ダブルスタンダード
夏越リイユ|鞠坂小鞠
ダブルスタンダード
恋の成就は望んでいない。
それこそが、私を私でなくしてしまうからだ。
*
***
*
「死ぬまでに、あと何回セックスするんだろうなぁ」
ベッドの上、肩の下から巻いてある髪をくるくると弄りつつ、なんの気なしに呟く。
無論、〝私は〟という主語を省略した呟きだったが、冷蔵庫の中を眺めていた男は手の動きを露骨に止めて私を振り返った。聞き間違いかという顔で、忙しなく視線を泳がせている。
「……ええと。
無理やり口角を上げて笑う男の白々しい台詞に、私は適当に笑い返す。
頭が悪そうな反応だな、と思う。表面だけでも取り繕おうとする態度が滲み出てしまっている。私の発言を〝面白いこと〟という融通の利くカテゴリに当てはめたことも、自分ではうまくやったつもりなのかもしれないが、驚くほど興醒めだ。
質問の意味が分からなかったのなら訊き返せばいい。別に聞き流したって良かった。
つまらない。最初に固まった時点でバレバレなのに、中身がないと分かりきっている会話を、どうして無理に繋げたがるのか。
いわれてみれば、最中もそんな感じだった。
上辺だけの関係を、快楽を、楽しんでいる気になっている。悪いことだとは思わない、でも。
「じゃあ私、そろそろ帰るね」
「えっ? そ、そう?」
男の顔には、困惑と安堵が一緒に浮かんで見えた。
私にはそう見えたというだけなのかもしれないし、本当は違ったのだとして、この男への興味はとうに薄れていた。
二度目はないなと思う。名残惜しそうな顔に見えなくもなかったが、私は媚びるような男の視線をあからさまに遮り、床に散らばる服を着直し始める。だんだんかわいそうに思えてきたものの、謝る気もなければ折れてやる気もない。
門限が厳しいから、と帰りがけに零したのは、気紛れ以外の何物でもなかった。それはそれで、わずかながらもじりじりと燻り続けていた罪悪感を、ほど良く打ち消してくれた。
ちなみに、門限なんて真っ赤な嘘だ。
*
つい先日まで桜が咲いていたはずなのに、季節はすでに新緑の時期を過ぎ、もはや初夏の匂いまで孕み始めているらしい。
季節に置いてきぼりにされる感覚は、十代の頃から、私の中に静かに根づいている。
暑い、寒い、過ごしやすい。春夏秋冬の移り変わりに対して私が思うことはそのくらいだ。情緒に乏しい自覚はある。
帰宅先は、片思い相手の家だ。彼は私の高校時代の家庭教師であり、木造の古い家に住んでいる。
二年前から、私は彼と――当たり障りのない言い方をするなら〝ルームシェア〟をしている。真相は、職を失って路頭に迷った当時の私が、勝手に彼の住まいに押しかけたというだけなのだが。
「ただいま」
閑静な住宅街の、さらに入り組んだ細道の先に建つその家は、夜遊びに耽った私の気怠い心身を興味なさげに迎え入れる。
かけた声に返事はない。が、あっても怖い。
居間は無人だったから、奥側に続く台所へ向かう。ガラ、と引き戸を開けて台所を覗くと、換気扇の下で煙草を吸っていた彼と目が合った。その視線は関心がなさそうにすぐ逸れ、私はむしろそのことに安堵する。
「……ただいま、先生」
足音を殺しながら歩み寄り、背中から抱きついた。
元々の癖っ毛を寝癖で余計に拗らせた彼の髪の毛先が、弾みで微かに揺れる。柔らかそうだ。実際に柔らかいかどうかは分からない。直に触れたことがないからだ。
返事はやはりなく、唐突な抱擁は受け入れられるでも引き剥がされるでもない。はなから相手にされていないのだ。そのこともまた、私により一層の安堵を連れてくる。
背中に生身の重りをぶら下げた先生は、普段の猫背をさらに丸め、顔色ひとつ変えず煙草の火を消した。ヘビースモーカー気味の先生は、基本的に、気管がさほど強くない私の前で煙草を吸わない。
残った副流煙のにおいに
余計な気を遣わせるのは本意ではない。私のために煙草をやめる先生なんて、万が一にも見たくなかった。そんなことをされたら、私はきっと先生に幻滅してしまう。
先生は私を抱かない。私を女として相手にすることがない。
だが、人間扱いするのは上手だ。少なくとも、私が満足できる程度には。
当たり前のことを当たり前にしてくれる人は、好きだ。
結局、それこそが、先生が私を虜にしている理由のすべてと言っていい。
「ねぇ先生。私、死ぬまでにあと何回セックスすると思う?」
「……生殖の必要がない行為が好きなんだろう。なら齢は関係ない、飽きるまで好きに回を重ねればいいさ」
「あはは、最高よ先生。私、先生のそういうところが」
「おやすみ」
……挨拶ですらない、単に会話を切り上げるための言葉。こればかりは少し寂しい。
それきり、先生は無言で台所を出ていってしまった。換気扇を止めていかなかったのは、多分、煙草のにおいがまだこの場に残っているからだ。先生は無意味なことを嫌う。無駄なことも。
煙草のにおいを追いかける。限られた空間から徐々に消え失せていくそれを、繋ぎ留めるように深く吸い込む。
噎せると分かっていて嗅ぎたくなるという、自分が陥るこの矛盾を、私は心の底から愛している。愛するべきだとも思っている。
