第2話

『2』


土曜日の朝、目が覚めた時にはもう雨は降っていた。窓から見下ろすアスファルトの道路は薄く雨水が溜まったようになっていて、空を覆う厚い灰色の雲を映しながら鈍く光っていた。時々通り過ぎて行く車が重そうにその雨水を撒き散らしながら引きずって行った。僕は時間を確かめてからインスタント・コーヒーを入れた。冷凍庫からオレンジマーマレードのコッペパンを出してレンジに入れて、その間に熟れたトマトを噛った。コーヒーをもう一杯飲んでから、まだ待ち合わせの時間には随分早かったけれど、僕は傘を持って雨の中に出た。そしてゆっくりと傘を開いた。雨が待っていたように傘を打って、僕は自分が雨音に覆われているのを感じていた。駅までの道は雨にも関わらず行き交う人が多くて、晴れた日と変わらないように思えた。傘の分だけ道が狭くなって体が左右に動いた。プラットホームにはまだ朝のラッシュの余韻が見受けられて、それを避けて僕はホームの後ろの方へ歩いて行った。誰もが濡れた傘を下げていた。下げられた傘の先端から雨水の雫が落ちて、そのひとつひとつが何時の間にか寄り添い合って足元にいくつもの大きな影をつくっていた。上りの電車が来るのが見えた。僕は電車がスピードを落としながらブラットホームに入って来るのを見ていた。僕は駅の時計を見て、それから電車を見て、電車はさらにスピードを落としながら僕の前を通り過ぎて行ったその時、何両目かのドアガラスの向こう側に真奈美の姿を見つけた。ドアガラスは雨粒で一杯だったけれど、それは確かに真奈美だった。そしてその真奈美は男の肩に寄り添うように立っていた。黄色いビニール傘を持ちながらその顔は愉しそうに微笑んでいるようだった。僕は最後尾の車両に乗ったから、真奈美のいた車両とは離れていた。僕は何も考えなかった。

今までも何度か男と一緒にいる真奈美を見ていたし、僕はまだ彼女についてほとんど何も知らなかった。僕は学校のある駅で降りた。

学生課でアルバイトの募集を見るつもりだった。土曜日と日曜日が入っている今のアルバイトを平日のアルバイトにしたかったのだ。真奈美がどの駅で降りたのか解らなかったけれど、そのブラットホームに真奈美の姿はなかった。雨はまだ降り続いていた。学生街の歩道は以外に空いていて、四方に脚を延ばしている歩道橋も、無意味に大きく居座っている校舎のビルも、雨の中で沈んでいた。何処もが押し殺したように沈んでいた。学生課に人影は無くて、掲示板の横の窓ガラスに幾つかのバイト先の紹介状が貼り付けてあった。僕はその内の一つをメモ用紙に写し取ってから校舎を出た。ふと真奈美は今日の約束を忘れてるんじゃないかと言う思いが頭の中をよぎったけれど、僕はそれ以上考えるのをやめた。行くあてもなく僕は古書街の方へ歩き出してた。幾つもの古本屋が重なり合うように立ち並んでいて、何処か黴臭い陰湿な色を浮かべながら違う世界を創っていて、澱んだ重い空気が横たわっていた。それはまるで死の世界のようだった。この世界の中で僕は一人ぼっちだった。妹はもういなかった。彼女の笑顔を見る事も、彼女の息遣いを感じる事も永遠に失われてしまった。もう決まってしまった事だった。

「お兄ちゃん、私は何処にも行けない。どうしてみんな、そんな遠くにいるの」

ある日、彼女はそう言って涙を浮かべた。あの時僕はどう答えられたのだろう。そして何故僕は気付かなかったのだろう。

「誰かが私に囁きかけて来るの。もう嫌だって言うのに。聞きたくなんか無いのに」

僕は何もしてやれなかった。その手を握ってやる事も、震える肩を抱きしめてやる事も。風が彼女の髪を過ぎて行く。ゆっくりと、揺らしながら、とてもやわらかく、まるで記憶が戸惑うように。

