空白

珠淵茉凪(タマブチマナギ)

華頂晏殊(カチョウアンジュ)


 私は人でなしだが、じゃあ私を人でなしへと堕としたあの娘は何なんだろう。

 

 私は白亜の廊下を歩いている。ここは作品たちの療養所(サナトリウムオブザワーク)。人とよく似た見た目の人とは異なる種族のための療養所だ。療養所と言っても学校や簡易的な行政などが入っている、街だ。ここで療養しているのは薔薇石英種と呼ばれる者――薔薇石英種は人間と違うが便宜的に薔薇石英種の人たちや薔薇石英種の者と表現する――たちだ。彼女彼らは外の世界では生きていけない。なのでこの作品たちの療養所で一生を終える。

 何故ここの名前が作品たちの療養所なのか、それは彼ら彼女らのもう一つの呼び方に由来する。薔薇石英種の者たちは「忌避すべき天使の作品」とも呼ばれている。それは敬称でも蔑称でもなく、ただ純然たる事実ゆえ、そう呼ばれている。なのでこの施設の名前も作品たちの療養所となっている。

 薔薇石英種たちは社会的にも体質的にも外の世界では生きていけない。社会的に生きていけないというのはアフリカでアルビノの者たちが狩られていくようにこの世界では薔薇石英種たちは神格化――神々しい者には変わりないのだが――され、象徴や呪い的な祈りを込め、狩られていった。一部の人間は薔薇石英種を取り込むことで神聖なる天使に近づけると信じ込んでいたし、富める者たちは薔薇石英種を食すカルト宗教を築き上げた。また、一部の権力者や社会的地位のあるものは自らの威厳を示す為、薔薇石英種を愛玩動物のように扱う。薔薇石英種は人と違えどほぼほぼ人と変わらないため、人権を有している。薔薇石英種を殺傷した場合、器物損壊罪ではなく殺人や傷害罪が適用される。

 やがて薔薇石英種への人権侵害が社会問題となり、一部の薔薇石英種が試験的に世界と隔離された。すると、隔離された個体は平均的に寿命が延びた。その事実と薔薇石英種への大量虐殺を踏まえ国連での薔薇石英種保護条約が結ばれ各国で薔薇石英種を隔離、保護された。

 そして、作品たちの療養所が街の郊外に作られた。

 ここでは義務教育も課されるし、秩序もある。望めば東京大学や東京藝術大学レベルの教育も受けられる。

 また、基本的には労働の義務を果たさなければならない。作品たちの療養所では警察が在中しているが薔薇石英種の人が警察の任務に着くこともあるし、教育関係に着くこともある。

 私、華頂晏殊は薔薇石英種ではない人間でここ公立群撫子学園で教鞭を執っている。

 担当教科は倫理。人間の学校では社会の延長線で倫理の歴史について学ぶ。だが、薔薇石英種に教える倫理とは倫理そのものだ。薔薇石英種の高校では倫理は必修科目だ。それは薔薇石英種の特徴に起因する。

 薔薇石英種は人間に比べ情緒が豊かだ。豊かすぎてときとして授業中に泣きだしてしまう者や詩を詠みだす者もいる。

 故に感情を持った者たちの最適解を求める倫理を必ず学ばなければいけない。

 そして私は今日も教壇に立つ。

 ここに立つと薔薇石英種の特徴がよく分かる。薔薇石英種の人たちは生まれながらに顔にメイクが施されているのと、顔や顔付近にのに小さい花が咲くように薔薇石英、ローズクォーツが咲いている。

 薔薇石英種の人たちは顔や顔付近に咲いているローズクォーツの形や大きさでモテるかどうか変わる。薔薇石英種の人たちによるとルッキズム的な意味合いは一切ないらしい。

 でも薔薇石英種の人たちは誰かに恋しても片想いでなければならない。忌避すべき天使の作品は文字通り天使の所有物だ。そういう習慣ではなく実際にその通りなのだ。

 天使にとって恋に堕ち合っている者たちがお互いしか眼中にないとお互いがお互いのものになってると判断するし、恋に身を捧げることも相手のものになっている、という判断になるらしい。

 人間が定めた決まりに背くより、天使の定める決まりに背く方が魂が背負うべき罪は大きい。

 私は黒板に板書し、生徒――群撫子学園は女子校なので女生徒だが――に倫理を説く。まるで自らの思想を説くように。その途中でどうしても一人の生徒に目が向く。彼女は問題児でも優等生でもない。

 彼女は珠淵茉凪。何故私が彼女を気にかけているかと言うと彼女を見つめていると、一つの穴を眺めている感覚になる。そして、没個性の者に対する周りの行動についての実験を思い浮かべる。彼女はあまりにも個性がなさすぎるのだ。たまに例題をこちらが示した後、生徒にこの問題についてどう思うか聞くのだが彼女は模範解答を述べるばかりで決して彼女がどのような人柄か、鱗片を覗かせることがない。