煙草のにおいがついに途切れた頃、私は疲れが蓄積してぐったりと重くなった身体の存在を思い出した。
怠い足を引きずり、自室に向かう。
安堵と寂しさで釣り合っていたはずの天秤が、やがて寂しさの側に傾き始めたなら、そのときこそ私が自室へ戻る頃合いなのだ。
*
私が相手の男に提示するルールは三つ。
避妊具を使うことと、暴力をふるわないこと。そして、男のほうから次を求めないことだ。
その条件さえ満たしていれば、大抵は応じる。例は少ないものの、いいなと思えば二度目を誘うことだってあった。
私が私自身に課しているルールもふたつある。
相手を〝客〟にしないことと、寂しさを原動力にしないことだ。
これらを基盤にしておかないと、私という人間が不用意に損なわれてしまいかねない。それは嫌だ。私は、この遊びを楽しむために身体を使っている。
金を理由にすればただの仕事に成り下がってしまうし、寂しさを理由にすれば〝遊びを楽しむ〟という心境では到底いられなくなるだろう。だからこそ、私にとってはどちらもタブーだ。
ピルは夜遊びを始めた当時から飲み続けている。私の場合は、妊娠を確実に避けるためだ。とはいっても、妙な病気を
それを渋る男は論外だ。どれほど顔が整っていても、いい身体つきをしていても、あるいは社会的に高い立場にある人物であっても、そんな男は私の相手にふさわしくない。選択肢にも入らない。
こういう火遊びをしているくらいだから、私自身もコンドームの手持ちは極力切らさない。だが、基本的には普段から持ち歩いているような慣れた男を選ぶ。そのほうがいろいろと心得ている場合が多いからだ。
それでも、ハズレの男を引いてしまうことは多々ある。
「……ん」
声を漏らすのは好きではないけれど、男によっては好むから、気が乗れば出してやる。演技は苦手だし、嫌いだ。声が出なくもない程度に良くしてくれる男であることが大前提ではある。
自然と零れることはほとんどなくなった。五年もこんなことを続けているからか、行為自体を冷静に受け入れてしまう。だいたい、その場限りの火遊びで得られる快楽なんて高が知れている。だが、それがいいから続けている。自分の意思で。
セフレを作った時期もあったが、大概うまくいかず、自分には合わないやり方なのだろうと判断してさっさとやめた。割りきった関係の中での執着や馴れ合いは、適度ならば好む人もあるのかもしれないが、私は一切望んでいない。
今日の男は、終わった後に喋りたがるタイプだった。
恋人と別れたばかりなのだと自分から語り出し、私は終始聞き役に徹した。自嘲気味な笑みは次第に低い声に埋もれて消え、最後には吹っきれたみたいに笑って、男は私に感謝を述べた。
分からない。でも、今夜があったからこそ前に進めるのなら、それはそれでいいことだと思う。
それ以上の関心はやはり持てなかった。別れ際に寂しげに笑いかけられ、私はそれごと遮るように緩々と手を振った。この男とも、二度目はないほうがいいだろうなとぼんやり思う。
……過去に、たった一度きり、先生に誘われたことがある。
高校を卒業した直後だった。両親が望む高ランクの大学への進学を諦め、私は実家を離れて隣県の短大に進んだ。その進路を後押ししてくれたのも先生だった。
当時の私は、学校の教師たち、さらには親に寄せるそれよりも遥かに強い尊敬を、家庭教師だった先生に抱いていたのだと思う。週に数回、二時間にも満たない時間のみ顔を合わせる先生を、私は男性としてではなく人として慕い、全幅の信頼を寄せていた。
あの頃の私はすでに夜遊びの蜜の味を知っていて、けれど私は先生の誘いを断った。応じていい気も確かにしたのに、なんとなく違う気がしてならなかった。
今なら分かる。私は、私を性的な対象として捉えてしまった先生にがっかりしたのだ。尊敬も信頼もしていた先生を、単に遊びを楽しむだけの対象として捉えることは、私にはどうしてもできなかった。
先生に恋をしていると自覚したのは、そのときだ。
以来、私はかれこれ五年近く先生に片思いを続けている。先生にとっての終わりが、私にとっての始まりだった。すれ違い方が怖いくらいにドラマチックで、ゾクゾクしてしまう。
あの日の先生は、私を誘っただけで、好きだとも付き合ってほしいとも言わなかった。
もしあのときに好きだと言われていたなら、今の私たちの関係はもっと変わっていただろうか。つい甘い期待を寄せたくなるが、私のこの生き方を考えるなら、先生の心身を限界まで疲弊させて苦しめた挙句に別れていたのではと思う。
だから、今も昔も、先生の本心なんて分からないままでいい。先生に恋をしていて、こんなにも焦がれている。今のこの距離感を、私はこよなく愛している。
先生は今も家庭教師を続けている。週に一、二度、夕方や夜に出かけていくときは、大抵そちらの仕事が入っている日だ。
私が高校生だった当時、彼はアルバイトとして家庭教師をしていた。今は本業がある分、昔よりもそちらの仕事の比重は少なくなっていると思う。
