9. 知らぬ間の移り変わり

 リンドが一つ鳴いてから扉へ歩いていく。

 こちらを振り返ったためついてきてほしそうだった。


 スリッパを履き、ちらちらとこちらを見ながら歩くリンドを追う。

 途中洗面所に寄り身嗜みを整えた。


 着いたのはスミレさんの寝室だった。


「え?」


 入れと言っているような気がする。

 寝室には入ったことがなかった。

 

 ただ、朝までリンドが僕の部屋にいたことは滅多になく、こうしてどこかへ案内されたのは初めてのことだった。

 スミレさんに何かあったと考えて入った方がいいのかと扉前で立ち尽くしていると、足を叩かれて急かされる。

 

「ほんとに?」


 声は聞こえているはずなのに一切僕を見ず、扉前に移動しお行儀よく座っている。

 有無を言わさぬ強引さに初めて会った時のスミレさんが重なった。

 やっぱり飼い主に似るものなんだろうか。


 ノックをしても応答がなかったため部屋へ入る。


「お邪魔します」


 空気が生温かく、重たく感じた。

 奥から苦しそうな浅い呼吸が聞こえたため、音を立てないようにして足早に駆け寄る。

 リンドも付いてきていた。


 顔が赤い。発汗もしている。

 桶内の水の温度を確認すると多少冷たい程度だったため、変える必要があった。

 

「シオン様」


 メイドに小声で呼ばれたため近くへ行く。

 脇に置かれているサービングカートには氷水の入った桶とタオルと着替え、食事が乗せられていた。


「スミレ様のお世話をお願いできますでしょうか」

「わかりました。他にもお力になれることがあれば何でも仰ってください」

「失礼いたします」


 たった三言で扉が閉められ、言いようのない感情が胸でのたうっているのを感じる。

 してはいけないことととかの注意事項的なものすら教えてもらえなかった。

 必要以上に会話をしたくないというのを初めて正面からぶつけられ、心がもやつく。

 

 以前は奥様と呼ばれていたのに、いつの間にか名前呼びになっていた。

 僕の知らないところで勝手に色々変わっていく。

 

 とはいえ何かをお願いされたのはこれが初めてのことだった。

 やっと返せる。


「……シオンさん」


 小さく掠れた声を耳が拾う。

 カートを押しながらスミレさんの元へ戻った。

 リンドの姿が見えない。


「ご飯を持ってきてくれたよ。汗は拭けそう?」


 氷水に浸したタオルを絞りながら聞く。

 目は閉じられたまま、眉は顰められていた。


 額のタオルを冷えたものと入れ替える。

 元々乗っていたタオルは別で置き、新しいタオルを同じように氷水へ浸して絞る。

 幾分が浅い呼吸が落ち着いた。

 おでこや首筋の汗にタオルを当てていく。


「ん……」


 薄目が開く。

 瞬きがゆっくりだった。


「おはよ」

「……ぁぁ、シオンさん」

「ご飯持ってきてくれたよ。汗から拭く?」


 絞りなおしたタオルを差し出す。

 

「動くの辛かったらメイドの人呼んでくるよ」

「呼ばなくていい。シオンさんが着替えさせて」

「わかった」


 汗を拭っていき、替えの寝間着を着せた。

 

「ありがと」

「どういたしまして。ご飯は食べられそう?」

「少し……」


 体を起こすのを手伝う。

 両手が腿の位置に置かれたままだったため、スープをスプーンで抄い、口元へ持っていく。

 何回か繰り返してスープを減らしてから、具をスプーンに乗せる。

 

「噛める?」

「やだ」


 一部の潰せないものを端へ避ける。

 潰せるものをスプーンの背で潰し、食べさせていった。

 端へ寄せたものを目で指しながらスミレさんが口を開く。

 

「それも食べたい」

「元気出てきたね。はい、どうぞ」

「……」

「スミレさん?」

「噛めないから」

「……スミレさんどうしたの?」

「代わりに嚙んで」

「代わりにって、」


 右手を下ろす。

 

 スミレさんから何かを頼まれたのはこれが初めてだった。

 頭を困惑が占める。

 ……これで少しでも返せるのなら。

 

 スプーンを自分の口へ近づけていく。


 拒みたくないわけじゃない。

 姉は関係ない。

 それに初めて声をかけられたときに断っている。

 だから大丈夫。

 

