第3話

『3』


梅雨は明けて、夏が過ぎて行った。8月は暑い日々が続いたけれど、雨の日が多くてとても蒸し暑く、気だるい時間ばかりが引きずるように重ねられて行った。9月に入ってまもなく、暑さが和らぐのが感じられたけれど、まるで引き抜かれたコードを見るみたいに、真奈美からの連絡は無かった。その頃僕はもうほとんど彼女に電話やメールをしなくなっていた。少し前から僕は、彼女がいなくなった事をなんとなく受け入れている自分に気付き出していた。おそらく確信的に近く、僕はその理由を解っていたからだと思う。彼女は一人でその道を歩いて、そして、そこに行くしかなかったのだ。僕はそこに向かう彼女の目に映るひとつの風景だった。過ぎて行く彼女の時間の中に、僕は僕の手をどれ程伸ばしてみても、その影にさえ触れる事はできなかったのかも知れない。僕は夏休みの半分を故郷に帰り、昔実家のあった近くの旅館で過ごした。僕が小さな頃からある旅館で、普段は静閑としていたけれど、夏の間だけは少し賑わうような、そんな古い旅館だった。そのすぐ近くに流れている川に、僕は夕方になるといつも冷えたウイスキーかワインを小さな保冷ポットに入れて持って行った。そしてその川に架かる古い橋の傍に座って夕暮れが訪れるのを待った。橋を見上げるとその向こうに完璧なまでに群青に染まる富士山が、残夏の中でくっきりと浮かんでいるように見えた。その間に台風が2つ続けてやって来て、強い風が吹き、大雨を降らせて行った。川の水は増水し、濁流となってその古い橋を飲み込んだけれど、やがて荒天がおさまり水かさが減ると、その橋は古いままの姿を何食わぬ顔で現した。

