6. 割ってはいけない花瓶

 姉を映した。

 白いネグリジェは滑ついた血で赤く染まっている。


「姉様。僕と姉様は姉弟なんだよ」

「そうだね。姉弟だよ。でももう夫婦だから。お父さんとお母さんと同じ方法で、私たちもお父さんとお母さんになったんだよ」

「なってない!もう嫌なんだよ、こんなこと!僕は普通に過ごしたい。普通に生きて普通に死にたい」

「何を言うかと聞いていれば……あのね。夫婦は互いに尊重し合うものだけれど、限度はあるの。子供じゃないんだからシオンもわかってるでしょ?私たちは生まれた環境も過去も普通じゃないの。今更普通になんて戻れないし、戻さない」


 ナイフを投げ捨て、聞き分けのない子供に語り掛けるような優しい声色で諭される。

 姉は諭しながら僕のお腹へ腰を下ろした。

 僕の目は姉を映し続ける。

 

「僕たちで止めよう。もう繰り返さないようにしよう?」

「シオンの思ってる普通は普通じゃないんだよ。これが普通なの。お母さんが死んでも悲しくないでしょ?お父さんが死んだときはどうだった?メイドたちは騒がないでしょ?私はお母さんを殺しても何ともないの。何の感情も湧かないし、むしろ安堵してる。取られなくてよかったって。私たちに流れる血がどうやって受け継がれてきたのか気付けて良かったって。これが普通なの。シオンは賢いんだから理解できるでしょ?難しいことなんて何もないじゃない。ありのままの今が、普通なの」


 ……。


「普通に異常に拘るのは普通じゃない普通を普通だと信じたいからでしょ?目を逸らしたいだけなんでしょ?私言わなかったっけ。もう忘れちゃったかな。私を否定しないで。見損なわないで。失望しないで。捨てないで。諦めないで。無視しないで。逆らわないで。取り消さないで。認めて。好きでいて。愛して。愛させて。これが普通なの」

「違う!」

「違くないの。覚えて?私を否定しないで。見損なわないで。失望しないで。捨てないで。諦めないで。無視しないで。逆らわないで。取り消さないで。認めて。好きでいて。愛して。愛させて。これが普通なの」


 あぁぁ。


 ああああああ。


「ぁぁぁああああぁああああああぁぁあああああああ!あああああぁぁあああああああ!!!」

「涙は出る?哀しさは?虚しさは?喪失感は?寂しさは?」

「どうして何も感じない!どうして!」

「妻として教えてあげる。それが私たちに脈々と流れている血で、これからも後世に継がれていく血だからよ」

 

 例えそうだとしても。


「僕は屈しない!この血を否定する!」

「……可愛い。可愛過ぎてるじゃん。あはっ、今のシオンすごくいいよ。あはははっ、あははははははっ!好き!好き!恋が愛に変わる瞬間ってこんなにも気持ちいいんだね!シオン!」

「狂ってる」

「でも血は否定しても私は否定しないんだね。お利口さんはよしよししてあげようね」


 割っちゃいけない花瓶があったとして。

 それが棚から落ちたとして。

 この手が絶対に届かないとして。

 それでも花瓶に向かって走るのが普通なのだろうか。

 そうして無駄に体力を使って、あぁもっと早く走れればって後悔するのが普通なのだろうか。

 それとも諦めて見ているのが普通なのだろうか。

 そうしてあぁもっと早く気付ければって後悔するのが普通なのだろうか。


 普通ってなんなんだろう。

 結局後悔するのなら、何したって同じなら、何したっていいんだろうか。


「出ていく」

「逃げるの?」

「そうだよ」

「んふっ。それもいいかもね。抗ってみせてよ。流れる血を否定できるのか、それとも屈しちゃうのか。私はシオンを絶対に支配してみせる。あの女は失敗してお父さんを縛り付けておけなかったようだけど」

「っ、言われなくても」

「ねぇ、花瓶に入れた水って入れ替えないと澱んじゃうし、部屋の空気も同じく澱んじゃうんだよ」

「……何?急に」

「んふふっ。感情も同じなの。定期的に吐き出さないとね、熟れていくんだよ」


 姉が何を言いたいのか見当がつかない。

 眉間に皺が寄る。


「本当に可愛いね。逃げてもいいけど、吐き出す先のない感情は心の中で熟成されて重く濁って粘ついて、煮詰まって濃縮されてドロッドロになるの」

「脅し……?」

「存在が愛おしい。あなたの全てがほしい。だから頑張ってこの感情は一人で育てるね。会いたい気持ちを好きな気持ちを愛したい気持ちを我慢して閉じ込めて想って願って考えてキスして抱き締めて犯しながら。その方がきっと、一切の不純物ない純粋な感情になるから」


