第九話 虹

 Mさんという男性が子供の頃、母親の実家があるY県へ遊びにいった時の話だ。

 祖父の案内で、近くの山へハイキングに行くことになった。

 早朝から身支度を整え、両親も一緒に四人で山に入った。山道は緩やかで、子供連れで歩くにはちょうどいいぐらいの斜面が、どこまでも続いていた。

 その日は行楽日和だった。秋晴れの空は青く抜け、ところどころで鬱蒼うっそうとした樹々が、涼やかな木陰を作っている。

 時々他の登山客が追い越していく。Gさん達よりも遥かに立派な装備の彼らを見送りながら、「あの人達は頂上まで行くんですかね」と、父が祖父に尋ねた。

 祖父が頷く。この山は中腹を超えた辺りから険しくなり、本格的な登山コースへと変わっていく。もっともGさん達の目的地は、中腹にある神社と休憩所で、そこで引き返す予定になっていた。

 一時間ほど歩き、やがて神社に着いた。

 両親ともホッとした顔で、据えられたベンチに腰を下ろしている。Gさんは、まだ歩き足りないと思いながら、登山道の先を見上げた。

 ふと――にじが見えた。

 いや、晴天だったから、本当の虹かどうかは分からない。ただ尾根の向こうから、美しい七色の光が、すぅっ、と立ち昇っているのは確かだった。

「爺ちゃん、虹や」

 Gさんが空を指さし、祖父に言った。

 するとその指を、祖父が慌てて押さえ、下ろさせた。

は、見ちゃぁいけんよ」

 まるで何かを忌むように、祖父は小声で囁いた。

 その虹が見えたのは、ほんの数秒のことだった。Gさんが両親にも教えようとベンチに駆け寄った時には、すでに虹は跡形もなく消え、再び青一色の空に戻っていた。


 その夜、実家の布団で寝ていたGさんは、奇妙な夢を見た。

 夢の中でGさんは、昼間の山を一人で懸命に登っていた。

 中腹を超え、険しい登山道を進んでいく。急な坂道を這い、崖のふちを伝い、途中で何人もの登山客に追い越されながら、彼方を目指す。

 行く手を見上げると、尾根の向こうから、あの虹が立ち昇っている。

 あそこへ行かなければならない――。そんな衝動に駆られ、汗と土にまみれて足を動かしていると、不意に背後から、ぐい、と襟首をつかまれた。

 振り返ると、祖父がいた。

 祖父は怖い顔で首を横に振り、Gさんをつかんで引きずるように、登山道を下り始めた。

 Gさんは、次第に虹が遠退いていくのを残念に思いながら、改めて深い眠りへと呑み込まれていった。


 ……朝になって、テレビの音で目が覚めた。

 流れているのはローカルニュースのようで、昨日あの山で五人の登山客が行方不明になった、という話題が聞こえていた。

 映像には、山でGさん達を追い越していった登山客の顔写真も映っている。

 Gさんがポカンとしながらそれを眺めていると、ちょうど同じくテレビを見ていた祖父が、ぽつりと呟いた。

「虹にとらわれたんじゃろなぁ……」

 Gさんはそれを聞いて、何とも言い難い不気味さを覚えたそうだ。


  *


 『絵本百物語』に曰く、岩国山の奥に、蛇を食らうほどの巨大なガマが棲む。名付けて「周防すおうの大蟆おおがま」である。このガマは口から虹のような気を吐き、その気に触れた鳥や虫を、口の中に吸い込むという。

 Gさんが見たという虹も、もしかしたら、このガマのような怪物が吐いたものだったのかもしれない。

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