2. 明けない夜の始まり

 予定より帰るのが遅れ閉門ギリギリだったため、すでに門は閉められていて門近くは人通りがない。

 脇道から家に帰ろうとしていたため尚更だった。

 魔物からは全速力で逃げてきたため僕の体温は上がっている。

 手が冷たいことから外に長く居たらしく、待ち伏せしてたんだとしたら離してくれなさそうだった。

 

「もう力入れてないだから痛くないでしょ?なんで何も言わないの?ね、喋ってよ。声聴きたい。お金渡したら喋ってくれる?い、いくら欲しいの?なんでもお金お金っていうのは良くないんじゃないかなぁ。ね、悪い子にはお仕置きしなきゃだよね?ちょ、ちょっとこっち来てよ」

「あの」

「何!?おっきい声出ちゃった。ごめんね、どうしたの?」


 唇に耳が押し付けられる。

 

「居るだけでいいんですよね」

「そうだけど。やるの?やらないわけないよね?少しだけ私の家で話そっか。そうしよ」

「今日は家に帰してください」


 胸に鼻が押し付けられる。

 

「……んー、…………………………んんん。お腹空いたんだったらウチで食べなよ。休みたいんだったら眠たいんだったらウチで寝なよ。シャワー浴びたいならウチで浴びなよ」

「着替えたいんです」

「服装なんて気にしないで大丈夫。あーでもシャワー浴びた後シオンくんが着られる服ないや。いや、服なくてよくない?は、裸でいいじゃん。乾くまで。ね、乾くまでだから」

「嫌です」

「なんで……なんでなんで言う事聞かないの!?聞けないの!?ね、焦らせないでくれる!?酒場で色んな女から私以外の女から見られてるの自覚してるんでしょ?だからそうやって上から目線でぇ!いい加減にしてよ。何でもかんでも嫌です嫌ですって、お金稼ぐの大変だって知ってるでしょ!?お金あげるって言ってるじゃん!」


 鼻を胸に押し付けたまま叫んでいる。

 通りすがりの男に姉弟喧嘩なら家でやれと怒られた。

 もうなんか、めんどくさい。

 なんでこんなことになるんだよ。

 

 口を押えられ、男に謝ってクトに抱え上げられ、この人の家まで連れて行かれる。

 疲れ切った体では抜け出すことができなかった。

 ただこの人も魔力で自己強化できるらしく、例え全快でも無理だった可能性は否めない。


 この人の家についてからは膝上で抱き締められ、首筋の匂いをひたすら嗅がれた。

 顔が離れる際、首筋に舌が這いずり回りべとべとにされた。


 その日はそのまま硬貨を握らされ、解放された。

 ハンカチで首を拭う。

 居るだけでいいって言ってたのに。

 変態なのは様子がおかしくなってから知っていたため、何かさせられるよりかはマシと思うことにした。

 興奮すると、ね、と言うのが癖らしく嫌いな口癖になった。


 魔物を狩ったりされるがままになって死んだように生きてると、いつの間にかあの男が消えて別の男に代わっていた。

 

 その男は適正よりも少し安いくらいの、前と比べると随分と高値で魔物を買い取ってくれている。

 有難かったけど、定期的にリセットしないといけないのか否かが心配だった。

 そいつとクトは特に関わっておらず、消えた男の代わりに僕の傍をうろうろするようになった。

 買値が上がったことで無理に危険度の高い魔物を狩らなくてよくなった。

 そしてクトからお金をもらう必要もなくなった。

 

 けれどそんなことお構いなしにこいつの家へ連れ込まれ、起きるまで傍にいろと言われたり寝転がってる僕に足の付け根を押し当てて前後に揺れたりと意味の分からないことをされていた。


 絡みついてくるクトを剝がして帰宅する。

 冷たい空気が身を撫でる。

 背負った荷物から硬貨袋を出し、少しだけ暖かい曙光を背中に玄関の扉を開けた。

 

