病室で紫の鬱金香を食んだら報われますか
小翠夜純(こみどりよずみ)
鍜冶屋敷水葵生(かじやしきなぎき)
あまり定かではい記憶。とある世界で碧珠(あおみ)と言う子と一緒に遊んでいた。遊んで暮らしていた、と言うとマイナスなイメージになるが直感的に僕と碧珠との日々を表すのなら遊んで暮らしていた。今思い出すなら碧い宝石でできた寝台列車の中で一緒に何時までも遊んでいた。食べ物を食べた記憶も寝ていた記憶もない。まるで何かの儀式を儀式の意味合いを強めるために繰り返していたかの様に。何かの象徴として生きていたかの様に。
碧珠に関してはあまり覚えていることは少ない。年頃で言うと十六〜二十歳くらいの人だった。少年とも少女とも分からなかった。性徴がない人だった。それに男性の枠にも女性の枠にもハマらない様な人だった。碧珠が男性でも女性でも僕には関係のないことだった。
そして車掌服を着ていて手入れさのされていない髪の毛が腰まで伸びていて前の方の髪の毛の隙間から眼や顔の一部が覗いていた。
でもある日、ドアが開き、そこから無数の仮面と腕だけの存在が来た。そして向かい合う碧珠と僕の合間に立ち塞がった。そして仮面と腕たちはそれぞれ僕の上半身と下半身を担いだ。抵抗のできない僕はそのままドアの向こう側へと連れてかれた。碧珠を置き去りにして。
そしてドアを超えたあたりで僕は生まれて初めて眠った。事務的に与えられた眠りが僕を生暖かく抱いた。
××
目覚めたのは未知の世界故に当時どう表せばいいのか分からなかった世界だった。
そんな世界で目覚めたとき傍にいたのは一人の女性だった。
髪は短く、白い特徴的な服を着ている人。
その人は僕が目覚めた後話しかけてくれた。
目覚めた最初の僕には言葉が欠けていた。よく、雪がよく降る地域には雪を表す言葉が多いと言う。逆を言えば雪が降らない地域には雪を表す言葉が少ない。人はそのものをあまり知らないとそのものを表す言葉を持たない。
碧珠との世界は欠けたものばっかりだった。欠けたものの数だけ言葉が欠けていた。
僕が目覚めるまで待っててくれた人は小翠先生と名乗った。小翠夜純先生。
そしてその先生との日々は欠けたものを埋める日々だった。
別に碧珠との日々が幸せでなかったわけではない。その事実と関係なく小翠先生との日々は幸せだった。先生は無償で僕の欠けた穴を埋めてくれた。それは丁寧に。
そして先生は僕に名前をくれた。「鍜冶屋敷水葵生」と。
××
「電気石色の寵愛」。
これは空間型の怪異だ。碧珠と呼ばれる生命型の核があり、碧珠は気に入った妊婦の肚の中の胎児を攫う。そしてその胎児を少女と呼べるくらいにまでその空間の中で育てる。電気石色の胎盤で。そしてその少女の時は永遠に止まる。ただし死なないわけではない。何らかの条件――それは碧珠の感情の場合がほとんどだ――が揃えばその少女が殺される。
僕たちは電気石色の寵愛について研究している。そして僕たちの目標は電気石色の寵愛を祓うことだ。
そしてそのために文(かざり)怪異研究所の片隅の研究室で電気石色の寵愛に干渉し、囚われている子がいれば病室に結界を張りながら保護し、必要に応じて検査、実験を行う。と言っても実験を繰り返すのは人道に背くので彼女の分身を作りその分身に対して実験を行う。
電気石色の寵愛に囚われていた子のことを寵児と僕たちは呼んでいる。
まず、巡芳の儀と誓呵の儀を行い電気石色の寵愛に干渉する。そしてその時碧珠が僕たちに干渉しないように命嗣の詞を被り、纏う。この時寵児を保護する役割と命嗣の詞を唱える役割に分かれる。
そして空間を超えることに慣れていない子供が空間を超える時意識と存在が混濁しやすい傾向にあるので眠薬を嗅がせる。また空間を超える時動揺してその動揺に碧珠はつけ込むこともあるので念の為だ。
そして寵児がこの世界に来ること、それは一種の誕生を意味する。肉体の誕生でもあり存在の誕生。
そして産まれてきた寵児は存在的な揺らぎに襲われやすい。その揺らぎを凪がせるのがこの結界だ。この病室では患者の不調を鎮めるための結界が常時、師によって張られている。
電気石色の寵愛から産まれた存在は実にか弱い。どれだけ結界を張っても消える時は残酷に消える。どれだけ僕たちが希望を注ごうと。まるで碧い悪意かの様に。その度に僕は身勝手ながらもこんな結末になるのなら迎えなければよかったのだろうか、そう思ってしまう。
でも寵児は産まれてくるべきはこの世界に間違いない。その反面僕たちの行動は独り善がりであって正義ではないと言う事実もこの研究室には存在する。誠意としてこのことを一日たりとも忘れたことはなかった。
反出生主義に似てるのかもしれない。
