3. 希死念慮

 寝間着に着替え、姉の部屋の前に立つ。

 ノックしようと手を持ち上げると、扉の向こうから入ってと声で呼び寄せられる。

 行き場の失った手を下げ、ドアノブを回した。


「えっちぃね。シオン」


 目頭がじわっと滲む。

 面と向かってこんなことを言ってくるような人ではなかった。

 僕はどうすればいい。

 どうすれば元の姉に戻ってくれる。


「来て?私もう眠いの」

「……わかりました」


 頭の隅に眠いなら添い寝してほしいだけなのかなという考えが芽生える。

 大部分を占めているものは無視した。


 踏み出そうとして、どうやって歩くのかわからないことに気付く。

 歩くのが怖い。


「どーしたのー?」


 鼻にかかったような甘い声。

 あわよくばそのまま寝てくれることを祈った。


 願いは通じず、ゆったりとベッドから足を下ろし、こうやって歩くんだよと教えるようにこちらへ向かってくる。

 姉は右手で僕の耳にかかった髪をさらさらと撫でながら後ろの扉に手をついて口を開く。

 

「キスしよ」


 自分の呼吸と心臓の音以外聞こえない。

 姉が何かを言った直後、体を擦り付けるように勢いよく身を寄せてくる。

 受け止められず、後頭部を扉にぶつけた。


「ぃった、んぶ」


 思わず漏れた声すら食べるようにむしゃぶりついて舌が暴れまわる。

 後ずさろうとして、すぐに踵がぶつかった。

 

 えずきながら姉が離れ、一拍置いて振り上げられた手が僕の頬を張った。

 体が浮き、タンスの角に肩を強かに打ち付ける。

 衝撃に音を立ててタンスの位置がズレた。

 肘を床について身を起こしながら姉を見上げると、唾吐しながらこちらを睨んでいた。


「シオン、歯磨きしてきて。私言わなかったっけ。そのこびり付いた女の体臭と体液洗い流してきてって」

 

 何度か手を付きなおして徐々に肩の位置をあげながら立ち上がる。


「謝って」

「ごめんなさい」


 姉の部屋を出、洗面所へ向かった。

 少し力が入るだけで痛みの走る右手を動かしたくない。

 左手で歯を磨いた。


 口を濯ぎ、ハンカチで雫を拭ってから肺の中の空気を吐き出した。

 一息つく。

 

 何のために生きているんだっけ。

 ふとそう思った。

 

 僕が部屋へ近づくと足音でわかるのか入るよう促される。

 扉前で立ち尽くしていると、ガッと音を立てて開いた隙間に引きずり込まれた。

 

 荒い呼吸が部屋を埋めていく。

 ベッドへ押し倒され、伸し掛かられた。

 止まってほしいと姉へ伝えるように見つめる。


「大丈夫だよ。わかってるからぁあっはっはっは」

 

 絶望から口が半開きになる。


「そうそう。そのまま舌を出すんだよ」

 

 呆気に取られていると鼻先がぶつけられる。

 姉の切り揃えられた髪が頬を擽った。

 

 背に手を通され、抱き締められる。

 強まっていく抱擁に肺が悲鳴を上げる。


「あっ、がっ……」


 即座に放され、突き出ていた舌を音を立てて吸われる。


「ん、おいし」


 口呼吸を支配されているため鼻で息をする。

 ぞりぞりと刮ぎあげるように僕の舌を吸いながら顔を上下に動かされ、舌の根が引っこ抜かれようとする痛みを訴える。

 抗議の言葉はくぐもった声にしかならなかった。


 体感で半刻ほど過ぎた頃、ちゅぽんと音を立てて漸く解放された。

 舌全体がじんじんと痛い。


「それで?何をされたの?何をしたの?お姉ちゃんが上書きしてあげる」


 それから僕はされたこと、したことを吐露した。


「そうなんだ。もっと早く気づいてもっと早く聞き出せばよかった。この熱いのをね、どうやって発散すればいいかわかんなかったんだ。寝てるシオンをぎゅってしても、ちゅってしてももっと熱くなるだけで辛くなるだけで困ってたんだ。口の中をぺろぺろするのはね、歯磨きするときに上あごを間違えて擦っちゃったとき擽ったくってね、それで思いついたの。シオンで試してみたらすっごい興奮した」


