第五話 撫でられた
N県に在住の、Iさんという男性から聞いた話だ。
ある春の日、友人達と連れ立って、海へ釣りに出かけた。
釣り船を借り切っての船釣りである。天気は快晴だが、北からの風がやや冷たく、各々が防寒用に厚着をしていた。
沖合に着いたところで船を停め、釣り糸を投げた。
だが食いつくのは小魚ばかりで、大物はなかなか来ない。そのうちに座り疲れたのか、一人が立ち上がり、
その様子を目の端で眺めていたIさんが、餌を換えようと、ふと視線を手元に向けた時だ。
不意に、「あっ」と小さな叫び声が聞こえた。
全員が、声のした方を見た。
……立って伸びをしていたはずの友人が、消えていた。
まさか海に落ちたのか、と全員が血相を変えて辺りを見る。だが船の周りに、友人の姿はない。Iさんが奇妙に思っていると、すぐに一人が彼方を指さして、「あそこだ!」と叫んだ。
見れば、船から十メートルほど離れた海面に当の友人がいて、バシャバシャと水
友人は、幸い大事に至らず、無事船に引き上げられた。釣りはその場で中止され、一同は港に戻ることになった。
それにしても助かってよかった、とⅠさんが思っていると、友人が不思議そうに尋ねた。
「なあみんな、俺が落ちたところ、見たか?」
その問いかけに、誰もが首を横に振った。どうやら全員の視線が逸れたタイミングだったらしい。友人はそれを知ると、表情を曇らせて、こう続けた。
「べつにバランスを崩したわけじゃないんだ。ただ――」
それは、友人が船縁に立って、ふと海に背を向けた瞬間だったという。
不意に、撫でられた――のだそうだ。
……海に向けた背中を、するり、と背後から誰かに。
友人は「え?」と思って振り向こうとした。しかしその時には、すでに彼は水の中にいた。
慌ててもがき、船に引き上げられるまで、生きた心地がしなかったそうだ。
しかし、厚着をした上からライフジャケットまで着けていたというのに、なぜ撫でられた感触があったのか。
理由は分からない。ただ、後で友人の背中を捲って見たところ、確かに指を押しつけたような赤い痕が、いくつも残っていた――ということだ。
*
『絵本百物語』に曰く、
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