僕は毎日MDを聞き、何冊かの本を読んで過ごした。いつも頭の何処か片隅に真奈美がいたのだけれど、彼女は黄色い傘の中にぼんやりと佇んでいるだけで、いつまでたっても僕の方を振り返えりはしなかった。そんな真奈美を連れたまま僕は、家族の眠る墓地へ行き、お墓参りを済ませた。僕は何回か墓地に行った。墓地のあちこちにはいろんな花が供えられていて、何処かの花畑を思わせた。誰もが水を打ち、傾きかけた塔婆を立て直していた。周りの雑草を取り去って花に水を注いで、所々から立ち上る白い煙が、時間の流れを立ち止まらせようとでもするかのように、揺れながら記憶の隙間に吸い込まれるように消えて行った。こうして訪れる人達の足音が、何処かにあるのかもしれない別の世界に届いているのだろうか。墓地は不思議なくらい静かだった。そこに眠っている妹の気配を、僕は感じる事ができなかったけれど、それはいつも記憶の中にあり続けていたから、僕は思い出だけをそこに届けた。夕方僕は保冷ポットいっぱいに赤ワインを入れて、古い橋の傍の土手に行った。まだ増水した痕跡が至るところに残っていて、薄汚れた紙くずやビニール袋やペットボトル、いろんな空き缶などが、岸辺の草むらや川底に昔の思い出の傷痕みたいに散らばっていた。冷たいワインが喉を通って胃の中に入っていった。それは体中のいろんな臓器に広がって行った。僕は直接ポットに口をつけて、一気に半分程飲んだ。夕暮れが近づいていた。草むらの茂みに挟まれて流れる広くない川面に夕暮れの陰が忍び寄っていて、その暗い陰が川底に深い記憶の闇を作っているようだった。まるでそれは僕にあの墓地の下の地面の中の世界を思わせた。もう夕闇が訪れていて、僕はそこに含まれている。あるいは僕を、そのまま何処へ連れ去ろうとしている。その時、赤ワインが半分残っている保冷ポットが、手から滑り落ちる。あっと言う間に土手の斜面を転がって行き、草むらの茂みの中に入ってしまう。僕の視界からポットは消える。僕はゆっくりと体を起こし、土手の端に移動する。そして両足を伸ばして斜面に添える。踵を土の中に差し込むようにして、両手で体を支えながら、慎重に、少しづつ下りて行く。ゆっくり。茂みの端に足が届く。僕は暗い茂みの中を身を屈めるようにして覗く。上から見ているよりその草むらの茂みは深く、より暗い闇を抱えて見える。その時、踵で支えていた土が崩れて、体はバランスを失い、そのまま茂みの中に転げ落ちてしまう。落ちて行く時、僕は落ちて行く事を感じてはいない。あるいは受け入れている。深い草の茂みが僕を受け止める。僕は目を閉じたまましばらく草いきれの中に包まれる。過去が棄て去ってしまった匂い。何処にも行けない匂い。僕は静かに呼吸する。肺一杯に深く深く僕はそれを受け入れる。意識が揺れているのを感じる。ワインのせいかもしれないと思う。赤いワインの色が目に映る。それは少しづつ透けるように色合いを変えて行く。明るい日射しが瞼を通すように。僕は誘われるように目を開ける。陽光が薄い絹のようなベールを通して白く淡い明るさを広げる世界がそこにある。地平線の向こうから白く輝く巨大な光の帯が幾筋も立ち昇っている。それが絹のベールに反映しているように見える。まるで白い太陽がその向こうに沈んでいるかのように。僕はゆっくり体を起こす。あちこちに痛みを感じる体を両手で支えながら、僕は顔を上げる。そこには記憶の何処かに埋もれていたような町並みがずっと遠くまで続いている。古い時代の写真を見ているように。その町を左右にはっきりと区切るように、中央に幅の狭い道がその先がみえなくなるまで延びいている。僕は何処か高い岡の上のようなところに立っているらしい。だが、ここはいったい何処なんだろう。僕は川辺利に落ちたポットを探そうとして、草むらの茂みの中に転げ込んだ。僕は足元の周辺に目をやるけれど、ポットは見当たらない。僕は僕の前に続く道の先を見渡してみるけれど、それらしい物は見えない。何かの拍子で、何処かの家の片隅に紛れ込んだのかも知れない。もしかしたら、まだこの道のずっと先まで転がって行ってしまったのかもしれない。僕は真っ直ぐに続いているその道を歩きだしている。どのくらい歩いただろう、10分か15分くらいだろうか。確かに僕はその道を歩いている。一歩一歩僕は前に進んでいる。だがいつまでたっても、そこに見えているはずの町並みが、一つ一つの建物が近づいては来ない。僕は更に10分、20分と歩き続けて見るけれどやっぱり町並みは同じようにそこに在り続けている。所々の窓に灯りが点いているけれど消える事は無くて、その他の窓に新しい明かりが灯る事も無い。遠くの煙突から煙が見えているけれど、それは静止したままで立ち上ぼる気配も無い。ふと僕は息苦しさを感じた。

それは最初から感じているように思う。そして歩けば歩く程息苦しさが増して行く。胸一杯に息を吸い込もうとするけれど、肺が膨らまない。思わず僕は数歩後戻りする。肺は塞いでいた栓が抜けたように少しずつ膨らみ始める。僕は大きく息をつく。たぶん、ここから先には、肺に入るはずの空気がない事を感じる。僕はここから先には行けない。そして僕はその先に、僕の落としたポットがあるのに気が付く。道の真ん中にまるで僕を待ってでもいるように見えている。でもその場所まで行って帰ってくるには、おそらく時間がかかり過ぎて僕の息は保たない。僕はそのポットをじっと眺めている。無意識に僕の手がゆっくりとそこにむけられようとする。その時、時間の流れのようなものが歪みながら一ヶ所に集まり始める。それはとても鈍い細かな光の集合体のように見える。やがてそれは微かに若い女の姿を呈示し出す。それが真奈美だと気付くのにそれ程時間は掛からない。大きめの襟の付いた白いティーシャツに真新しいスリムなブルージーンズと、僕達がいつも歩いていた時に履いていた少しくたびれ儲けたスニーカー。僕は思わず聞いてみる。黄色い傘はどうしたのかと。もういらないのよと真奈美は言う。この世界の何処からか、水の流れのような音が聞こえてくる。それは水の底に沈んだ昔の声になる。その声はやがて真奈美の言葉へと姿を移して行く。

