰もいないことを確かめる。今なら大丈夫だろう、とタバコを咥える。そして火を点けようとした途端。
「禁煙ですよ」
背後で声がした。
ハッとして振り返ると、やはり軒の外に、今度は真っ黒な着物を着た、ずぶ濡れのお婆さんが佇んでいた。
「禁煙ですよ。禁煙」
お婆さんは真顔でそう繰り返すと、じたじたと履き物を鳴らし、茂みをかき分けて、林の向こうへ消えていった。
Tさんは気味が悪くなって、今度こそタバコをしまった。
……ふと雨音が弱まった気がした。
そろそろやむだろうか。ベンチから立ち上がり、外に目を凝らそうとする。
と、足元でカタッと何かが鳴った。
見れば、自分のライターが転がっている。ポケットにしまい損ねて、落ちてしまっていたようだ。
Tさんは身を屈め、ライターを拾い上げた。
そして、壊れていないかどうか確かめるため、火を点けようとした途端。
「禁煙ですよ」
……また、声がした。
やはりベンチの裏からだ。ただし、誰の姿もない。
Tさんは不思議に思って、ベンチの背もたれ越しに、軒側を覗き込んだ。
そこに――。
……赤ん坊がいた。
……裸で地面に転がり、ずぶ濡れの顔でTさんを見上げていた。
「禁煙ですよ」
大人そっくりの太い声が、赤ん坊の口から溢れた。
Tさんは、急いで東屋を飛び出し、雨の中を走って逃げた。
気がつけば、ポケットのタバコは雨に濡れて、すべて駄目になっていた。
なお後で分かったことだが、公園内のその場所には、元から東屋などなかったそうだ。
*
『絵本百物語』に曰く、「
かつて
Tさんが雨宿りした東屋の正体も、もしかしたら……。
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