第三話 ほしい
Wさんという男性が、小学校に上がったばかりの頃の話だ。
当時、Wさんの家の筋向いに、Ⅰ君という同い年の男の子が住んでいた。
I君は、母子家庭の一人息子だった。近所には他に年の近い子がいなかったため、Wさんは親の計らいで、自然とI君と一緒に遊ばされていた。
もっともWさんは、I君のことが好きではなかった。なぜなら、I君がWさんのものを、やたらと奪うからだ。
「ほしい」
I君はそう言っては、Wさんからいろいろなものを取り上げた。食べていたお菓子。読んでいた本。大事にしていた玩具――。そういったものを無闇に欲しがっては、ほとんど力づくで奪い、自分のものにしてしまう。
しかもこちらが文句を言えば、腕っぷしに物を言わせて殴ってくる。Ⅰ君は体が大きかったから、喧嘩になれば、Wさんに勝ち目はない。
一度、あまりに堪りかねて、I君の母親に言いつけたことがあった。I君がものを取るのをやめさせてほしい――と。それはどう聞いても、まともな訴えのはずだった。
なのにI君の母親は、
「あの子が『ほしい』って言ってるんだから、素直にあげればいいじゃない。あの子は可哀想な子なんだから」
思えばI君の母親は、どこか異常なまでに、I君を溺愛していた。
Wさんは仕方なく、自分の母親に不満を打ち明けた。しかし母親は苦笑し、「I君は可哀想なんだから、Wが我慢しないとね」と、不可解なことを言う。
結局自分には味方なんていないんだ、とWさんは絶望するしかなかった。
ところが、それから二ヶ月が経ってのことだ。
……I君が、亡くなった。
理由は、はっきりしない。ただ、もともと長くは生きられない体だった……と誰かが話しているのを葬儀の席で聞いたのは、はっきりと覚えている。
ともあれ、これでI君にものを取られる心配はなくなった。I君は安堵した。
一方I君の母親は、その後少しずつ様子がおかしくなっていった。
ぶつぶつと何か独り言を呟きながら往来を歩き、小学生の男の子を目にすると、意味の分からない奇声を上げて追い回す。捕まった子は、帽子やノート、文房具などを取られてしまう。
「あの子が『ほしい』って言ってるの!」
それが、I君の母親の言い分だった。
おかげで何度も警察沙汰になった。もっともWさんは例外で、I君の母親に追いかけられたことは、なぜかなかったそうだ。
ただ――一度だけ、普通に声をかけられたことがある。
夕暮れの時分だった。
遊びから帰ってくると、ちょうど家の前で、I君の母親に呼び止められた。
「ねえWちゃん。あの子が『ほしい』って言ってるの。ちょうだい?」
何を――とは、言ってこなかった。
Wさんは口を
虚ろな目が、じっ……とこちらを見下ろしている。
I君はそっと後退り、答えた。
「やだよ。おばさんがあげればいいじゃん」
もうI君はこの世にいない。だから、殴られることもない――。それが、Wさんが反抗した理由だった。
I君の母親は、それを聞くと、無言で自分の家に引き上げていった。
翌朝、I君の母親が亡くなった、という報せが家に届いた。
布団の中で、血を吐いて冷たくなっていたそうだ。特に持病もなく、まだ亡くなるような年齢でもないはずなのに……と、誰もが不思議がっていた。
ちなみに枕元には、一枚のメモが置かれていたという。
『Wちゃんが意地悪でくれないから、代わりにお母さんのをあげるね』
メモには、そう書かれていたそうだ。
……Wさんのこれまでの人生で、最も怖い出来事だった、という。
*
『絵本百物語』に曰く、
果たしてI君が最後に欲しがったものは、何だったのだろう。
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