先生の私生活には立ち入らないから、詳しいことは分からない。私が勝手に予想をしているだけであり、無論、本人にわざわざ確認を取るつもりも毛頭ない。
「ただいま」
午後八時。今日の帰宅は、いつもより早めになった。
キッチンか先生の自室か、どちらかに電気が点いているはずが今日は点いていないから、きっと出かけているのだろう。だが。
家庭教師の仕事で出かけているとしても、それ以外の理由で出かけているとしても、私にはそれを追及する権利も責める権利も一切ない。私の自由を侵さない先生の自由を私が侵すことは、許されるべきではない。
「……ただいま、先生」
無人だと分かっていて呟いた声は、ひんやりした玄関に思った以上に物悲しく響いてしまって、でも別にそれで良かった。
私は、私がしたいようにするし、言いたいことを言いたいように言う。
私のことは私が決める。当然の話なのに、なかなかうまくいかないこの世の中で、先生はそれを遮らない。それどころか尊重してくれている節すらある。
今の私が帰る場所は――帰りたいと思う場所は、先生の隣だけだ。
*
私が先生の自宅に押し入ったのは、二年前。
短大を卒業して以来勤めていた職場を辞め、行く先がなくて、それで先生のところに行こうと思い至ったのが始まりだった。
実家への出戻りは避けたかった。両親が望む大学へ進学できなかった私に、ただでさえ彼らの視線は厳しく、わざわざまたそれに刺されに自分から向かう気は起きなかった。
高校時代に訪問したことがあったから、先生の自宅がどこかは知っていた。半ば引き寄せられるようにして足を運んだ。彼の自宅は持ち家のはずだから、きっといると踏んでいた。
住む場所がないと延々頼み込み続けた結果、先生は今にも吐きそうな顔をしながら、二時間後にとうとう折れた。
自分がそんな顔をさせたのになんだかかわいそうになって、これではまるで悪徳商法の営業みたいだと薄く反省して、それでも私は先生の家と先生に固執した。
先生は、空いている部屋をひと部屋、私に充てがってくれた。今もそこが私の居室だ。
家具家電完備の社員寮を出た私には、自分の持ち物なんてほとんどなくて、必要な物をその都度買い足すツギハギじみた生活を繰り返して生きている。実りはあまり感じないけれど、それなりに楽しい。
先生の家族について、私は詳しい事情を知らない。
滅多に足を踏み入れない床の間に大きな仏壇があり、そこに三十代ほどの男性と女性の写真がそれぞれ置かれていることは知っている。それ自体は高校時代に知った。
当時高校生だった私には詳細などとても訊けず、結局、それは現在まで継続してしまっている。私は先生にとって特別な人間でもなんでもないし、この先もなににもなれないだろうから、軽率にその話題に踏み込むことは避けたかった。
私のプライベートに、先生は一切干渉しない。私の悪癖を知った後に、『男を連れ込むのだけは勘弁してくれ』と言われた程度だ。
それはすぐに了承した。私は先生に恋をしているのであって、火遊びを見せつけるような真似をするつもりはさらさらない。
日中には短期のアルバイトや日雇いの仕事に従事して、遊び歩かない夜にはパソコンでちょっとした小遣い稼ぎを探して試したり、スマートフォンでゲームをしたり……私の二年はそうやって過ぎた。
前職を辞める二ヶ月ほど前から不眠に悩まされていたから、適当に調べてヒットした心療内科に通って、また探して、通い直してと、そんなことを繰り返して四軒目のクリニックに落ち着いた。飛び抜けて名医だとは思わないが、不思議と会話がスムーズで楽しくさえ感じる初老の医師のところに、今も三ヶ月に一度のペースで通院している。
それは先生も知っている。
夜遊びに出かけない夜は、薬を飲まないと眠れない日が多いということも、多分。
先生はフリーのシステムエンジニアだ。まれに文章の校正が必要になるらしく、家に置いてもらってからはその仕事を請け負うこともあった。前職がそういう業種だったから、それなりに役に立てているとは思う。
律儀な先生は、きちんと報酬を払ってくれる。私は私で、多くはないにしろ、家賃代わりに月々決まった金額を先生に渡す。だから〝よく言えばルームシェア〟というわけだ。
自分の思考回路も貞操観念も、大いに狂っていることは承知の上だ。
けれど、それを非難していいのはこの世で先生だけ。二度と顔も見たくなかっただろう女に自宅へ押しかけられた挙句、同居までする羽目に陥っている、どこまでも真面目で哀れな私の片思い相手だけだ。
……先生と肌を重ねる夢を、たまに見る。
先生の手は優しくて気遣いもあって、時には優しく、時には激しく私を蕩かす。夢の私は先生との行為を肌でなぞり、脳内でもう一度なぞり、それを幾度も繰り返しては愉悦に浸る。
『絢』
先生が私の名前を呼ぶのは、夢でだけだ。
愛しい人を呼ぶような声を全身で受け取る私は、夢という閉じられた空間の中で、幸せそうに先生の首に腕を巻きつけて愛を乞う。
けれど、これ以上の幸せはきっとない、と思いを噛み締めた瞬間、私は夢の私から抜け出してしまう。
いつもそうだ。愛を注がれる身体から幽霊みたいにふらりと抜け出て、愛し合うふたりを――先生と自分を高い位置から俯瞰して、そして夢は終わりを告げる。
