毎朝の散歩道

 人は歩かないで居ると、歩けなく様だ。歩かないで机の前にばかり居ると、フクラハギが膨らんで固くなり、足首が太くなり、足の甲が膨らんで足首の動きが悪くなり、歩きにくくなる。ムリに歩いていると、むかし診断されたアキレス筋周囲炎というのか、カカトに小さな針が数本刺さったような痛みが出てくる。ほぼ二日間も歩かないと、その状態が酷くなり、要はただの膝から下の浮腫なのだが、早歩きも出来なくなり、杖を片手に老人歩きになる。


 74歳とも成れば確かに老人なのだが、橋の上ですれ違う可愛い自転車の女子高生や、早歩きをしてる中年の美熟女にも会うので、ヨロヨロ歩きや杖を頼りの前屈みも出来ない。杖というのも老人ぽい表現で良くない。ウオーキングステッキというもので、これなら背筋を伸ばして、林の中の小径をユッタリと歩く姿は紳士的に見える、と思う。


 新年度に入る3月頃から、ここ数年の密かな楽しみであった、橋の上で会う女子高生との朝の挨拶を交わすことが出来なくなった。それも大きな散歩の動機付けで有ったのに、今さらムリして歩いて何が楽しいのかと、外に出ること自体が面倒になってきた。朝の散歩も、遅くても5時には出ないと、途中の汗で酷いことになる。女子高生に会うために7時頃に出ていたが、会えなくなってから、空気の爽やかなうちに出るようにしてる。早朝の散歩になり、新たなもう一人の美熟女と会うことが出来るようになった。スポーツをしていたのか、背が高く背筋が伸びて、腰のクビレと全体的に肉感的な身体つきは遠目にも美しい。肘を曲げての早歩きでは、すれ違いも早すぎて、会釈だけで声を掛けての挨拶もろくに出来ないのが残念だ。


 川幅の広い渡良瀬川の土手の下に作られた運動公園。橋の川上には広い野球場やサッカーコート、橋の下の広い駐車場を挟んで、川下はかなり広く老人用の柴コートが用意されている。老人会からも誘われたが、どうも老人クサくてこの手のグループには馴染めない。一度グループに入ってしまうと、もう楽しくイチゴパフェを食べながらのおしゃべりも出来なくなりそうで恐い。



 野球場から川上方向には手入れの少ない、荒れた趣のある散歩道が出来てる。大きなニセアカシアの木々に囲まれて、狭い道の歩く先にキジの夫婦が飛び出してきて驚かせられることもある。キジもいかにも上州生まれらしく、オスは叫びながら一目散に逃げていくが、雌のほうは振り返りながらこちらの様子を見て居る。たとえ話にある「キジも鳴かずは撃たれまい」という意味が、この夫婦に遇うたびに、なるほどと合点がいく。「グェー、キュェー」などとスットンキョな叫び声を上げて、草むらに逃げ込みでもなく、ただ真っ直ぐ前を走られると、猟師なら良い獲物と思えるだろう。逆に雌のように、振り返り様子を伺う真剣な目つきを見ると、声援を送りたくなってくる。夫婦に成るなら、キジよりも雁のほうが良いようだ。



 問世間情為何物 元好問

 問世間 情為何物 直教生死相許

 天南地北雙飛客 老翅幾回寒暑

 歡樂趣 離別苦 就中更有痴兒女

 君應有語 渺萬裡層雲 千山暮雪 隻影向誰去


 世間に問う、愛とはいったい何か、生死を共にするとはどういうことなのか。

 南へ飛び北へ帰るつがいの雁は、幾度も冬の寒さと夏の暑さを共に過ごしてきた。

 楽しい時を過ごしたが、別離の苦しみを味わい、それは人間の男女の愛に劣ることはない。

 残された雁はこう訴えたいのだろう、果てしなく広がる雲の上、雪に覆われた山々が連なり、空が暗くなる中、ただ独り誰の元へ飛んで行けば良いのだろうか、と。


 金王朝に使えた元好問が、16歳の頃に登用試験を受けるために都に向かう途中に、雁を持った猟師と会う。猟師が言うには、つがいの雁の一羽を射たら、もう一羽が泣いて空を舞った後に、地面に自らの身を打ち付け死んだという。元好問はその話を聞いて二羽の雁を買い、汾水のほとりに二羽の亡骸を埋葬して、この詩を書いたそうだ。愛し合う二人の身体は消えても、その愛は死ぬことはなく永遠に生き続ける。と結んでいる。




 川下のほうには、手入れの行き届いた森がある。夏に鬱蒼と茂る木々の下には日陰が出来て、早朝の風が気持ちよい。好きなのは晩秋の頃で、普段の舗装された道の、雑草の枯れた脇道が良い。まだ見たことも無い北ドイツの深い森、幼い子供の頃の小さな約束事、シュトルムの『みずうみ』の情景が浮かんでくる。残り時間を数えるようになると、何故か遠い昔の、何でも無かったような、記憶の奥底に沈んでいたモノが突然に目の前に現れる。幾つもの道の、チョットした選択ミスが今のこの姿へと繋がっていると思うと、『みずうみ』の中の、幼い少女エリザベートとラインハルト少年が、我が事のように重なって息苦しく悲しく迫ってくる。


 我が街は子どもの頃は13万人、高校の頃には16万人を超えていた。去年は全人口が10万人を切ったと、地方紙が伝えていた。毎日がお祭りのような本町通りも、今は人もまばらなシャッター街となった。ただ、ありがたいことに近くに、運動公園や自然豊かな散歩道が用意されている。毎朝の散歩も、毎回違う思い出が湧いてきては、楽しかった出来事や恥じ入ることなどが浮かんできてる。毎日毎日、過去の中に遊べるのもそれだけ多くの事を見聞きしてきたと言うことだろう。

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