「ここは、何処でもないところなのよ」

「僕はずっと待っていたんだよ」

「私は、私のいるべき場所にいるの」

「ここが、君のいるべき場所なんだね」

「でも、どうして連絡してくれなかったんだい」

「ずいぶん心配していたんだ」

「こうして会えたでしょ」

「私は、解っていたの」

「でも、あなたは何時までもここにはいられないのよ」

彼女はポットを拾い上げると、何かの隙間から差し出すように僕にポットを渡した。

「時間が無いの」

「私の言う事を聞いて」

「残っているワインを全部捨てるのよ」

「捨てたらポットだけは持っていて」

「はやく、はやくして」

僕は保冷ポットの口をはずして、真奈美の言う通りに残っていた赤ワインを全て流した。

「もう、会えないんだね」

「僕はもう一度、あの橋に行くよ」

でも、もうその時真奈美の姿は殆ど見えなくなっていた。まるで霞が消えて行くように。そしてその世界の古い写真のような景色が仄かに赤く染まりつつあるのを見た。それは僕が流した赤ワインの色を映し出していた。あらゆる場所から流れ出るワインの赤い筋が幾つもに分かれて、その世界の道を這い、家々を染めて、町を呑み込み、その世界の時間さえもより赤く染めて行った。やがてその赤い世界に深い沈黙が訪れ、漆黒の闇が覆って行った。その漆黒の闇はグラスの中で揺れているようだった。

騒がしい子供達の叫び声と、ドタドタと階段を掛け降りる足音に僕は目が覚めた。僕はしっかりと毛布を掛けて眠っていた。その毛布を頭から被って、僕は布団に顔を押し付けるようにして、大きく息をついた。額から目の奥にかけて萎みかけた風船のようなものが詰まっているようで、縮れたゴムの口から抜けて行く空気が頭の中でぶるぶると震えているみたいだった。僕はもう一度息をついてから毛布を剥いだ。体を反らせて窓の外を見ると、真っ青な空が、夏を切り取ったみたいに、窓に張り付いていた。部屋には軽い冷房かかかっていた。僕は起き上がって冷蔵庫から冷えた缶コーヒーを二本出した。僕は窓を少し開けて、外の空気を吸って、窓枠に腰を降ろしてコーヒーを飲んだ。二本目を飲み終えるころに頭の中のもったりとした感じが遠ざかって行くのがわかった。下の駐車場では子供達を乗せたワゴン車が何処かへ向けて走り去って行った。旅館の車だけが隅の方にポツンと取り残されたままあった。空はやっぱりまだ夏の空だった。山の向こうには巨大な白い雲の塊が幾重にも沸き立つように見えていた。僕は漠然と、東京に戻る事を考えていた。授業が始まるまでにはまだ少し日にちがあったけれど、少なくとも今はもうここは僕のいる場所ではないような気がした。僕は缶コーヒーを飲んでしまうと、台所に行って空き缶入れに捨てた。その中