「みんな私から離れて行くの。お兄ちゃん、私の傍にいて、いつも傍にいて」

僕はまだ覚えている。彼女の髪の匂いも、悲しい程澄んだ瞳の奥の時間も。僕たちは気付かぬうちに、ゆがめられた時間の中に取り込まれてしまい、迷路のような深淵の淵をさ迷っていた。強い風が僕たちの行方を阻むように吹き付けていたけれど、僕はその風に握りしめていた妹の手を離してしまったのかもしれない。彼女はそこに広がる深い闇の中に迷い込み、その闇が映し出す自分の姿を見てしまった。彼女は彼女の意識の果てに広がる荒涼とした死の世界の匂いが、体中に浸み渡るのを感じていたのだ。そして僕は、彼女の傍にいてやれなかった。

僕はどのくらいこの古書街を歩いていたのだろう。雨はまだ降り続いていたけれど、その雨はとても静かに降りていた。あの日から、僕の時間は動いていないようだった。止まってしまったみたいだった。待ち合わせた時間にはまだ1時間程あったけれど、僕は約束した喫茶店へ向かった。ほんとに僕は随分歩いていたらしい。ズボンの裾から膝のあたりまで濡れていたし、スニーカーもすっかり湿気ていた。僕は静かな雨の中を水溜まりを避けながら歩いた。店のスタンドの明かりが、灰白色の風景の中で僅かに燈っていた。入り口を開けると小さな鈴の音が鳴って、ウエイトレスの声が聞こえた。ボップスが小さく流れていて、数人の客が見えた。僕は傘を傘立てに入れて中に入って空いている席を探していた時、窓側の奥の席に真奈美を見つけた。真奈美も僕を見ていたようだった。混じり気のない笑顔が随分前からそこに在り続けていたように、その席の辺りの空気に馴染んでいた。僕も自然に笑顔を返しているのに気付きながら真奈美の方へ近付いて行った。僕は真奈美の方へ近付きながら、何かが記憶の中に取り残されているような思いを感じていた。でもそれが何なのか思い出せないまま彼女の笑顔の中に入り込んで行った。6月の午後のアールグレーの香りがまだそのテーブルのまわりに残っていて、彼女の柔らかな髪の隙間に漂いながら揺れているようだった。

僕はやって来たウエイトレスにコーヒーを注文した。彼女は薄い白色のティーシャツの上にピンクのカーディガンをはおって、ほとんど色の抜けたブルージィーンズをはいていた。ピンクのカーディガンがとても似合っていた。僕はふと朝の電車の中で見た彼女の姿を思い出して見たけれど、彼女がどんな洋服を着ていたのか思い出せなかった。ただの見間違いだったのかもしれないし、あるいはそうだったのかもしれない。

「早く着いちゃったのよ。お掃除して、お部屋かたずけて、洗濯までしたんだけど、時間余っちゃって出て来た」

「これ2杯目なのよ」

「紅茶ばっかり。家でも飲んできたの」

「コーヒー、何にもいれないんだ。ブラックってやつね」

「ねえ、ここ出て、これから歩きに行かない?」

「雨の中、歩くの好きなの。もし匡君が嫌じゃなかったらだけど」

「あなたの住んでる街から私の家のある街まで行って、またあなたの街まで戻って来るの」

「ほら、タオル2枚持って来た」

結局、彼女は初めからそう決めていたようだった。

僕はさっきまで随分歩いていて、膝から下が濡れていたけれど、そんなに悪くない考えに思えた。レシートには確かに紅茶が2杯分付いていた。僕はレジで千円札を出した。そしてお釣りの100円玉をボケットにいれた。傘立てから彼女は黄色いビニール傘を取って店のドアを開けた。僕は彼女の後について店を出た。灰色の雨雲から降りる細かい雨粒の中に、黄色いビニール傘を差して、彼女が立っていた。

そうして僕たちは初めてのデートをして、そんなふうにして僕たちは普通に付き合い出していった。僕たちはゆっくりとお互いの事を語り合い、陽が傾き、その影がやがて辺りを覆うように、そっと孤独を触れ合わせた。でもその日々に、どれ程求め合い、幸福に溢れていても、孤独は霧の中の窪みのようにそこにあり続けていた。

その橋はお互いの住む町の隣の町にあった。丁度、中間地点と言う事になる。薄汚れたビルの後ろ側の脇道に入った陰に、忘れられたようにあった。ある日彼女が見つけて、僕たちはほとんどその橋で待ち合わせをした。ある時僕はどうしてこの橋を選んだのか真奈美に聞いてみたことがあった。ある人をつけて来たの。そしたらこの辺りで見失ったのと彼女は言った。僕にはその意味が直ぐ解った。僕は真奈美の目を見た。彼女は少しだけ微笑んでみせた。

