第2部

第13話 魔女と修道女は水辺へと向かう

 沐浴を週に数度行うのがヘイズの習慣の一つだ。場所は教会から歩いて二十分かかる、雑木林の中、洗濯場には使われない水辺だと本人から聞いていた。この時期は専ら早朝に出かけている。

 

 誰かに覗かれる心配はないのかと尋ねたら「誰も覗きなんて、そんな」と自嘲気味に笑っていたのを覚えている。恥じらう素振りがまったくなかったが、本当に覗き見される恐れがない場所なのだろうか。


 そんな彼女に同行して沐浴しようと私が決めたのは、あの満月の夜から十日余りが経った、曇天の朝だった。


「ですが、夕闇ダスクさんは魔法で身体を清潔に保っているのでは?」


 部屋を訪れ、いっしょに行くと言い出した私にヘイズは首をかしげた。沐浴に行く準備は既に整っていて、まさに出かけるところだったみたい。


 彼女の言う魔法は、私が属していたアマリリスの一族が習得するものの中で、初歩的な浄化魔法のことだ。

 

 生涯の大半を森の奥で暮らすのが常である一族が、その心身の健康を維持するのに不可欠な魔法で、小さい頃に教わる。

 この魔法の使用が習慣化されているからこそ、森の深く奥でも体調を崩すのは稀であり、町や村へと出る際にも悪目立ちしたり、鼻をつままれたりはしないのだろう。


 基本的に、この浄化魔法の対象は自分の体だけで衣類や他のものには効果がない。そして浄化の効果の大小は、使用者の魔力に依存する。これまでほとんど毎日唱えてきた甲斐あってなのか、微かな魔力しかない今の私でも自分の身を清らかにすることができている。

 ……否、できていたと言うべきか。


「ここ何日かは魔力不足で、しっかりときれいにできていない気がするから」


 汗やその他の老廃物の処理を、魔法以外でしていないわけでもなかったが、島にやってきた当初と比べると、近頃は気温と湿度が高くなりつつあり、そろそろ水浴びをしたいと思ったのだ。


 あの森にいた日々を思い出してみれば、浄化魔法が行使できてなお、水浴びが好きな魔女たちは少なくなかった。私はあまり素肌を晒すのは好かないが、なかには堂々と全裸になって、まるで流水を魔力のように纏わしている者もいたのだ。


「魔力不足ですか。えっと、それってもしかして、夜な夜なネックレスに手をかざしているのと関係があるのですか」

「……あの子から聞いたのね」


 私と寝室を共にしているあのホムンクルス――ステラから。


 今は、恒例となったバイオリンの朝練習の真っ最中。私がヘイズと共に沐浴へ行くのをおそらくまだ知らない。口頭で伝える前に、彼女がさっさと練習を開始し、それを中断するのが忍びなかったから。短い書き置きは残してある。


 浅い眠りから覚めた私に「おはようございます」と恭しく挨拶してきて、その覚醒を合図に練習を始める、それがここ最近のステラだ。私の眠りを尊重する分別があるのはいいとして、練習中に軽く話しかけても集中し過ぎているために、反応をろくに寄越さないのはいかがなものか。

 そのくせ、唐突にそれとなく感想を求めてくる。あくまでそれとなく、だ。


 ああ、涙なんて見せるんじゃなかった。

 あんなことを口走るんじゃなかったとその度に思う。ぜんぶ、月のせいだ、きっと。


「ステラさん、わけを知りたがっているふうでした。聞いても教えてくれないし、触らせてくれないって。あのネックレスって露店で売っていた安物ですよね。それともああいう天然石は夕闇さんたち魔女たちからすると特別なのですか?」