でも碧珠や電気石色の寵愛が成長したり攫う人数や攫い方が変わったり――もっと惨い方法で攫うとしたら?――したら社会に甚大な被害が及ぶかもしれない。実際に電気石色の寵愛の被害に遭った妊婦は精神を病みやすく重症化しやすい。碧珠の幻覚に囚われているオーロラ加工されたクリオネの髪飾りを着けたある女性を思い出した。彼女は自身が碧珠だと思い込んで死のうとした。
僕たちの志が実を結ぶことを願って僕は苦痛に満ち溢れた寵児や寵児の母親の貌を飲み込む。その嚥下は繰り返せば繰り返すほど肚の中にネズミが好みそうな淀みとなる。これはやがて飲み込めば飲み込むほどやがて大きくなりやがて僕を喰らう存在。これに飲み込まれて正気を消化されたのならいっそのこと楽になるのかもしれない。自傷染みた正気が分解される様子と苦痛を俯瞰で観察してみたいと乞い願う感情。ふとビルから真っ逆さまに翔んで死の数刹那前だけ天使になれることを綺麗だと称してしまう感情。僕は正気が分解された時の生が露わになってるあれがとても好きだ。人間が肉塊であることを包み隠せなくなっているあれがとても好きだ。理性と言う洋服を脱いで肉塊であることを証明して謳歌して、肉塊を生きているあれがとても好きだ。美しくて愛おしい。
閑話休題。
僕は暁闇が満たされた研究所の病室棟の中を歩む。そして白天竺葵号室の前で世界に向かい中指と人差し指を交差させる。この手は何処か震えていた。何かの前兆かの様に。
××
今日も小翠先生が僕の病室に訪れてくれた。
先生で染められた心は先生に惹かれるのかもしれない。僕の病室には色んな人が訪れる。小翠先生が敬語で話す人も敬語で話される人も。
僕の病室を訪れたある女性を思い出す。その人はパジャマにカーディガンを羽織っていて僕のことを依楠(いなん)、そう呼んだ。僕は僕の名前が水葵生であること、そして鍜冶屋敷水葵生と言う名前であることを教えてあげた。するとその人は後ろにいる二人の職員と小翠先生に向かって
「この名前をつけた人は誰なんですか」
そう叫んだ。わけが分からなかったけど僕の手が震えたのだけはよく覚えている。ねぇ、小翠先生。これってどういう感情ですか?教えてください。
そして小翠先生が
「僕ですが何か不都合でもありましたか」
そう答えた。その人は
「この子には布垣依楠と言う名前があって由緒正しい布垣家を継ぐ子なの。この子はお嫁に行くんじゃなくてお婿を迎えるような子なのよ。問題しかないわ。」
そう矢継ぎ早に怒鳴る。
「それにこの子はあなたたちの子ではなくて私の子なのよ。何時になったら帰してくれるの。」
そう言う傍らで小翠先生は「コード紫」、そう何回も小さな機械に繰り返し話しかける。
そして何度かその人が怒声を繰り返した後男性と女性が来た。そしてその男女は怒鳴っている人を抱え込んで連れて行った。怒声と僕の震えた感情との綺麗な対比の様だ。
そして小翠先生は僕を抱きしめ「怖かったね。でもあの人はもうここに来ないし、貴女がいるべきなのはここだし、貴女の名前は鍜冶屋敷水葵生。何も怖がる必要はない。でも不安になったら僕を呼んで。」
そう何度も言葉を投げかける。まるで言葉で僕のことを何度も撫でる様に。
僕はあの人がもう一度来ればいい、そう願ってしまう。僕の心が震えた時もう一度僕のことをこうやって撫でてて欲しい。でもこのことを口に出したら小翠先生はどう思うだろう。きっとそんな僕のことは心配してくれないのだろう。
小翠先生に心配の言葉の意味を教えてもらった日を思い出す。
「貴女が辛くないか、大丈夫か気になること」と辞書の言葉を柔らかくしたことを教えてもらった。そして小翠先生は「僕が心配になるのは貴女のことが大事だからだよ」そう言った。
じゃあ、小翠先生が僕のことを心配すれば僕のことを想ってくれる証明になるんだよね、そう言うことに辿り着く。じゃあ、僕のこともっと心配してよ。
小翠先生は「心配すると胸の中にある心が痛くなる」そうとも言っていた。
「もし今日のことで辛くなったらドクターコールを押して。できるだけ早く行くから。」そう小翠先生は僕の手でドクターコールを包みその上から先生の手で包み込んだ。心配は温かい、そう先生が言っていたのを思い出す。その先生の手は微かに温かかった。
それが先生の感情の証拠であって欲しかった。
小翠先生は研究員詰所へと帰って行った。
僕はドクターコールを抱き締める。鳴らしてしまわないように。それに先生の感情の残滓が残っていると信じて。
ねぇ、先生。もっと僕のことを心配して。その反面先生の心が痛くなって欲しくない気持ちもある。でも僕のこともっと大切に思って。先生の心に占める僕の割合がもっと大きくなって欲しい。僕のことが大事だと思ってくれる時間が増えて欲しい。先生に大事に思われないと思うと心の柔らかい部分が痛みとともにクシャってなる。
ねぇ、小翠先生。この感情について教えてください。
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