橋の周りを二羽の鶺鴒が飛び交っていた。二羽は決して遠く離れる事はなくて、何時も羽が触れ合う間隔を保ち合っていた。僕が先にその橋に着いて彼女を待つ間、僕はずっとその鶺鴒を見ていた。たぶんそんな時、彼女もそうしていたと思う。でも鶺鴒について僕たちは何も話さなかった。僕たちが触れ合う時間、周りの全ては止まっていた。僕は妹の死さえも忘れている事に気が合つく事があった。僕たちはよく回り道で夕食を食べ、夕食が終わるとたまにバーに寄ってウイスキーかワインを飲んだ。二人共それなりに飲めるほうだったけれど、一杯を時間をかけて飲んだりした。

「きっと、あなたの方がましなのよ」

手の付けられない何杯目のワインを彼女は見ていた。薄暗いバーの中で、ワインはほとんど黒く見えていたけれど、ほのかなカウンターの明かりがワインの表面にとけて、そこだけが赤く透けていた。何処までも深く沈んで行くような色に吸い込まれるように。

「独りの方がいいのよ」

静かに、まるで僕たちの時間を惜しむようにジャズが流れていて、彼女は少し酔っているように見えた。

「ごめんなさい。こんな事言うつもりなかったのに」

でも僕はもう飲むななんて彼女に言えなかった。

「ねえ、今日はあの家に帰りたくないの」

「あそこには誰もいないの。何も無いのよ」

その日、真奈美は僕のアパートに泊まった。そしてそれが、彼女が僕の部屋に泊まった最後の日だった。

次の日、彼女は学校に姿を見せなかった。僕は昼の講義が終わると彼女にメールを送った。返事はすぐに帰ってきた。微熱があって、体がだるいから、今日は休んで寝ていると言う事だった。僕はすぐに電話をかけてみた。電話の彼女の声は小さくて、弱々しかった。僕は会に行きたかったけれど、彼女は風邪みたいだし、うつしたくないし、たぶん明日になれば大丈夫だと思うと言った。

「ありがとう」

彼女はそう言うと電話を切った。その電話の切れる感じが心の中に

何か不透明なざらざらとした異物のような小さな塊を残して行った。それは靴に入った小石のように僕を立ち止まらせた。

真奈美はおそらくあの家にひとりでいるのだろう。彼女が求めているものはすでに失われてしまっているのかもしれない。かつて僕がそうだったように、その時が全てのものを押し流して行く。何もかもを、辿り着けぬところまで。そしてそこには意識の果てに映し出される闇の世界が静かに横たわっている。僕は午後の講義には出ずに、いつも彼女と待ち合わせている僕達の住む町の中間の町にあるあの橋に行くために電車に乗った。午後の電車はすいていて、立っている人は見かけなかった。僕は陽射しを背にしたドア近くの席の端に座った。梅雨はもう明けようとしていて、低く立ち込める灰色の厚い曇が疎らに明るくなって、まだ霞みがかかったようなもどかしい青色の空が、待ち兼ねていたように遠慮がちに覗いていた。ちょうどその隙間から7月の陽射しが差していた。車内には軽い冷気が流れていて、まだ外気に残っているまとわりつくような湿気から解放してくれていた。電車が駅に止まってドアが開くけれど、ほとんど誰も動かなかった。僕は電車の揺れに任せて時々目をとじた。

「偶然に電車の中で会ったのよ」

「あの人は何も言わなかったけれど、私は知ってる」

「何日も帰って来てないの」

「知らない匂いがしてる」

「母親なんて、この前会ったのが何時だったか忘れたわ」

ふと僕は、あの暗い家の部屋に灯る孤独な明かりを思い出した。そしてその中にたった一人でうずくまる真奈美の姿を思った。

「誰もこの家には戻らないのよ。解っているの」

電車から見える町の風景が古い絵のように、沈黙の中に沈んでいた。

数知れない建物が一分の隙間もなく空と交わるところまで続いている。そこには人の姿があるはずなのに、誰も見えない。そしてこの閉ざされたような世界の中に確実に彼女はいる。崩れ去ろうとしている時間を彼女は呼吸している。それは間違えようのない事として僕は感じる。その時、僕は気付く。さっきから電車が駅に止まっていない。ずっと走り続けている。駅はどうしたのだろう。いったい何処へ行こうと言うのだろう。止まるべき駅に電車が止まらない。僕はふとドアガラスの向こうに目をやる。そこには黄色い影のようなものが見える。それは次第に形をつくり出して行く。傘だ、あの日真奈美が持っていたあのビニール傘だ。その傘を持つ手も見える。