 十分冷めているのに息を吹きかけてしまい、急いで口に含む。

 咀嚼し、形を崩した。

 雛鳥のように口を開けて待っているスミレさんへ顔を寄せる。

 

 近くで見るスミレさんの顔は睫毛が長く、頬に赤みが差している分普段より幼く感じる。

 いつもと様子の違うスミレさんに見られているのを恥ずかしく感じ、目を閉じた。


 唇を合わせ、とろとろと落としていく。

 噛まずに嚥下していく様子は、身を任されているようで少し怖い。

 残り少なくなったものを舌で押して届ける。

 唇が離すと控えめな水音がした。


「もっとぉ」


 再度スプーンに具を乗せ、口へ運ぶ。

 食べている姿を誰かにじっと見られることなんて今までなかった。

 急かされているような視線にスープへ目を落として視界外にスミレさんを置き、咀嚼を続ける。

 ほぼ液体となったことを確認後、椅子から腰を浮かせて再び顔を寄せた。

 

 若干上向きになった顔へ唇を合わせ流し込み始めると、ベッドへ軽く置いた右手にスミレさんの左手が重ねられる。

 少しずつ送り込んでいくと、こくっ……こくっ……と規則的に小さな嚥下音が耳に届く。

 嚥下に合わせて右手が、ぎゅっ……ぎゅっ……と僕の体に覚えこませるように握られた。

 顔を離すと先程同様水音が鳴った。

 離れる際に吸われた感触が唇に残る。

 

 口移しはお皿の中が空になるまで繰り返された。


 最後の一口でぬるりと僕の口内へ何かが入ってきたため反射で顔を離す。

 看病とは程遠い艶めかしい音に視線を落とすと、スミレさんの舌が外に残っており、ちろちろと蠢いていた。

 熱に浮かされた瞳がなぜか姉とクトと重なった。

 じくりと左の足首が痛む。

 

「……」


 ハンカチでスミレさんの口を拭きながら見つめ返すと、蕩けるように表情が崩れる。

 視線が目の奥で溶かされていく。

 

「おいし。……お水も飲ませて」

 

 そう言っているのにもかかわらず、コップを近づけても口を開かない。

 水を口に含むと微笑んでから口を薄く開く。

 満足いくまで喉を潤すと、横になってすぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。

 

 桶を入れ替えてカートを部屋の外に出した。

 お世話ってどこからどこまでを指すんだろう。


 トイレからの出、無意識に自室へ戻りかけた足を止めて引き返す。

 

 椅子に背を預けて窓から外を見る。

 スミレさんも起きたときに誰もいなかったら心細く思ったりするのかな。

 風に揺れる木から葉が落ちた。

 

 ここひと月は特に距離が近いと感じることが多かったような気がするけど、今日のは……。

 看病とはいえ普通から逸脱していると思う。

 いや、していない?

 普通じゃない僕の普通ってなんなんだ。


 スミレさんの受け入れようもおかしい気がする。

 密度は違うけど、スミレさんとメイドや執事の人と過ごした時間はふた月で同じ。

 ……会話をぶつ切りにされたことを思い出す。

 おかしさでいえばメイドや執事の人の方がおかしくなるのかな。

 それならふた月あればスミレさんくらい距離が縮まっている状態が普通になる?

 わからない。

 

 僕はスミレさんとどうなりたいんだろう。

 なぜ一緒にいるんだろう。

 一緒にいて助かっているのは僕の方で、今した看病くらいしか頼まれた覚えがない。

 

 ……あぁ、何もしていないからメイドや執事の人に嫌われているのか。

 申し出た手伝いをすべて断られたからって諦めるんじゃなくって、他にできることを探すべきだったんだ。

 居てほしいと言われたからって一方的に甘え続けるのは良くない、思う。

 僕に何もできないことがわかったら出ていこう。


 どこかへ行っていたようだったリンドが膝へ飛び乗ってくる。

 軽やかな着地だった。

 腕を持ち上げる。

 

 「いてっ」

 

 頭を撫でようとすると手を叩き落とされ、行き場を失った右手が空をさ迷った。

 触ってほしくなさそうだったため、手を下ろす。

 朝はあんなに触らせてくれたのに。

 今日はもう撫でんなって意味なのかな。流石に撫で過ぎたか。


「わかったよ」


 思わずため息が漏れる。

 僕にできること、今必要とされてることを照らし合わせていく。

 誰が何をしているかもう少し知る必要があった。

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