 寝てる内に僕がそんなことされていたのは知らなかった。

 僕の腿を両膝で挟みながらカクカクと腰を押し付けて嬉しそうに語る姉は本当に幸せそうだった。


「お゛っ、これ気持ちいい。ずるい、こんなこと知らなかった。ずるい、もっと早く、自分で思いつけばもっと早くできたのに。先にできたのに」


 天井を見上げ、僕を見ていない。

 僕じゃなくていい。

 でも僕以外でするのは想像したくなかった。

 これ以上何も考えたくない。

 思考を放棄した。


 それほど時間は経っていないように思う。

 目を開けたまま、耳を塞がないまま、何も見ず何も聞かず何も考えていなかったからわからない。

 

「っっ、……くっ、っ。あっ……」


 太ももが痛いくらい締め付けられる。

 姉は僕の腿を挟んだまま震える身を自身で抱き留め固まった。


「っはぁ、はぁっ、あぁーーー気持ちよかった。今のなんなんだろ。もう一回したいけど、疲れた。疲れたよぉー、シオン」


 腰の位置を僕の膝下まで下げ、こちらへ倒れこんでくる姉を受け止める。


「幸せ。ずっとこうしたかった。ずっとこうしてたい。ごめんね、これまで辛かったよね。頑張ってたよね」


 視界がじんわりと白く染まり、ぼやける。

 瞳が涙で満たされていく。


「お父さん死んじゃって、みんなおかしくなっちゃって、どうすればいいかわかんなくなっちゃったの。こんなダメなお姉ちゃんでごめんね。お姉ちゃん失格だよね、ごめんね」


 おかしくなんてなってなかったのかもしれない。

 姉もきっとどうにかしようとしてくれていたんだ。

 心が満たされていく。そんなことないと言いたかった。

 僕もおかしくなりそうだったときがあったから。

 言いたいのに、口から漏れるのは短く吐かれる息と嗚咽だけだった。

 僕、頑張ってきたんだ。一生懸命、父上の代わりになれるように、僕なりにずっと、頑張って。

 感情がぐちゃぐちゃだった。

 

 頭を撫でられる。

 

 いつ振りだろう。

 一人で寝るようになってから寝かしつけられることもなくなった。

 初めの内は褒められていた勉強と剣の稽古も、やっていて当たり前になった。

 褒められるために寝る時間を削って隠れて勉強した。

 休憩を減らして訓練の時間にあてた。

 褒められなかった。


 シオンは本当に剣の稽古が好きだなぁと笑い、鋼鉄の剣を誕生日に贈られた。

 剣の稽古が好きなんじゃない。

 褒めてほしいだけだった。

 うまくなったなって。訓練頑張って偉いぞって。

 

 その大きな手で、昔してくれたみたいにガシガシ撫でてほしかっただけなのに。

 ぐちゃぐちゃになった髪の隙間から見る父上が好きだった。

 乱れた髪型を手櫛で直すのが好きだった。

 そうして文句垂れている僕を悪かったなんて口だけで謝って、胸を張って笑ってる父上が、大好き、だったんだ。


 意識が奥底に落ちていく。

 姉の寝息が聞こえる。

 釣られるように僕の息も深く、ゆっくりになっていった。


 ――――――――

 ――――

 ――


 耳がノックの音を拾う。


「シオリ様。朝食のご用意が済んでおります。では、失礼いたします」


 眠っていたのは数刻らしかった。

 すぅすぅと横で丸まっている姉を見る。

 寝る前に撫でられて思い出した。

 どうしてこうなっているかは考えない。

 きっと姉も誰かに甘えたいはずで、撫でられたいはずで、褒められたいはずで。

 父上の代わりになるのなら、そこからまずやっていかないとダメなんだ。


 姉に近い右手を持ち上げようとしてピシリと痛みが走る感覚に顔を歪める。

 震える左手を姉の頭に置き、何房か跳ねている寝ぐせを撫でつけた。


「ん、んん」


 口角を上げ顔をベッドにすりすりと擦り付ける姉を少し可愛いと感じた。

 相反する感情は押し殺した。


 起こした方がいいに決まってる。

 今の時期は凍えるくらい寒くはないけど、空気は澄んでいて冷たい。

 あんな時間まで何も食べずに玄関で待っていたとしたら、お腹は空いていて当たり前で、それ以上に眠くて当たり前だった。

 そしてそんなことをさせてしまったことを後悔した。


 空腹と睡眠時間の欠如、姉にとってどちらが辛いのか僕は知らない。


「さすがに睡眠時間の方が大事なのかな」


 僕の口から出たとは思えないほど優しい声にびっくりした。

 今までは低い刺々しい声が勝手に喉から出ていたのに。


 返答はない。

 窓の外で小鳥が羽ばたいていた。

 そろそろ起きろと急かすように鳴いている。


 このままずっと眠っていてほしくて、姉が起きないように耳を塞いでしまいたかった。

 きっと起きてしまうからできはしないけれど。

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