 まるで、意志を持たない者のように。何色かに染まることを拒絶するように。染まることに対して潔癖じみた拒絶を示すように。穴と表したが何を投げかけてもその問いは奈落へ堕ちてゆく、そんな錯覚に落ちる。

 私は何も図ってないように演技じみた振る舞いをしながら授業を進める。最初は私が投げかけた知識や問いが彼女らの心にどんな華を咲かせるのか楽しみにしている部分があった。だが、それはやがて珠淵茉凪という奈落に堕ちていった。

 そしてその隙間を埋めるようにある誘惑が私を誘った。

 頭の中を埋める誘惑に惑わされていない風を装いすぎて授業が終わる頃、まるで別人を演じた様に感じる。頭の中ではチャイムが鳴るのは終幕のブザーが鳴るようで、私が教室から出ていく時が劇の幕が降りるような錯覚に陥る。

 私は白亜の廊下を歩く。まるでこの美しさは薔薇石英種への賛歌のようだ。何かを讃えるためには礼儀として品位という意味の美しさを持たなければならない。何かを讃えるには瀟洒なのはドレスコードだ。讃えるために瀟洒となるのは一種の覚悟だ。覚悟は時として美しい。その者を、その物を凛とさせる。まるでその周りの空気を凪させるように。これは私だけにしか分かそらない感覚らしい。空気が凪いでる、と周りの人に言ってもそうそう理解してもらない。

 私は倫理研究室へと着き、椅子へと腰掛ける。周りの先生の椅子はブランケットで飾ってあったり、クッションが置いてあったりするが私の椅子は何も置いてない。机や、机の中にも最低限のものしか置いてない。

 そんなこの部屋は誰もいない。他の先生方は色んな予定が重なって今日この部屋には私しかいないはずだ。光さえ静かな――暗いという意味ではない――その部屋で私は思考の海に潜る。波を立てないように。

 考えるのは珠淵茉凪のことだ。彼女が何も問題を起こしてないのに他の生徒に裂くべき時間を彼女を想うのに使うのを自覚するたび、わずかづつ堕ちていく感覚になる。高潔であるべき教壇から堕ちていく。

 でも、堕ちていく背徳感も彼女への想いのスパイスとなる。恋愛というのは恋愛で失えば失うほどその事実が想いの燃料となる。もしも彼女のせいで私が教壇から引きずり下ろされればそれは例え彼女が横にいなくても恍惚が私の頭をチカチカ点滅させるだろう。目が眩むほどの激しい光を伴う点滅。その光で何も見えない。精神的な絶頂。そう考えるだけでまだ経験したことのないセックスのときに漏らすような声が漏れる。その漏れた声は私への精神的な媚薬のようだった。高潔さが求められるこの聖域で私はそう考える。微かな罪が産まれようとも。

 次は空きコマだ。幸い、するべき仕事は今はない。私は考えを巡らす。ある誘惑を振り払うために。だがその考えは病巣のように私の精神を巣食っていく。

 それは珠淵茉凪を自分色に染めて、私だけの人形にしたい。

 珠淵茉凪と似たもの同士になって仲良くなりたい、とは遥かにかけ離れた、感覚。信号の黄色とコーンスープの黄色のように

 私に染められて、その事実ごと彼女に愛されたい。あと、愛するものに対して少しも妥協したくない。完璧に私の理想通りのものを愛したい。私の理想と少しでも離れたものを愛せない。彼女の人格を私で満たしたい。そうすれば私のものになる。精神の隅々まで私のものである彼女。ああああああ。

 そんな願いが私の中で鈍色の渦を巻いている。私はその中に一人、迷うように佇んでいる。まるで路の手がかりが分からない愚者のように。

 例え、罪の業火の中でも私は苦しまないだろう。ただ恍惚という非現実に私の魂は在るのだから。


放課後

 私は珠淵を呼んだ。そして彼女に「後輩の心理学の研究に協力して欲しい」と嘘の頼みをした。そして、実験に必要だと言い彼女の手を握った。彼女はなんの実験ですか、と聞いたが「何の実験か伝えると実験結果が被験者に取って恣意的なものになってしまう」と嘘を伝えた。

 彼女の表情を私は注視した。

 そして私は嘘の実験の後欲しいものを尋ねた。彼女は幸福論が欲しいと言った。まるで精神的な質素な食事を求めるように。

 私はその日の放課後、幸福論を書店で購入した。

 そして私は次の日、架空の実験の後彼女に幸福論をあげた。彼女は笑顔を咲かせた。

 そして、心做しかその日の彼女の回答は彼女の本心だろう、そう思った。

 そして翌日私は彼女が孤立するように仕向けた。私が犯人だと誰にも分からないように。彼女が彼女の保護者やこの学園の教師陣を信じないようにした。

 そのことに彼女が悲しむたび私は貴女のことを裏切らないと暗に伝える。

 こんな日々を繰り返すうちに彼女は目に見えて私に依存してきた。

 そんな日々のある日、私は「茉凪さんみたいな人が彼女だったら嬉しいな」、と少し淡とした口調で伝えた。

 すると彼女は「先生の彼女になったら先生は私と一緒にいてくれますか?」と言ったから「貴女が私に対して本気なら私も貴女に本気を返すわ」と返した。

 そして、彼女と私は付き合った。そして私は時折別れるかもしれないということをチラつかせ、焦った彼女は私の言うことを聞いてくれた。

 私は人でなしだ。でも彼女が私を人でなしへと堕とした。

 実験と偽ったのはどんな質問をしても不自然でないようだし、手を握ったのは嘘を見抜く手がかりになったり単純に好感度を調べるためだ。嫌いだったのなら躊躇したり、表情にでるはずだ。