目が覚めたとき、大抵私は泣いている。
痛い。腹の奥が。頭が。胸が。心が。管を巡る血液に寂しさが溶け込んで、それは瞬く間に全身へ巡って、私の身体ごと寂しい生き物に置き換えてしまう。
先生は、私の理想であり、すべてだ。
彼はおそらく二度と私を誘わない。そんな先生を絶対的な理想として祀り上げ、純粋な恋を夢見がちになぞっている自分が好きだ。
酔っているというのは、多分こういうこと。
つまるところ、私は私しか愛せない。
*
その日、私は久々に派手な失敗をした。
条件に合致しない男を選んでしまったのだ。
最初の夜に丁寧に触れてくれたから、二度目があってもいいかと軽い気持ちで誘った。
もし今回も満足できたら、また前みたいにセフレを作ってもいいかなと呑気に考えて、しかし状況は事後に一変した。
君を愛している。
いずれは結婚したいとも思っている。
もう少し慎ましく生活してほしい。
これからは他の男とは会わないでくれ。
……なんの呪詛だよと頭を抱えた。
過去の経験上、最も厄介なタイプだった。私の意向になどまるで耳を貸さない、自分こそが正しいと思い込んでいる、私にとって天敵とも呼べる種類の男。
脱ぎ散らかした服を無言で手に取ると、男は眉をひそめた。断る、と手短に告げて客室を出ようとした途端、痛むほどきつく腕を掴まれた。
どうして、と問う声が頭の中でぐらぐらと揺れる。
こっちの台詞だ。なぜ分からない。そんなエゴまみれの口説き方で、どうして相手が素直に応じると思えてしまうのか。
『男のほうから次を誘うのはルール違反よ』
毅然とそう言い放ってやった。
まっすぐ見据えた男の両目に、悲哀ではなく憤怒が広がるさまを見て取った。本気で愛を告白した自分を、他の男と同列に配置された――それが大いに癇に障ったらしく、間を置かずに拳が飛んできた。
腹を殴られ、睨みつけたら今度は頬を打たれた。顔への暴力は避ける男が多い中で……最悪。大ハズレもいいところだ。
明らかに私を下に見ている。
やがては暴力すらも愛情表現のひとつだと言い出しかねない、絵に描いたような屑。
バッグを振り回し、膝に蹴りを入れ、男が怯んだ隙を突いて客室を飛び出した。
無我夢中だった。乱れに乱れた自分の髪が頬を強く打っても、気に懸けてなどいられなかった。
通報することには頭が回らなかった。それよりも二度と関わりたくなかった。
よくも、と呪いじみた思考ばかりが頭を占拠し、私は、情交と暴力のせいで動きが鈍る身体を引きずりながら外に出た。
腹も頬も、殴られた場所がどくどくと痛みに疼く。今の自分がどんな顔をしているのかなんて、考えたくもなかった。
ある程度歩いてからタクシーを捕まえた。歩いて帰る気にも、他の場所に泊まる気にもなれなかった。
男が、タクシーを捕まえやすい駅近くのホテルを選んでいたことにのみ、薄く感謝を覚える。それと同時に、肌が濡れるほどの大量の汗が噴き出してきた。
タクシーの中で、屑男の連絡先を削除する。
ハズレの男を引いたのは、別に初めてではない。むしろ何度も引いてきた。そのたび今みたいに疲弊して、気まで滅入らせて、それでも私がこの生き方を変えないのはどうしてなのかとふと思う。
信号の赤が窓を照らす。燃えているようにも見えるそこへ、そっと指を這わせた。
外気と内気を隔てる窓。私を外界から切り離して帰るべき場所に運んでくれる、タクシーという箱。
大丈夫。
私は、まだ、大丈夫だ。
「……次の信号を右です」
火遊びを楽しんでいる気になっている。結局は私も、単にそれだけなのかもしれなかった。
身体を差し出したところで、相手に愛してもらえるわけではない。愛せるわけでももちろんない。そんなことは分かっていて、その上で、私は自分の意志でそうしたくてそうしている。
それなのに。
「こちらは?」
「まっすぐです、次の信号を過ぎたら見える狭い角を右に」
頬骨の辺りが熱い。痛みよりも熱のほうが気に懸かる。
タクシーの運転手は、そろそろ腫れてきているだろう私の顔面についてなにも言わない。夜闇のせいで見えていないのかもしれないが、配慮だとしたらありがたいなと思う。
ときおり、わけが分からなくなるくらいぎりぎりと胸の奥が軋む。
自分は取り返しのつかない間違いを犯してはいないかと不安になって、柄にもなく震えて、怖くなる。
こういう遊びを楽しめる期間なんて、人生のごく一部だ。
先生は『年齢は関係ない』と言ったけれど、将来皺まみれの老婆になった私を抱きたがる男は皆無に違いない。その未来は誰もに等しく訪れる。私も、私が消費している、あるいは私を消費している男たちも同じだ。例外はひとりとしていない。
いつまで続ける。楽しいと思えているうちは続ける、それが私の答えだ。そのつもりで生きている。他人にどうこう言われる筋合いは一切ない。
ああ、不愉快だ。
お前のためだと言いながら、ありのままの私を殺しにかかる、つまらない生き物。
恋しい人の元に帰ろうと思う。
今の私の足は、ちゃんとここへ帰り着くようにできている。