に幾つかの空き缶に混じって赤ワインの空瓶があった。それを見た時僕は昨日の夕方、保冷ポットに赤ワインを入れてあの古い橋の傍の土手に行って半分程飲んだのを思い出した。そして僕は部屋へ帰って来て眠ってしまったらしい。でも、どう帰って来たのか思いだせなかった。何かの夢を見ていたように感じるけれど、漠然としていてそれも思い出せない。僕はふと部屋の中に保冷ポットが見当たらない事に気付いた。その保冷ポットは蒲団の上にまるめられた毛布の下にあった。僕はポットを抱いたまま酔って眠ってしまったらしい。僕はポットを冷蔵庫に入れようとして、それを持った時、中には何も入っていない事に気が付いた。僕には全部飲んでしまった記憶がなかった。というより、半分ほどしか飲まなかったはずだった。酔ってこぼしてしまったのかもしれないとも思った。そしてそう思ったとき、記憶の中に、記憶に無い空白がある事に、僕は気が付いたように感じた。グラスの中で揺れるワインの色が思い出されて、それは意識の中にこぼれて、ゆっくりと滲んで行った。僕はシャワーを浴びて、朝食をすませると、東京に戻るための支度をした。その間に宿泊代金の精算をしてもらい、駅までのタクシーを手配してもらった。旅館の外でタクシーを待っている間、僕はずっとその古い橋を見ていた。憑かれたように僕は見続けていた。雑草の生い茂る草むらの匂いがしたようだった。でも、やがてタクシーが来て、僕は東京に帰った。帰りの電車の中で僕は妹の夢を見た。夢の中で妹はあどけなく微笑んでいた。僕はそのままで、電車は東京駅に着いた。

僕は正午前の駅ビルの地下街を歩いていた。決して途切れることのない様々な雑音が、渇ききった空洞の中を強風に吹き飛ばされるように見境も無く転がっていた。大勢の人達が僕とすれ違い、そして僕を追い越して行った。僕はその中の誰も知らなかったし、誰にも知られてはいなかった。もしその向こう側に、何かしらの物が置かれたりしていなければ解らない程透明に磨かれたウインドーガラスが、こことは違う何処かの場所を何気なく気付かせるようにずっと続いていた。

僕は地下街にある駅の改札口の横の自販機で大学のある駅までの切符を買った。そこから僕のアパートのある駅までは定期券があるからだ。改札を入ると、電車の発車時間が迫っていた。僕はエスカレーターの右側を駆け上って、電車のドアが閉まる寸前に飛び乗る事ができた。ドアが閉まって電車が動き出すと、僕は電車の揺れをしっかりと両方の足の裏で感じる事ができた。その実感はとても久し振りのような気がした。僕は、大きく胸一杯に空気を吸い込んだ。そのまま息を止めて、僕はその苦しさの中で目をつぶってみた。心臓の時間を刻む鼓動が体中を押し広げるように打ち続いている。全部の血液が体中のあらゆる方向へ流れ、その行き場を失った血液が、やがてひとつの毛穴から滲みだして、顔を伝い、体を伝って足元に落ちて行く。その頃には全ての堰が切れたように、あらゆる場所に血液は溢れ広がって行く。そんな感覚が僕を包み込むけれど、不思議に僕の気持ちは落ち着いていて、まるで太いロープに繋がれた舟のように、ただその揺れに任せていれば良かった。僕の周りは赤く揺れていた。それは僕の遠い記憶の何かを呼び覚ますようだった。深い時間の底から湧きあがって来た僅かな感情が一滴の涙となって、頬を伝って行った。僕はあの橋のある駅に降りた。そしてその橋の上にいた。そこから僕は歩き出す。

夏の名残りの日差しが燃えるように9月の午後を映して、そのビルを囲み、町を囲んで、その中に記憶をそっと閉じ込める。僕はその記憶を辿るように道を歩いて行く。そのあちこちには、誰かの残したかも知れない色や匂いがあるのかも知れない。指先に触れる風の肌が僅かに痺れるように感じる。もう僕は、ある一軒の家の前を通り過ぎようとしている。そして2階のベランダのある部屋の窓に目を移す。間もなく僕はその家の前を過ぎて行く。見知らぬ名前の表札が目を霞める。ポケットの隅にあった百円玉で、近くにあった自販機のコーヒーを買う。冷たいコーヒーだ。そしてあの橋で、鶺鴒の姿を見なかったことを思い出す。



                        

     …………僕たちはミナ、孤独の中で呼吸をしている。

        どんな呼吸であるにせよ、そうしなければ

        生きられない。



「完結済み」

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アールグレイの雨が降り、白い太陽が沈む日 カッコー @nemurukame

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