「……歩きながら話す。それでいいわね」


 とっとと例の水辺に行って、沐浴をして、帰ってきたかった。ステラを一人にしておくのは短いほうがいい。探しに来られると面倒だ。


「まず、あなたがさっき言ったとおり、天然石は種類によっては魔法の触媒に選ばれる」


 教会を後にし、水辺までの案内役を買って出てくれたヘイズの隣を歩きながら、そう切り出す。


「私たちの一族は石とは相性がそれほどよくなかったけれど。天然石だけではなくて、一部の魔女たちは加工した金属製品に魔力を込めて、特殊な魔法を使ってもいた」

「へぇ……いろんな魔女がいるんですね」

「まあね。話をあのネックレスに戻すと、あれはちょうどよかったの」

「何にですか」

「とある魔法を付与するのに。実はね、以前だったら数時間で済む作業に、もう一週間はかけているのよ。それでも上手くいくかどうかはまだ五分五分」

「あの、どんな魔法かお聞きしても?」


 知りたくてうずうずしている顔だった。久しぶりに目にした気がする。このシスターは色褪せた日々に終止符を打つべく、私たち一族の長の要請あるいは命令に従って私、そしてあのステラを教会に居着かせている。ふとそれを思い出した。


「それはね……ネックレスをつけた相手を猫に変える魔法よ」

「えっ」

「シスターを猫に変えてしまって、飼ってあげようと思っているの。大丈夫、ちゃんと一日一回、餌はあげるから。それともネズミ捕りでもしてもらおうかな」

「猫になるのは悪くありませんが……それ、嘘ですよね」


 困り顔でそう返されると冗談を口にした私としても白けてしまう。


「そう言い切るってことは、どんな魔法か予想がついているの?」

「魔法はともかく、ネックレスはステラさんに贈るものだとは」

「なぜ?」

「忘れたんですか」


 質問に質問で返されてしまう。

 忘れる……何のことかさっぱりだ。


「夕闇さんが露店でネックレスを選んだ時、私もそばにいましたよ。どれを買うか迷われていたので、一番きらきらしている石を勧めたら『輝きは不要よ。もう充分』って呟いたじゃないですか。それで、ステラさんに渡すんだなって」


 しかも選ぶのに夢中で私はヘイズの顔を見ていなかったらしい。


「そんなこと言った? 嘘よね」

「いいえ、本当のことです! 今日この瞬間までは我慢していましたが、そろそろ教えてくださりませんか」


 ずいっとヘイズが私に迫ってそう言う。


「あの日、お二人で教会を抜け出した夜! ステラさんが演奏をして、夕闇さんが演奏を聞いた。そう話してくれましたが、それ以外にも何かあったのではありませんか」

「何かって、たとえば何」

「お二人が仲を深めるような、しかもおいそれと口外できない秘め事が」

「ない」


 私が即答すると、露骨に落胆してみせるシスターに私は溜息をつく。


「でも、あの子にあげるつもりなのは当たり」

「やっぱり」

「それを手がかりに、どんな魔法をかけようとしているか思いつかない?」

「あっ。惚れ薬ならぬ惚れネックレスですか」

「ちがう。服従や洗脳の魔法は禁忌の一つよ」

「そ、そうですか」


 


 その後、たわいない会話を挟みつつ水辺まで歩いた。


 教会に通っている子供たちが私に懐きつつあることや、働いている食事処の新メニューをいっしょに考えていること、薬草類の取引先が増えそうなことや、近々、大陸から新しい役人が派遣されてくる噂……。


「理由は聞かないでください」


 水辺へと到着し、ヘイズは服を脱ぐ直前に、私の目を見てそう言った。

 ちっとも笑っていない目、けれどその口許にうっすらと浮かんだ冷笑。その冷たさは彼女自身に向けられている。


 そして彼女の急な要領を得ない言葉は、曇り空の下で、するりと晒されていく彼女の裸によって、真意が私へと伝わる。


 彼女の下腹部には傷があった。

 くっきりと。刺し傷のようだ。状態からして数年は経過している。


 似た傷痕を見たことがある。もっと生々しい傷も。鮮血。血染められた森、花。

 赤く染まった光景が否応なしにフラッシュバックする――。

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