結局、私が帰りたいと思う場所はここだけだ。帰巣本能じみていると思った途端、私はそんな自分のことを声をあげて笑い飛ばしてやりたくなった。
先生に迷惑をかけ続ける私。
先生に寄生して、困らせて、そればかりの私。
……なにが帰巣本能だ。
先生にとっては、私もきっと、屑でしかない。
「ただいま。先生」
いつも通り返事はなかった。
けれど、いつも通り換気扇の下で煙草を吸っていた先生は、私を――おそらくは頬の痕を見るなり露骨に固まった。
「……誰にやられた」
煙草の火をぐしゃぐしゃに揉み消した直後、先生は、引き戸の手前に立ち尽くす私の傍へ足早に歩み寄ってきた。
低い声だと思う。それに、普段よりもずっと怖い声だとも。
分かっている癖にそういうことを訊く、嫌な男。私が好きな男。私が好きだと思い込んでいるだけなのかもしれない、私が拒んだ、私を抱かない、私を抱けない、男。
「ねぇ先生、抱いてもいいよ。今日は特別」
とびきり媚びた声で囁き、手を伸ばして頬に触れる。ちょうど今の私が腫れさせている辺りだ。
先生の顔は、髭が半端に伸びてザリザリしていた。初めて触れる先生の肌。愛しい人の形。その感触を、指先と胸の奥に焼きつける。
刻み込む。忘れることなんて、絶対にないように。
「……放せ」
「嫌よ」
「っ、放せ。いいから早く冷やし……」
「嫌」
先生は、私の接触を頑なに拒み続けた。触れた手を外されてはまた触れさせる、そんなことを数回繰り返した後、埒が明かないと判断した私は先生の腕を強引に引っ張った。
猫背をさらに丸め、先生は畳の上に膝をつく。大いにバランスを崩した彼の隙を縫い、私は脚を使って先生の腰を封じ込め、馬乗りになった。間を置かずに腕を押さえて動きを遮ると、先生はついに抵抗をやめた。
「顔、汚いから?」
「は?」
「腫れてて気持ち悪いから嫌なのかなって思って」
疑問を口に乗せると、眼下の先生はうんざりした顔で私を眺めた。緩く首を横に振った後、先生はまたも私の拘束から抜け出そうと腰を引く。
この状況で拒まれること自体が初めてだった。傷ついた気分になる。そこまで嫌かと、喚き散らしたくなる。
「いいじゃん、別に病気とか持ってないよ。誰が相手でも絶対ゴム使わせてるし」
「そういうことを言ってるんじゃな……」
「っ、じゃあどういうこと言ってんだよッ!!」
耐えられたのはわずか数秒だった。
この家に来てから深夜に大声をあげたことがなかったからか、先生は私を見つめたきり固まってしまっている。その顔が余計に私を滅入らせる。
今この空間で、私だけが、どこまでも醜かった。
「汚い女だって思ってんでしょ? 誰にでも脚開いて、誰とでも、……そうだよそういう女なの!! 私はこれでいいの、これがいいんだよッ!!」
声を荒らげて、叫んで、責めて、泣いて……醜い女。醜い、人間。
ぼたぼたと涙が溢れ、私は自分の目元を雑に拭った。そのときに零れ落ちたひと粒が先生の頬を濡らし、思わず指を伸ばす。
汚れてしまう。汚してしまう。そんなことがあってはならないのに。
震える指が先生の頬を掠めた瞬間、私のそれは、彼の大きな手に掴み取られた。
「……〝変われ〟なんて誰も言ってない」
先生の声は、もう怒っている感じではなかった。普段より穏やかにさえ聞こえた。
私の指を包む先生の手は、思っていたよりも大きくてあたたかい。初めて触れた、触れられた、そう理解が及んだ途端に胸が高鳴り始める。
数時間前まで他の男に脚を開き、同じ相手にひどい侮辱と暴力を浴びせられ、ぼろぼろになって帰宅したはずの私は、その不快感がまったく癒えていないというのに、今こうやって先生に、恋をしている相手に、甘やかに胸をときめかせている――反吐が出る。
空いているほうの手で、先生は私の首を引き寄せ、後頭部に手を添えてきた。
唇と唇が重なり合う。夢で幾度も繰り返したキスとは、似ているようで似ていなかった。
柔らかな唇を堪能するため、男に慣れきった私の身体は勝手にキスを深めたがって、そんな自分に辟易して、だが。
「今のままでいい。お前は自分がしたいように生きてていいんだ。ただ」
「……え?」
「俺もしたいようにするよ。今度は」
……今度、という言い方が引っかかった。直後に、それが五年前の私の拒絶を示しているのだと思い至る。
ゆっくりと眼鏡を外し、押し倒された姿勢のままでそれを傍の棚に置いた先生は、感情の宿らない目で私に向き直る。
ぞくりとした。その目にこそ奪われる。
冷たい、という言葉は当てはまらない、起伏のない、平らな、プラスでもマイナスでもない、ちょうど、ゼロ。
先生のそういうところが堪らなく好きだ。私を抱きたいがために媚びることが、絶対にない。
「五年前。覚えてるか」
「……あ……」
「あれから、頭の中で何度お前を犯したと思ってる」
まさに五年前のできごとを反芻していた分、一瞬反応が遅れた。
無関心の視線を私に突き刺したきり、先生は私の頬をなぞる。視線とは裏腹に、指先は優しかった。ずきりと急に痛覚が走り、それが例の屑男に殴られた場所だと一拍置いてから気づく。
頭の中で、私を犯した。何度も。誰が……先生が?