 もう無理だ。逃げよう。

 震える両膝を叩いて立ち上がる。

 姉は左の足首を掴んで脅迫を重ねた。

 

「絶対にこの感情を煮詰めて濃縮してドロッドロの愛にするから。無理やりにでも飲ませて溺れさせてあげる」


 それだけ言って左足は解放された。

 振り返らずに自室へ走り、血濡れの寝間着を着替えて必要最低限の荷物をまとめて家を出た。


 こんな時間じゃ宿も空いてない。

 12歳になるまであと1年弱。

 それまでこれまで通りの生活を繰り返して、ギルドに入って危険度の高い魔物狩って、好きな人を作って付き合って結婚して姉とは関係ない場所で普通に暮らす。

 これでいい。


 陰りひとつない空の輝きは、夜を明るく照らして闇を作らない。

 眠くなかった。今は何も考えたくない。

 魔物のいる森へ歩く。


 赤いオオカミが視界に入った。

 背負っていた荷物を放り、戦闘準備を整えて走る速度を上げる。


 こちらを睨みつけた後に残像を残して搔き消え、左右へ駆けるように飛んで翻弄しようとしていた。

 踏み込む力が強く、巻き上げられた一握りの土が段々と近づいてくる。

 空中にいる間は人間も魔物も踏ん張りがきかない。

 オオカミが飛んだタイミングで飛び込み、前足を切り飛ばそうとしたが爪で弾かれる。


 後ろへ意識を向けると、同じく赤いオオカミが2匹。

 足への警戒が高い以上、手間が増えるけど五感をまず潰す必要がある。

 赤いオオカミの狩りは短期決戦、集団で囲んで叩く、わかりやすく強い戦法。

 僕だって魔力を無駄にしたくない。

 こちらも短期決戦で応戦する。

 抑えていた魔力出力を引き上げた。


 手前にいる一体の更に奥でこちらを伺っているもう2匹も、きっとすぐに参戦してくる。

 オオカミ数分警戒を広げる。


 敵の基本戦法は木々を経由しての上下を使った飛び掛かり、地面すれすれで爪の薙ぎ払い、常に背中を取るように動き続けてのプレッシャー。


 足場にした木々を蹴り折らないよう着地の衝撃を意識する。

 木々を倒して別の魔物の意識を引きたくない。

 

 1匹ずつ孤立させるように上下左右へ動き、相手の戦法を模倣して感覚器官を切り飛ばす。

 首への突き刺しや目から剣を入れ脳を切り刻んでオオカミを減らしていく。


 残り1匹、辺りに耳や鼻が散乱していた。

 五体満足だった赤いオオカミの両足を断つ。

 動けない魔物に止めを刺し、魔石を取り出した。


 本当は毛皮も取りたいけれど、夜の魔物は昼の魔物と比べ危険度が高い。

 視認できていたオオカミ5体から最終的に14体まで増えたため、時間も結構かかってしまった。

 剣の切れ味も心もとなく、鍛冶屋に手入れしてもらう必要があった。


 荷物を背負いなおし、急いで離れようとしたが魔物に捕捉される。

 もう一度剣を抜いた。


 過度に集中してしまっていたようで、気付けば身体が限界を迎えていた。

 自分が自分じゃないみたいだった。

 途中、頭が真っ白になったのを覚えている。

 覚えているのはそれだけで、他のことは何も覚えていない。

 

 疲労から剣を持つ手に力が入らない。

 物を考えられないほどの疲れが心地よかった。

 震える腕を抑えながら、両腕で鞘へ戻した。

 

 転がり込むように何とか安全圏に逃げ込む。

 明け方の冷たい風が傷に沁みたため、切り株を背にマントを羽織って膝を抱えた。

 

 ようやく動くようになってきた手で握ったり開いたりを繰り返していると馬車が目の前で止まる。

 呼びかけられたため声の主を見上げるが、その顔に見覚えはない。

 立ち上がろうと動かした腕から全身へ亀裂が入ったような痛みが走り、諦めてそのまま座っていた。


 暗い赤色の双眸が左右それぞれで僕の瞳を見つめる。

 その状態のまま短くない時間が経った。

 じーっと覗き込んでくる瞳に、僕がどういう人間かを読み取ろうしているような不快感が足元から這い上がってくる。

 このまま目を合わせ続けているのはいけない気がするけど、今からは逸らしづらい。

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