真奈美がいる。誰なのだろう、傘を手にした彼女の背後に中年の男が立っている。男の顔はそこだけが暗くて解らないけれど、真奈美の顔は笑っているように見えている。僕は周りに目を移す。でも何処にも二人の姿はない。だいいち、立っている人なんて誰もいないのだから。僕は思わず席を立ってドアガラスに顔を押しつけた。そこには見知らぬ男に寄り添う真奈美の姿が、深い闇の広がりの中に確かに浮かんでいた。そしてその闇の更に深い方へ、ゆっくりと傾きながら落ちて行くように遠ざかって行っていた。僕の手はドアガラスに遮られたまま、何処にも行く事ができなかった。彼女の笑顔はまるで小さな子供のようで、永遠に損なわれる事がないように思えた。

「どうしてか解らないけど、私はあなたに惹き付けられたの」

「あの日、あなたは学生課で休学届けを書いていた」

「私、隣にいたのよ」

「その時、あなたの姿が消えて行くように見えた」

「ボールペンを持つあなたの手や、不安に怯えたように沈むあなたの目が霧みたいに薄れていたの」

「私は驚いて、じっと見ていた」

「そして気付いたの」

「何時かこんな光景を何処かで見た事があるって」

「私は母の鏡台からカミソリを持ち出して、暗い部屋の中で息をころして佇んでいた」

「悲しいくらい静かだったけれど、その時はもうそれは、意味を持たなかった」

「薄暗い部屋の壁に掛けた鏡の中に、私は私を見付けた」

「でも、そこに映っていたのは、薄暗い闇の中にあいた小さな空白の穴だった」

「私はもう失われていたのよ」

「思わず私は鏡の中の空白の穴に手を触れようとしたの」

「冷たい空気が指先に触れて、私の手がその空白の穴に入って行ったの」

「気が付いたら私は時間の中に浮いているみたいだった」

「空白の穴が、とても静かに、私を引き寄せているようだった」

「ゆっくりと、本当にゆっくりと、私はその中に落ちて行った」

「私は目を閉じて、微笑んでいたと思う」

僕はもう堪え切れなかった。大声で真奈美の名前を叫んでいた。暗い闇の中に、とけるように失われて行く真奈美に向かって、彼女の名前を呼び続けた。溢れ出る涙がドアガラスに落ちて行った。そこはどうしようもなく遠い場所だった。僕は崩れ落ちるように電車の床に転がっていた。車輪から伝わる振動が激しく体を揺らしていた。何時まで経っても電車は止まろうとしなかった。そのスピードはますます速くなって行くようだった。遠くなるような意識の中で、いったい何処まで連れて行く気なのだろうと僕は思った。車内は薄暗く、真冬のように寒かった。僕はやっとの思いでドアに持たれて、座席のひとつひとつを見渡したけれど、そこには誰の姿も見えなかった。けたたましいベルの音が鳴っていた。僕は支柱に掴まりながら体を起こした。目の前の電車のドアは開いている。薄暗い車内の闇がそのドアから流れ出して、そして僕の目の前に黒々とした更に深い闇を広げ続けている。恐ろしい程の深さを感じる。僕はその深淵の縁に佇んだまま何処にも行けない。体が震えている。足元が霞んで見えない。その時、あのけたたましいベルの音が突然止んだ。車内の薄暗い闇の中から微かな声が聞こえたようだった。僕をよぶ真奈美の声のようにも聞こえた。僕はゆっくりと振り向きかけた。それと同時に、ドアの向こうに広がる深淵の中に僕は一歩、足を踏み入れていた。