瞬く間に頭の芯が焼け焦げ、震える息を落とすしかできなくなる。吐き出した私の息ごと閉じ込めるように、先生は再び私の唇を奪った。
『したいようにするよ』
先生は、私をどうしたいんだろう。
爆発的に募っていく期待と、それと同じ勢いで音を増していく警鐘。真逆のふたつに突如襲われた私の身体は、耳は、先生の声を受け取るだけの単なる道具に成り果てる。胸ばかりがどくどくと不穏な軋みを上げ、ひどく息苦しかった。
「お前がここに来てからもだ。何回かは、犯した後に殺す想像だってした」
――先生は、私を、どうしたいんだろう。
ひゅ、と掠れた音が喉を通る。
薄っぺらのチュニックを静かにまくり上げる先生は、私の腹部を見たそのときになって、初めて無関心以外の表情を覗かせた。
彼の視線が向かう先に、私も自然と視線を落とす。腹の痣。さっきよりもやや色を濃くした気味の悪いその痕を、先生は腫れ物に触れるような仕種で撫でつけた。
「……殺してやりたい」
……誰を? こうした男を? それとも、私を、だろうか。
優しい触れ方と物騒な喋り方、どちらが先生の本音なのか、判別がつかなくなる。同時に、判別をつける必要などあるのかとも思う。
首に緩く指をかけられ、そっちか、と諦念が過ぎった。
もうそれでいい気がした。先生に恋をしていると思っているままの、私の愛する私がまだ息を繋げられているうちに先生の手で終わらせてもらえるなら、それはむしろ幸せなことなのではないかと。
……結局、先生は私の首を絞めもへし折りもしなかった。
無関心の視線にほんの少しの寂しさを混ぜ込んで、先生は私から服を剥ぎ取っていく。何度も犯す想像をしたというわりに、こちらが心配になってくるほどたどたどしい仕種だった。
先生との情交は、まるで夢のようだった。
文字通り〝夢のよう〟。幾度も夜に夢見たそれを、一秒一秒なぞりながら進められているみたいな、腹の奥と頭と心がぎりぎりと痛み出す、そういう。
ただ、先生の指は夢より遥かに拙かった。それが私を余計に狂わせる。そして、先生が私の名前を呼ぶことは、夢とは違って一度たりともなかった。
飛び抜けて整った顔をしているわけではない、どこにでもいそうな冴えない眼鏡男。せっかく平均より高そうなのに、猫背のせいでいろいろ台無しになっている背丈。癖っ毛なのか寝癖なのか区別がつきにくい、柔らかそうな髪。
ヘビースモーカーなのに、私の前では吸わない。古めかしい一軒家でフリーの仕事をしていて、ときおり家庭教師のアルバイトに出かける。恋人はいない。家族も……多分。
それが、私が知る彼のすべてだ。
そんなことしか知らない。そんなことしか伝えてもらえない。理由はどうあれ、二年も同じ屋根の下で暮らしているのに。こんなに好きなのに。
「せんせい」
――こんなにひどいことを、強いているのに。
あれほど物騒な言葉を口にしていた癖に、先生は私を、きっと彼にできる最大限の優しさをもって愛してくれたのだと思う。
居間の畳の上、脱いだ服を敷いただけ。他の男が相手だったら絶対に許していないその状況で、私は喜んで先生を受け入れた。
技巧に長けているとは言いがたい先生の愛し方に、私は声を張り上げながら酔い痴れた。
滅多に喘ぎを落とさない喉が早々に音を上げ、ひりひりと痛み出す。その痛みごと無視して、私は自分から脚を広げ、唇を寄せ、広い背に腕を回して、先生をかたどる肌とその内側のすべてを独占するために躍起になった。
殺してもいいよと二度も言いかけたのに、二度とも言えずじまいになった。
一度はキスで口を塞がれたから。もう一度は、先生を悲しませてしまう気がして自重したからだ。
涙を零しては、感じて喘いで引きつらせて、先生を締めつけて、愛したつもりになった。愛されたつもりにもなった。
先生は、終始私の傷を気にしていた。
触れないように、あるいは押し潰してしまわないように、わざと離れたり手のひらでそっと庇ったりする仕種を目にするたび、私は生理的な涙でごまかしながら別の理由による涙を落とした。
これで〝殺す〟なんてよく言えたものだと、笑ってしまいそうになる。
避妊具を隔てて吐き出された先生のそれは、私の身体を汚してはくれない。
私という人間ごと先生で塗り潰してほしいと心の底から願っていたのに、先生は私になにも与えてくれないし、残してもくれなかった。
*
***
*
先生に抱かれた私の身体は、抱かれる前となにも変わらない。けれど、純粋さだけでできあがっていた大切な恋は、ついに終わりを迎えてしまった。
淡く頬を染める少女のような純粋さを湛えていた私を、奔放に夜を駆け抜ける私と平等に生かしてくれていた穏やかな恋は、幸せの絶頂の中でその息を止めた。
……驚いた。
私は先生に、本当に、私の一部分を殺されてしまったのだ。
*
***
*
気がつくと、私は知らない部屋にいた。
居間の畳に転がっていたはずが、狭いベッドの中に収まっている。隣には目を閉じた先生がいた。一度も入ったことがない先生の私室にいるのだと、ようやく思い至る。
