第12話 魔女の涙、ホムンクルスの口づけ

 魔女が身投げしたという岬に着くと、私はしばし空を眺めた。

 あちらこちらを漂い、身を寄せ合っている雲のせいで、澄み切った夜空ではない。満月だけが冴え冴えとその存在感を示している。

 

 視線をゆっくり下ろしていく。

 ステラ――演奏者である彼女が、楽器ケースから例のバイオリンを出しているところだった。


「楽譜を持ってこなかったのね」

「今夜は必要ありませんから」


 弾こうとしている曲、それが何曲あるか聞かずにいたが、すべて暗譜済みなのだろう。

 新しい曲に挑戦しようとして、私が譜面台代わりになるのは御免だから助かる。ちなみに、れっきとした譜面台も、持ち運ぶのが前提に作られている簡易的な代物も教会になかった。普段の練習では、部屋にある椅子や机を上手く利用している。何度も弾き鳴らし、頭そして身体に記憶していたステラだ。

 彼女の記憶能力は機械的な記録ではなく人間味がある、すなわち「忘却」が備わっているが、並みの人間よりは高いのも検証済みだった。


 一週間前、専ら立って演奏する彼女に「座って練習しないの?」と尋ねたら「座奏と立奏では勝手が違うのです」とあたかも演奏に精通している口振りで返されたため「そう」とだけ言った。

 もちろん、今夜の彼女もその楽器を立って奏でる準備を進めている。


「歩き疲れたから、私は座らせてもらう」

「どうぞ。あまり近すぎず、離れ過ぎずに聞いてください」


 難しい注文だ。

 かつて大陸都市部にいた頃に、自称音楽博士の友人から音楽堂の構造理念や建築音響に関して一方的に講義されたのを思い出す。

 早口でまくし立てられたが、大半を右から左へ聞き流していた。結論、世界のどの都市でもまだまだ発展途上であると友人は言っていた。

 

 翻って屋外の場合はどうなのだろう。どこが最もよく聞こえる位置なのか。演奏が最高の形で聞こえる場所がいい。その場所に聞き手はいるべきだ。それが私からステラへの、承認と尊重と言えよう。


夕闇ダスク? どうしてあなたが肩に力を入れているのですか。楽にしてください」


 辺りをうろつきながら、座る位置を決めあぐねている私にステラがそう言ってくる。どこか呆れたふうだったが、口元には笑み。


「……べつに」

「もしかして。顔には出ていませんが、今夜のことを楽しみにしてくれていたのですか」

「まさか。言っておくけれど、演奏後に感想や評価を求めないで」

「わかりました。わたしからは求めません」


 それは暗に、私から言いたくなったら聞くということか。やれやれと私は彼女の前方、歩幅にして五歩分の距離に座った。幸いにも荒れた草地は柔らかく受け止めてくれる。


 月下、彼女が構える。


 素人目から見ても、その楽器に精通している姿に映った。最初に触れたあの時と比べると明らかに、楽器本体、それから弓も彼女に馴染んでいる。

 正式かつ最適な演奏姿勢かどうかは問題にならない。それぐらい優雅な佇まいに、軽口も言えずにいた。


 そして直前の合図らしい合図なしに――彼女はそれを不要だと解釈したのだろう――演奏が始まる。


 光源が弱いため、右腕の動きほど左の指の動きは追えない。否、そんなの追わなくてもいい。それは音についても同様だ。意識して聞こうとせずとも、紡がれていく音楽が耳へと入ってくる。

 専門用語を交えてつらつらと音の響き方を講義してくれた友人のことなど一瞬にして忘れる。

 私がどんなにステラの観察記録を続けてみても、彼女の奏でるこの音色は後世に残せるものとして、形にできない。そのことが惜しく感じた。しかし同時に優越感にも似た幸福感を覚える。