気が付いた時、僕はあの橋のある町の駅のプラットテホームのベンチにもたれかかるように座っていた。体がベンチに固定されてしまったように動かなかった。心の中が空っぽになっていた。何もかも、何処か別の世界に忘れて来てしまったみたいだった。僕は長い間ベンチから動けずにいた。何時か何処からか僕の時間が少しづつ戻って来るのが感じられた。意識が、明かりが灯って行くように、ひとつずつその場所を浮き上がらせて行った。ベンチから抜け出るように立ち上がると、ふらつきながら僕は改札口を通って、何処かへ向かって歩いていた。日差しは明るく辺りを包んでいた。幾人もの人とすれ違い、幾つもの車が通り過ぎて行った。誰かの話し声が道路を渡り、街角を曲がって行った。そこにいる事に気づかれないように、密やかに息をころして街路樹が立っていた。僕の足元に間近な夕暮れの影が長く続いていた。空は霞みの中に青く、その中に崩れるように曇がとけていた。僕はその橋の欄干にもたれながら、失われそうに流れる川底の汚れた水を見ていた。あの2羽の鶺鴒は何処にも見えなかった。僕は真奈美に電話をかけてみたけれど、何時までも呼び出し音が鳴り続けていた。僕は電話を切ってからメールを送ったけれど、返信はなかった。

彼女は大学にも来ていないようだった。僕は毎日昼休みの学食からメールを送った。夕方のバイトが終わってから僕は毎日あの橋に行って、鶺鴒の姿を探して、メールを送り続けたけれど、彼女からの返信はなかった。時々夜の闇に紛れて、僕は彼女の家まで行ってみた。あの回り道の何処かで、彼女の姿を見つけられるかもしれないと思った。駅のホームの端で、星も無い空を見上げている彼女を、何処か遠い世界から現れるような電車の中に、あるいはその窓ガラスの向こう側に、黄色い傘を抱えている彼女を僕は見つけられるかもしれないと思った。

それから数日が過ぎて、僕はアルバイトをやめた。学生課で紹介されたバイトだったから、学生課に書類を提出しなくてはならなかった。ふと僕は学生課でなら、何か知ら彼女の事が解るかもしれないと思って聞いてみた。1ヶ月も前に彼女は大学をやめていた。

僕は彼女と最後に携帯で話し、メールが返って来た日を計算してみた。5日間重なっている。それは彼女が大学を辞めてからも5日間来ていたと言う事になる。講義でも会ったし、学食でも一緒だったからだ。その間僕は何も気付かなかった。僕たちはいつものようにあの橋で待ち合わせて、回り道をしながら食事をしたり、バーに行った。僕たちは、赤ワインをボトルでとった。冷えていたので彼女は暫くの間掌の中で温めてからグラスの縁に鼻を近づけた。アールグレーの匂いがすると言った。僕たちは一本空けてしまってから店を出た。アルコールが心地よく体中を包み込んでいた。手をつないだり、肩を抱いたりしながら僕たちは歩いた。道の暗い場所や建物の陰で僕たちは唇を合わせた。幸福な時間が僕たちの下に敷き詰められているようだった。僕は真奈美の方が多く飲んだと言うと、彼女はそれを素直に認めた。真奈美は少し酔ったから、今日は帰るねと言った。僕は彼女を家の傍まで送って行った。

「明日も、連れて行ってほしいんだけどな」

「明日はあなたの部屋に行く」

次の日、僕たちはやっぱり赤ワインを一本空け、おまけにビールを一杯づつ飲んだ。それから彼女は僕の部屋に来た。僕たちは赤ワインとビールの酔の中で体を寄せ合った。彼女はため息をつきながら服を着た。いつもより小さなため息だった。

「ねえ、私今はとても幸福なのよ。でも本当は半分でいいの」

「きっと、その方が、届きやすいのよ」

たった二駅の間だったけれど、僕は隣に座っている彼女のぬくもりが永遠のように感じていた。振り向くと町の明かりが夜の中に散らばって、幻想の世界のように見えていた。そして窓ガラスはそこにいる彼女の黒過ぎないきれない髪をちゃんと映し出していた。

僕は彼女を家の前まで送って行ったけれど、やっぱり彼女の家に灯りはついていなかった。

「ありがとう、明日ね」

夜の闇の中で家はひっそりと佇んでいた。何故かいつもより、なお一層深く沈んでいるように感じられた。僕はベランダのある部屋の明かりが灯るのを待ってから、今来た道を戻った。

ふと僕は、アールグレイの香りがすると、彼女が言ったのを思い出した。

   

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