先生の呼吸は規則的だ。眠りの底にありつつも私の胸元にきつく腕を巻きつけていて、少しも離れそうにない。それでも、動けばその瞬間に起こしてしまう気がして、だから私は黙って朝を待つことに決めた。
眠れない夜は、永遠に終わらないのではと訝しくなってくるほどに長く、ゆっくりと時間をかけて明けていく。恋い焦がれる男の腕に抱かれながら、私は息を殺して朝の訪れを待った。
こんな幸せは、私にはどうしたって荷が重い。ぎりぎりの綱渡りをして生きてきた分、その生き方こそが私にとっての普通になってしまっている。
夢で良かった。夢だから良かったのだ。喰い喰われる以外の幸せは、私を私ではない他のなにかに置き換えてしまうだろう。
自室に無造作に投げてある睡眠剤の存在を、唐突に思い出す。
先月処方されたそれを、今回、私はまだひと粒も飲んでいなかった。眠れない日がそれほど続いてはおらず、節約する気でいたのだ。主治医に聞かれたら怒鳴られてしまいそうな杜撰なその手段を、ああ、そうしておいて良かったと心から思う。
空が白み始めた頃になっても、私の考えは変わらなかった。
男の腕から慎重に抜け出る。
起きてしまうならそれまでだと思って外した長い腕が、再び私を掻き抱くことはなかった。ドラマチックな展開は、そう簡単には起こらないようにできている。零れそうになった苦笑を、私は慌てて噛み殺した。
ベッドを下りる。安物と思しきシングルベッドは、規定外のふたり分の体重から解放され、微かな軋み声をあげて喜んだ。
自室に戻り、服を着替え、バッグに手を伸ばす。そこへ薬を薬袋ごとしのばせる。
この家の中で、というのは気が引けた。あれほど焦がれた人を、これ以上妙な形で苦しめる気にはなれなかった。
――早朝、午前五時前。
間もなく夏を迎えるとはいえ、この時期の朝晩はまだまだ肌寒い。夜明けの時間帯特有の冷ややかな空気を胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ頭が冴えた。
メイクを落とさず、しかもさんざん泣き喚いた昨晩の顔のままで外出してしまった。さぞかし薄気味悪くなっているに違いないと思ったけれど、笑う気にはなれなかった。
せっかくだから見晴らしのいい場所で、などと浮かれた思考が脳裏を過ぎったが、生憎、近くの交差点の歩道橋くらいしか思い浮かばなかった。
……歩道橋。歩む足がふと止まる。
薬以外にもいくらだって方法はあるのではと、だんだんそんな気がしてくる。しかしだからといって、先生に可愛がられたばかりのこの身体が、外側も内側もぐちゃぐちゃに潰れて終わるのは精神的につらかった。
なにも積極的に死にたいわけではない。だが、汚れに汚れたこの重い身体を引きずりながら息を繋げ続けるのはどうにも苦しい。
それに、私の一部を殺した先生に、私の本当の死を見せつけてやりたい気もして、私はやはり醜い人間なのだなと改めて実感する。
腹や顔に残る私の傷が先生の手によるものではないと証明できるのは、この世で私ひとりだ。昨晩から考えていることを本気で実行に移すつもりなら、できるだけ先生の傍を離れて遠くに行ってからでなければと思うのに、足の動きはどこまでも鈍かった。
私の世界は狭い。
仕事や遊びでさまざまな場所に出かけはするが、私という人間に根づいている世界は悲しいほどに限られていて、先生を主軸に生きる今の私にはこれ以上遠くになんて行けない。行けると無理に思い込んでも、思考とは裏腹に足が前進を拒んでしまう。
どうしようか。どうもしたくない。なにも考えたくない。なにもしたくない。
怠い足取りは、歩道橋の手前でとうとう止まってしまった。
情交の余韻が至るところに残る身体を引きずって歩く静かな街路は、いつにも増して私の神経を滅入らせた。昨晩嗄れるまで声を落とした喉が鈍く痛み、呼吸を繰り返すことすら億劫だ。
こんなにも息苦しい朝があるのか、と思う。この世のどこかにあることぐらいは漠然と想像がつくものの、この身をもってわざわざ体験したくはなかった。
強引に足を動かす。気怠い身体に、縦も横も幅が狭い上り階段は地味に堪える。歩道橋のちょうど中央、道路の中央線の真上まで歩みを進めると、視界はそれなりに晴れた。
眼下を走り抜けていく車は一台もない。静かだな、と間の抜けた思考を巡らせつつ、私はバッグの中に腕を突っ込んで薬袋を取り出した。飲み物がないなと気づいたが、今から階段を下りてコンビニへ向かう気にはさすがになれなかった。
ガサガサと袋を開け、包装シートからひと粒、またひと粒と白い錠剤を取り出しては、飴でも放り込むように口に入れていく。
ごろごろした錠剤を口内で雑に弄ぶと、人工物にふさわしい苦味が容赦なく舌を刺し、さらにはひりつく喉をいたぶる。途方に暮れてしまいそうだ。私は顔をしかめて、感傷的だな、と思う。
そう、感傷的だ。とても。
