余命の計算式

 もう半世紀も前の話だけど、京都大学数学科の先生の話を聞いたことがある。ほんの雑談なのだが、数学の教授ともなると難しい話しばかりだと思うだろうが、これが実に面白い内容だった。


 教授室の電話番号が6745、これは正確では無いのだが、人に番号を聞かれると、「6×7=45」と言う間違った九九の計算で伝えたそうだ。頭の中で計算する時には、九九の計算などしなくても職業柄、瞬時に正しい答えが出てくるので問題ない。ところが教室で講義中に質問され、話をしたり板書中の計算になるとの計算式が浮かんでしまい、気を付けていないと間違えてしまうそうだ。


 その先生の退官後しばらくして、他の国立大数学科の教授に就任し、遠くに離れるので引っ越しの前に挨拶に行った時、自らの寿命の計算式を作ってみたと、面白い計算式を見せられた。。自分自身の衰えを幾つかに分け、それらに個々の計算式を作り、それらの結果を統合すると僕の寿命はこの辺りで終わるようだ、とおっしゃったという。果たしてその後、冗談として聞いた期日に、みごとに計算結果の通りに亡くなった。人の死などは計算できないと思っていたので、先生の暇つぶしの話しと思い、その計算式を詳しく聞いてなかった。


 一周忌で御挨拶に行くと、奥様が先に亡くなられてからの一人暮らしで、書斎の中は往時のままに乱雑であった。許可を得て書斎の中を探したが分からず、離れて暮らしていた息子さん夫婦も寿命の計算式は聞いたことがなく、どこに有るのか分からないという。先生のメモが沢山出てきたが、余命の計算式では無く、教室内での出来事や生徒一人一人への愛情に満ちた思いが書かれてあり、涙が止まらなかったそうだ。


 前置きが長くなったが、そろそろ後期高齢者の仲間入りをする頃になると、とつぜん物事に対する見方や考え方が変化するようだ。もう十年にもなる一人暮らしにも慣れ、世に言う独居老人も良いものだと考えられるようになっていた。わずかな年金をやりくりして、観光地化されていないところへの旅や秘湯といわれている温泉地、安宿での美人女将や仲居さんの給仕で聞く土地の話しなど、高齢期になって知る楽しみである。日常では一日二食の食事を作り、暇な時間は放送大学で学び、時には川端康成の小説を読んで妄想の世界に遊ぶ。これらの遊び事は、いつまでも未来が続くと何処かで思い込んでいる、だから楽しめて居た事に気付く。実は命には区切りが来る事を、ある日とつぜん実感できるようになる。


 30歳を過ぎると、自ずと衰えは感じる事も会った。子供達が独立し、妻が亡くなり、老いてからの一人暮らしはけっこう厳しいモノが在る。生活の仕方という厳しさよりも、生きてることの虚しさを感じることが増えた。なのに不思議なことに、ある時期から視点が変わり、今までの煩いはいつまでも生き続けると、何処かで思い込んでいたことに気付く。未来を見る視点から、死の時点から今を見る視点へと変わる。


 死の時点からの視点は、何かを行うにも、あるいは何もせずに日がな一日ボーッと過ごすのも、善き哉善き哉と全てを許せてしまう。何よりも不思議な事は、一日ごとの体力の変化や機能としての頭の変化も自覚できる様になる。そして意外と自分自身の余命が計算できるのではと、くだんの大むかしの話しを思い出した。


 数日外にも出ないと、面白いほど歩きにくくなる。人と話す機会が減り、次第に発話力とでも言うのか、話そうとしても単語が思い浮かばなくなる。話をしていても、それに応じることは思い付いても、それに見合う単語が出なくなる。物を置けば忘れて思い出せなくなる。記憶力も自覚して日々落ちてくる。新しいカタカナ語などは、原語のスペルや発音や意味使い方を調べたのに、次に出ると意味を思い出せない。


 余命の計算が出来るのではないかと思えるのは、身体の衰えというか、各部の筋肉の力が無くなり、痛みむ所が増えその痛みが少しずつ強くなる。医者に掛かれ少しは楽になるのだろうが、どの様な治療をしても完治はしないだろうし、いずれは最期を迎えるのは必定ならば、ムダな努力はしたくない。


 下らないことに時間を費やすよりも、今は会話力の変化、語彙や発音などの変化を記録したい。記憶違いや物忘れの頻度も面白いだろう。各部の筋肉の衰えや、内臓の変化、痛みの発生と変化もいい。これらを数値化して、マイナスの累乗で表せれば、もしかしらなどと思うのだが、肝心の計算力が無い。今は変化の度合いから我慢の限界を出せないものかと思っている。


 というのも、既に余命を諦めているのかもしれない。いずれ来たるべき時期は来る。それまで自分自身を楽しんでみるのは、最期の遊びかもしれない。数学の博士も暇にまかせて、自分自身で遊んでみたのだろう。

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