 今ここで聞けてよかった。

 とどのつまりそういうことだ。


 今夜の演奏は、教会でなんとなしに耳にしていたのと違う。何がどう、どんな理由で異なるのかを説明できない。おそらく誰にも完璧に説明できはしないのだ。


 満月に捧ぐような音楽に、私の意識は釘付けだった。意識を心と言い換えてもいいし、心酔したと言ってもいい。


 ステラが演奏したのは二曲。

 たった、とはつけ難い長さと、重みや深みがある曲だった。楽譜を入手したのは私だったが、どちらの曲も初めから終わりまでを聞いたのはそれが初めてだった。練習曲のうちのどれかでないのは明らかだ。


 音楽が感情を呼び起こす。

 遠い日々をも呼び覚ます。


 曲調はどちらともゆったりとしていて、それが月とも夜とも似つかわしく、見えない星々のことも想った。

 さらにはあの深い森の奥、私が生まれ育った一族の住処が頭に浮かんだ。今や帰る場所でなくなったそこでの日々が私を作っているのだ。魔女としてもの私も、人としての私も。

 

 それからまた、都市部にいた頃の夜が思い出されもした。あれはいつの夜だったか、街に暮らす少女たちの間でにわかに流行っている歌を、あの子が囁くように口ずさんでいた。そして私にもその歌を教えようとしたのだが、私はそんなのいいから早く眠りなさいよと……。そう、あの頃はまだ、真っ当な眠りが毎晩訪れて、私はそれをありがたく迎えていた。今はいないあの子と共に。


 不意の夜風に肌寒さを感じて、不確かになっていた焦点が、演奏を終えたばかりのステラへと合った。そして私は拍手を贈る。控え目に。胸中を渦巻く過去でいっぱいにしながら。そうしているとまた視界が歪む。


「泣いているのですか」


 言われてはたと気づく。視界が不鮮明なのは涙のせいなのだと。ステラが近寄ってきて、私の隣に腰を下ろすのがわかる。


「わたしは戸惑っています。泣くとは思っていませんでしたから。その涙はつまり、演奏に感動してくれたからですか」


 すっと、ステラは指先で私の濡れた目元に触れてくる。私は「やめなさい」と払いのけ、自分で目元を拭った。


「馬鹿ね。たしかに感動に値する演奏だった。でも、それとこの涙とは直接的な結びつきはない。忘れ得ない記憶が私を揺さぶった。ただそれだけ。私が冷血な魔女でないことの証明にはなったかもね」


 ああ、また余計な話をしてしまった。

 下手でも誤魔化せばいいのに。これでは私が過去に囚われているようではないか。そうあってはいけない。あの森にすべて置いてきた、そのはずだ。そうであるべきだ。私は深呼吸をして気持ちを落ち着ける。また出そうになった涙を堪えた。


「……その涙が羨ましいです」


 吐息が当たるほど近くでステラが呟く。


「――あなたには過去がないから?」

「怒らないんですね。今のは失言かなと思いましたが」

「ふっ。あなたって、そんなふうに省みることもできるのね」

「ホムンクルスが無神経で厚顔無恥ではない証明になりましたか」

「それはどうかな」

「あと、羨ましいと思ったのは涙そのものです。わたしはどうやら涙を流せないみたいですから」


 トーンを落として彼女が言う。

 情動性ではなく反射性の涙なら別だそうだ。ようは精神面に由来する涙を彼女は流せない。


「そっちのほうが羨ましい」


 そう言った私にステラは言葉を探す素振りをした。月はまだ私たちを照らし続け、互いの顔を見えるようにしている。ステラがなかなか口を開かず、私は帰るために立ち上がろうとした。ちょうどその時、彼女が顔を近づけてきて、私の右の瞼に口づけをした。一羽の蝶が花に止まるかのように。


「……何のつもりよ」

「言葉では上手く伝えられそうになかったので。わたしは綺麗に感じましたよ、あなたの涙。でも、ずっとは流していてほしくありませんから」


 説明になってない。まったく、なってない。……どうかしている。彼女も私も。

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