こういう行動が、他のなにより嫌いだったはずなのに。
ひと思いに飲み込む勇気が出てこない辺りも、いかにも自分らしくて、自分に酔っている感じもして、いっそこのまま橋下に飛び下りてしまいたくなるくらいに癪だ。
――さっさと飲み込んでしまえとばかりに舌を動かした、そのときだった。
しんと静まり返る早朝の空気を、微かな音が切り抜いた。
……人の足音だ。ばたばたと忙しなく走っているような音は、少しずつこちらへ近づいてきていて、私はつい辺りを見渡して、そして。
見つけてしまった。
さっきまで自分が歩いていた眼下の歩道に、その人影を。
「っ、絢ッ……!!」
びくりと肩が震え、唐突に我に返った。口の中に含んだそれがなんだったか、はなから分かっていた答えを改めて突きつけられる。
堪らず咳き込んだ。
下を向いた瞬間、わずかに溶け始めていた錠剤が口から飛び出し、慌てて口元を押さえる。手のひらに収まりきらなかった数粒は地面に落ち、狭い歩道橋の道に散らばる白いそれらが視界に入り、呆然とする。
足音は、いつしか階段を駆け上がる音に変わっていた。
近いな、とぼんやり思う。それはすでにすぐ傍まで迫っていて、それでも私は、この期に及んで振り返ってもいいものか迷って、そうこうしているうちに足音の主は私の隣に辿り着いてしまった。
強く腕を引かれ、視界が真っ黒に染まる。
次いで、背を締めつけるような感覚が走った。その正体には一拍置いてから気がついた。
昨晩、私を隅々まで愛した腕が、また私を掻き抱いている。
二度と味わうはずがなかった抱擁。頭を埋めさせられた胸元から聞こえてくる乱れた鼓動。不可思議としか言い表しようがない、感覚。
「……先生は」
苦味に痺れた口から零れたのは、予想以上に掠れた低い声だった。
一度開いてしまえば最後、それは私の意思など汲もうともせず勝手に動き続ける。声と一緒にぽろぽろと溢れ出した涙に、先生が気づかないわけは多分なかった。
結局、私は、私が欠けたり損ねられてしまったりすることを許せない人間なのだ。
私を私たらしめる要素を蔑ろにする者は、男だろうと女だろうと、あるいは意識的だろうとそうでなかろうと、あらゆる枠組みを超えて許せない。それなのに。
「ひどいよ」
それなのに、あなただけは。
こんなときになってから初めて名前を呼ぶなんて、あなたは、本当に卑怯だ。
ずれた眼鏡。よれたシャツの裾。昨日も見たジーンズ姿。寝癖だらけのぐちゃぐちゃの髪。半端に伸びた髭。
あなたを形づくる要素は――なんの変哲もないように見える気さえするそれらは、私にとってはそのどれもが特別であり、すべてでもある。
『絢』
疾走のせいで乱れたあなたの呼吸は、なかなか落ち着きを取り戻さない。長年の喫煙の代償は服にもあなたにもすっかり染みついて、容易には抜けなくなったのだろうそれを、私は臓腑の底まで深く深く吸い込んだ。
途端に噎せて咳き込んで、先生は反射的に私から身を引こうとして、それでも私は先生から離れられない。縋る腕を外せなかった。
今この手を放したら、今度こそ、私はあなたのなににもなれなくなってしまう。
『あや』
あなたは、私のどこまでを理解してくれるだろう。
一方的に期待を寄せるのは間違いだと思う。けれどあなたは、間違いを犯してもいいと私に思わせるほどに根深く、私の中に息づいてしまっている。
あなたに淡い恋心を抱いていた私を無惨に殺したあなただけが、私をこんなふうにできる。元の私とは異なる、新たななにかに置き換えてしまえる。
それが正しいことかどうかなんていう話は、今は関係ない。
「飲んだのか」
「……ううん。全部吐いちゃった」
「口を見せろ」
「残ってないよ、もう」
「見せろ」
先生の命令じみた口調は新鮮だ。
私は黙って口を開き、口内を丹念に泳いでは薬物の残骸を探す先生の指を、彼の気が済むまで受け入れ続けた。
良かった、とは、先生は言わなかった。
ただ、私を抱き寄せて、手を強く引いて……ああ、あなたのそういうところが、私は。
「帰るぞ」
「先生。私、」
「戻ってから聞く」
帰るという言い方が、わけが分からないくらいに私の胸を締めつける。
私を連れてあの家に帰るために、あなたは私を追いかけて、息を切らせてまで走って……馬鹿みたいだ。
そうやって、あなたは私の中に譲れない場所をまたひとつ形づくる。
私に、あなた以外を選べなくしてしまう。
「……うん」
あなたは私になにも棄てさせない。これからも、棄てろと強いることはないのだろう。
だとしても、他のなにを――例えば、あれほど他人からの干渉や侵害を厭って貫いてきた己の生き方を棄ててでも、私はあなたの傍にありたいと願ってしまうのだ。
きっと、この先も、ずっと。
〈了〉
ダブルスタンダード 夏越リイユ|鞠坂小鞠 @komarisaka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます