第10話 ホムンクルスは月夜に出たがる
午後二時近くになって、シスター・ヘイズが教会に帰ってきた。
ステラがあの異質なバイオリンの練習を続けているのを遠くに聞きながら、私とヘイズの二人は小部屋で話すことにした。置かれた不揃いな三つの椅子のうち一つを空席にして。
ヘイズはあのバイオリンの存在自体は知っていたが、どんな曰く付きの品なのかまでは亡き祖母から聞かされていないらしかった。
「贈り物だと言っていた気がします。小さい頃に一度、箱から取り出して手入れらしきことをしている最中に部屋に入りました」
当時のヘイズはそれが楽器だとわからず、祖母も詳しくは教えてくれなかったという。
「おばあさまは普段から演奏なさっていたわけではないの?」
「記憶にないですね。大きくなった私が町のほうへと出かけている間、隠れて弾いていたかまでは不明ですが」
「あなたはおばあさまから魔女の話を聞かせてもらっていた。そうよね? だったら、あのバイオリンに特別な謂れがあっても、隠さないと思う。隠れて弾くことだって」
私の推測にヘイズは、淹れたてのハーブティーを一口飲んで微笑んでみせた。
「どうでしょう。特別と言っても、その基準は魔女や錬金術師に関わっているかいないかだけではないですよね。ごく個人的な思い出が根ざす品物だったから、話してくれなかったのかも」
「たしかに。……ねぇ、あんなにあっさりと譲ってよかったの?」
十分ほど前のことだ。
ヘイズが帰って来てすぐ、ステラは練習を中断して、バイオリンを掲げて示し「あなたの祖母が遺した、この楽器はわたしが弾かせてもらいます」と言ったのだ。
別の言い方もあるだろうにと私が説明を頭の中で練っていると「わかりました」とヘイズがすんなり応じた。ステラに気圧されたふうではなく、あたかもそれが自然という調子で。
「はい。私と祖母との思い出の中に、あの楽器は存在しないに等しいです。たとえ祖母個人が大事にしていたとしても、変に執着して、お二人を困らせたくありませんでした」
「あの子が困ることはない、きっとね」
あのバイオリンに選ばれ、そして選んだとステラは口にしていた。もしも、ヘイズが譲渡を拒んでいたら平気な顔で「なぜですか」と返していたかもしれない。その言葉に困惑するのは私たち側だろう。
「ところで、楽譜ってどこで借りたり買ったりできるか知っている?」
「楽譜ですか。それなら……」
ヘイズは町にあるという小さく古い図書館、大陸の流行雑誌などを数ヶ月遅れで仕入れている書店、それから音楽に詳しい人物、等々と心当たりを話してくれた。
「ありがとう。……あの子を見張ってばかりで、まだろくに島歩きをしていなかった。よければ近いうちに案内してくれる? あの子が練習に没頭している時間を見計らって」
予定していたとおり、町で働き口も見つけないとならない。近所の子供たちの面倒を見ているだけではまともな代価は受け取れないから。
「喜んで。ええと、楽譜以外にも、ステラさんにお土産を買ってきましょうね」
ステラに留守番を任せること、というよりあの子を外に出さない件にヘイズはまだ納得してくれていない様子だ。
私はそれに気づかないふりをして「そうね、気が向けば」と返しておくのだった。
ステラが例のバイオリンを弾き始めて一週間が経過した。
私は島巡りをある時はヘイズと二人、またある時は一人でして、おおよその地理を頭に入れた。
島の中心部は想像よりも栄えており、人通りも多い。道や家々の造りは大陸都市部と比較すると前時代的であるけれど、未開の地では決してない。ようするに大陸に数多くある田舎町と大差ない様相をしている。
一方で、手付かずの自然が丸々残っている区画もあるにはあった。
たとえば、私を島まで送り届けてくれた船頭が話した、あの岬までの道のり。そこは獣道すら少なかった。誰も寄り付かない場所なのだ。とはいえ、まさか古の魔女の呪いが残っているのではあるまい。
「わたしも外に出ます」
ステラがそう宣言したのは夕食を終え、三人での歓談もお開きとなり、寝室に移って、あとはもう眠るだけとなった頃合いだった。
「実行に移す前に言ってくれたのを、私は嬉しく思えばいいの?」
「あなたの感情はあなた自身に任せます。ですが、わたしが勝手に一人で教会を抜け出す画策をしているのだとお考えなら、それは間違いです」
部屋の隅、低い椅子に腰掛けて話すステラを私はベッドから見つめた。彼女はヘイズがどこからか安く買ってきたというネグリジェを纏っているが、ドレス姿とは趣の異なる、愛らしさや艶かしさがそこにある。
「というと?」
「
「却下」
結局、前にヘイズが紹介してくれた食事処
――彼女の幼馴染一家が経営しているという店で、教会から徒歩十五分の場所に構えている――で働き始めた私だった。
ヘイズが私を案内してくれている最中に、通りで件の幼馴染とばったり出くわし、その流れで店に出向いて食事をし、あれよあれよと話しているうりに、気がついたら働くことになっていた。
提供されたトマトソースのパスタが思いの外美味しくて、賄い料理に期待できたから、というのもあるけれど。
「仕方ありません。こうしたことを言うのは進まないのですが……」
「何よ」
「このままの軟禁状態では、わたしの動力に支障をきたすのです。日光と月光の両方を定期的に浴びなければわたしは停止します」
「そう。わかった、それなら教会裏の薬草園で事足りる」
私は冷静にそう答えた。
覚醒時のことを思えば、今ステラが説明した動力の確保、通常の食事ではない光の摂取の必要性はさほど驚きはしない。
「ふむ。嘘はついていませんが、今のでは説得材料として不十分だったようですね」
「ええ、そのとおり。さぁ、早く寝なさい。夢を見ないあなたにも必要な睡眠なのでしょう。人間みたいに」
「あなたを見習って、遠回しに言おうとしたのが誤りでした」
そう言うとステラは立ち上がった。寝床である白い箱に入る素ぶりはない。
部屋を出るかと思いきや、私に近づいてくる。咄嗟に身構えるが、彼女の側から敵意はまるで感じられない。果たして私のすぐ目の前で止まった。
「綺麗な月の下で演奏してみたいのです。あなたが聴き手です」
輝き澄んだ瞳、その眼差しが私へとまっすぐに向けられている。
――月はいつだって綺麗よ。そんな嫌味を飲み込んで、私は彼女の意図を汲み取ろうとした。でも、どこまで言ってもそれは彼女が言葉にしたままの欲求で、飾り気のない願望だと感じた。
私を夜道に誘い込み、背後から襲うだなんて手間はかけないはずだ。日頃から同じ部屋で眠っているのだから。
「戸惑っていますね。珍しい表情です」
「……まあね」
「どこかいい場所を知りませんか? 月が望め、風情ある地を」
あの岬が脳裏をよぎる。魔女が身投げしたというあの寂れた場所が。
若干の間を置き「ない」と言ったが「あるのですね」と即座に看破されてしまいバツが悪い。
「今夜ではありません。観測からすると六日後に満月を迎えますから、その夜にわたしを導いてください。それまで曲を練習しておきますから」
断られると思っていない口ぶり。
曲というのは一昨日に楽譜を渡したばかりのものに違いない。きちんと教えていないが、自力で読めたのだろうか。
「……わかった、期待しておく」
皮肉と本心、五分五分といったところだった。
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