 幸福論をあげたのは対価があると本気で質問に答える、つまり、本音を言う義務感を負わせるためだ。

 そして、洗脳の手順の一つに周りから孤立させる、というのがある。

 世界の全てが私だったなら、私の言うことに逆らえないだろう。

 最近茉凪は不登校となり、たまに学校に来たときは保健室ではなく倫理研究室に通うようになっている。私が授業にでているとき茉凪は図書室で過ごす。

 茉凪は私の好みの歪み切った笑みを私に向ける。感情が熔けてマーブル模様に交ざり合うのを想像させるような。

 その笑みを向けられるたびに閃々たる恍惚が私を酔わせる。だが、ときどきこの快感に耐性がついてきた気がする。ああ、この娘をもっと堕としてもっと強い恍惚に溺れたい。俗世に飽きるような。

 でももうじき私の魂は罪の重さに耐えられず堕ちていくだろう。

 人を堕としたあとに堕ちる地獄はどんなものなんだろう。

 その地獄でも私は恍惚に酔い続けるだろう。

 だって私は人でなしなのだから。



××

別視点


瑠璃川茉莉花(ルリガワマリカ)

幸福ベラ(コウフクベラ)

 その女性と会ったとき、僕の部屋には血の華が咲いていた。まるで僕の人生を彩るのに血の華が相応しいかのように。

 僕は檻の中にいた。無辜なのだが、天使であることに目覚めてしまったのだから。安定期までの隔離として、檻の中にいた。

 僕、瑠璃川茉莉花は人間だった。人間「だった」。少なくとも人間として生まれてきた。

 この世界ではときおり、人が天使として目覚める。神のきまぐれにより。富める者がきまぐれで浮浪者の前に置かれた缶に金銭を置いていくように。神という清廉であるべき存在の数少ない娯楽として、神が人間を天使にする。

 でも天使になりたての存在は脆い白だ。人間の精神と天使の精神は成分から構造までまるっきり違う。

 小学校と塾と家しか知らない少女が、少年が汚い大人の黒に染るように、天使になりたての存在は人々の狂気をスポンジのように吸い込んでしまう。

 狂気に染まりきった天使は生きる災害となってしまう。神も天使も人を護る存在だ。だが、護る力は使い方を間違えば殺戮の恐怖へと人々を囚える。

 なので天使となった者は収監される。

 収監はある程度天使の精神が落ち着くまでらしい。

 僕が天使となったとき、幸福慶菜という名は人間の体と精神と共に捨てた。僕の身体と僕の精神を吸って成長した薔薇石英が磔にされている。レースによく似た模様に彫ってある石膏像に磔られている。

 裏には「貴方の昔の精神と身体は卑しめの森を彷徨っている。貴方が知らないだけだ。この無知だけは赦される。だが貴方はこれから数多の罪を犯さなければならない。そして赦されなければならない。人を赦すには赦されることを知らなければならない。」そう刻まれているプレートが吊るされている。

 旧い身体からは血が流れている。否、血なのか。厳密には血かその他の体液か区別のつかない液体が流れている。それはマーブル模様を紙に写す色水のようだ。色が混ざっているのではなく交ざっている。一部混ざっているが。 

 そんな体液が皮膚から滲んでいる。僕はどうすればいいのか判らないからティッシュで拭いている。

 でも、そのティッシュを棄てるのは何か僕の旧い身体への冒涜のように感じた。 

 そんな日々を過ごす日々の一端、ある女性が僕の独房を訪れた。

 その女性は幸福ベラ、と名乗った。同姓同名の方がいたら申し訳ないのだが一瞬偽名かと思った。幸福という苗字が実在するとは予想もできなく、一瞬天使になったら名前も変わるのか、そう思った。

 ベラは僕に色んなことを説明した。僕の旧い身体は芸術品、つまり作品へと還るらしい。そしてその芸術品は別の個体として生きるらしい。「忌避すべき天使の作品」という異名を背負って。

 そしてその作品は別の個体だが僕の一部らしい。なので忌避すべき天使の作品を自分のものにする行為は禁忌だ。まず前提として天使は人より高位の存在だ。そして、僕の忌避すべき天使の作品は僕の一部だ。例え天使や人間という関係がなかったとしても人のものを勝手に自分のものにしてはいけない。

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