「ただいま」

「おかえり、シオン。待ちくたびれたよ」

「……姉様」


 いつから待ってたのだろう。

 闇に溶けるような黒い服を着た姉が立っていた。

 僕に目線は合っている。でも焦点が僕の後ろだった。


 目線を合わせながら後ろ手で音が出ないようにゆっくりと扉を閉める。

 徐々に焦点が僕に合っていく。

 目が合った瞬間、冷水をかけられたように身が硬直した。

 まるで鏡を見ているようだった。

 引き籠って外には一切出なかった姉の目が、いつの間にか僕と同じように死んでいた。


「……お久しぶりです」

「え?あぁ、久しぶりになるのかな。前からたまに朝帰りしてたけどさ、最近のシオン臭いんだよ」

「ごめんなさい。今度から身嗜みを整えてから帰ります」

「あはっ。初心だなぁシオンは。初心だと、思ってたんだけどなぁ」

 

 ぎりぎりと何かを握る音。

 その後、みしみしと軋む音。

 何を握っているのか確認したかったけれど、姉の視線に絡みつかれて解けない。

 視線を逸らせない。

 僕が何をどこでなぜしてるのかを大方察してしまったのだと思う。

 魔物狩り代行の他に、何をしてお金を稼いでいるか。

 できれば知られたくなかった。


「シャワー浴びてそのこびり付いた女の体臭と体液洗い流し終わったらさ、お姉ちゃんの部屋来てね。したこととされたこと、全部してあげるしさせてあげる」


 足が砕けそうになる。

 他人でもあんなに気持ち悪かったのに。

 姉は家族だ。

 なぜそんなことをするのか理解できないのが怖い。

 誤魔化したら酷い目に合うよと言っている。

 口では言っていないけれど、言っている。


 姉のことは家族として愛していた。

 でも、光を吸収して暗くなっている姉の目が怖い。

 初めて見る目が、何をするかわからない感情の読めないその目が。

 

 姉の目はいつからそんな目になってしまっていたんだろう。

 僕の場合は自棄と憎しみだった。

 怒りは魔物へぶつけていた。

 姉は外に出ない。

 靴すら捨てて自室で読書と自習に明け暮れている。

 溜まっていくストレスをどうやって発散していたんだろう。

 

 この家で、狂った母上のいる家で。

 負の感情は伝染する。

 誰かが不機嫌なら周りの人も不機嫌になる。

 だから心無いことを言われても、顔が歪みそうなとき外では微笑んでいた。

 クトには無表情顔と言われたため、できてないのかもしれないけど。

 姉も母上に当てられ、狂ってしまったのかもしれない。

 

「い、いやです……」

「え?嫌です?拒否するの?私を拒むの?シオン。一人にしないでよ。たった二人の姉弟じゃない。シオンが拒んだら一人になるのは私とシオンなのに、なんでそんなことができるの?」

 

 お金を稼ぐきっかけが母上だったとしても、母上と姉には不自由なく生活してほしかった。

 だからお金だけはって、思って。

 でも。


 震える姉の右手が上げられ、僕の視界に入ってくる。

 曙光を反射する先の細い銀の光だった。

 姉は僕が姉を好いていることを自覚している。

 だからその行為がどれだけ僕に効果があるかも知っている。

 

 姉は右手で持っていたナイフを自分の首に当てた。

 先端が沈み、一筋の血が襟を徐々に染めていく。

 広がっていく赤の分だけ、僕の心を焦りが染めていく。

 姉は正気じゃなくなっていた。

 最近は会うことすらなかったため、いつからこんなことになっていたのかを僕は知らない。

 

「シオン、やめてほしい?」

「やめてください!」

 

 声を落として叫ぶ。本当は全力で叫びたかった。

 にっこりと笑いながら姉はそのままナイフで顔の輪郭を切り裂いた。


「姉様!」


 弾かれた様に駆け寄り、クトから押し付けられた高級傷薬を塗った。

 痕に残ってしまうような傷も綺麗に治せると言っていた。

 赤く濡れた頬下をハンカチで拭う。

 傷はなかった。

 せり上がっていた空気を吐き出す。


 顎が重過ぎて口が開かない。

 無理やり引き上げられた心拍数と整えられない不規則な荒い呼吸に、僕の体が姉の支配下に置かれてると錯覚する。

 そうして姉の要望通りのことを口にするしかないことに絶望した。

 何もせずこちらを見下ろしていた姉を見、震える口を開く。


「……わかりました。このあと姉様の部屋へ伺います」

「嬉しい。もう拒まないでね。次はもっと酷いことになるから」


 あぁ、姉も狂ってしまったんだ。

 熱いシャワーを頭から被る。

 そしてきっとその原因は僕だ。

 責任は取らないといけなかった。

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