慣れない暮らしは色々大変⑤

 自宅への帰り道を歩きながら、明晴あきはる信重のぶしげの言葉を思い返していた。


『相手への甘えやもしれぬな』

『甘え……ですか?』

『最初は、傍にいられれば良いと思うだろう。しかし、慣れてくれば、もっと、と先を望んでしまうのも人の常。一緒にいたい、だけではならぬのやもしれぬ』

『……やっぱり、初音と離れた方がいいんでしょうか』

『それは分からぬ。そういうことを読むのは、儂よりも陰陽師であるそなたの方が得意であろう』

 明晴が肩を落とすと、奇妙丸は「そなたは正直じゃな」と笑っていた。

『喋る前に、礼を言うのはどうじゃ』

『お礼?』

『感謝の気持ちが伝われば、そなたの言葉の意味も伝わりやすくなろう。朝餉の失敗を初音が悔やんでいたら、「作ってくれたことに感謝している」と言う。その後に同じ言葉を告げれば、冗談を言っていると相手も受け取るであろ?』

『別に冗談を言っているわけじゃないんですけど……本心ですし』

『まあ、試してみよ。存外それで人の機嫌は取れる』


 本当に、それでうまく行くのだろうか。

 帰りがけ、信重はせっかくだから、と「枕草子まくらのそうし」を持って行けと言ってくれた。しかし、書庫には枕草子がなかったので、またの機会となった。


***


 玄関を恐る恐る覗き込む。

「た、ただいまー……?」

 返事はない。まだ怒っているのだろうか。

「明晴。まずは『ありがとう』だぞ」

「分かってるよ」

 紅葉こうようを肩に乗せながら、初音はつねの部屋の前に行く。


「初音」


 戸の前で声をかけると、慌てたような足音が聞こえた。普段、楚々とした振る舞いを得意とする彼女らしからぬ行動だった。

「あ、明晴。おかえりなさい」

 やや驚いた顔をしている初音の胸には、明晴が贈った数珠がある。

(外されていなくてよかった)

 ひとまず明晴は、ほっと息を吐くのだった。

 居間に戻った2人は、互いに朝の件を詫び合った。

「……わたし、思い通りに家事ができなくて腹が立っていたんだと思う。今まで、仕事で間違ったことってほとんどなくて……だから、何でもできると驕っていたんだわ」

 確かに、城にいた時の初音はいつも手際よく動き回っていた。

 どんなに言っても武家の娘で、挫折というものをほとんど味わって来なかった初音にとって、市井しせいの暮らしは挫折の連続であった。


 食事を作るのが大変なこと。

 掃除は手間がかかること。

 それをするための道具を調達するのも容易ではないこと。


「これからは頑張るわ。いつまでも焦げた魚に生米では、明晴も大変でしょうし」

「あ、あのさっ」

 提案しようとした時、紅葉が明晴の頬を突っついた。


「信重の言葉、思い出せ」


 明晴は、はっとした。


『喋る前に、礼を言う』


 明晴は、初音をまっすぐに見つめた。

「俺、初音には感謝しているんだ」

「……本当に?」

「うん」

 これは本音だった。

 毎日、誰かが家にいるだけで嬉しい。帰った時に、「おかえりなさい」と言ってくれる人がいる。その温もりをはじめて知った。

「だからさ、提案なんだけど……無理に食事は作らなくても大丈夫なんだよ。市井の人は、みんなそうしてる」

「え? そうなの?」

 市井の女達は、大抵食事代わりに饅頭を買ったりしていることが多い。外で働いているため、家事をする暇がない者もいるからだ。

「岐阜は商いが発展しているから、物売りは多いんだ。饅頭とかなら、まだ保存も効くし、慣れるまではそういうのでもいいんじゃないかな。信長さま、俸禄は充分くださってるし」

「……明晴は、嫌じゃない?」

「厭じゃないよ。それより、初音と喧嘩になる方が悲しいよ」

 初音はやや考え込んだ。

「なるべく、善処はするわ」

 とりあえず、毎日米を炊くことだけして、おかずになりそうなものは市で買ってくる――ということになった。

「あと、掃除に関しては……俺の気が回らなかったよね」

「ううん。明晴は、陰陽師としての仕事があるんだもの。家事はわたしが――」

「でも、この家……広いじゃん」

「広いかしら……」

「広いよ」

 仙千代せんちよや初音にとっては、小屋のようなものかもしれない。しかし、明晴にとっては充分広い。掃除だって大変だろう。

「俺、つい気になることがあると、前のめりになるっていうか……周りが見えなくなるからさ」

「そうね、それはそう思うわ」

 初音が目を怒らせた。

「明晴ったら、夜遅くまで起きているんだもの。わたし、心配で仕方がないわ。体を壊すんじゃないか、って」

「……心配してくれていたんだ」

「当たり前よ。明晴はわたしにとって、家族のようなものなんだから」


 家族。


 明晴はその言葉にどきりとした。

 そんな存在が自分にできる日が来るなんて思わなかった。

「で、でも……陰陽師は、天気を読むのも仕事だから……」

「天気? それが夜更かしと関係あるの?」

「次の日の天気は、前の日の夕暮れや夜空を見ると、読めるんだよ」

 夕方の日の状態や、太陽の傾き加減。星の数。空の状態を観察することで、出陣の有無を決める手助けにもなる。

 それを聞いた初音は青くなった。

「ではわたし……明晴の邪魔をしてしまっていたのね……」

 落ち込む初音に、紅葉は「知らなかったんだから仕方ないよな」と慰めの言葉をかけた。

「そうだな……初音の場合は、明晴にイラっとしたら、『なぜそれをするのか』って聞いてやってくれないか」

「聞く?」

「そう。明晴は阿呆だけど、一応陰陽師だ。無意味なことはしない。だが、初音には意味が分からないこともあるだろう。お前達、相互理解が足りないからな。互いに『どうして?』と聞くようにしたら、少しは衝突も減るんじゃないか」

 なるほど、と明晴と初音は思い至った。


 ひとまず話し合いでは、


・食事の支度は無理をしない(基本的には米だけ焚いて、焼き魚などは昼間のうちに買ってくる)

・掃除も無理はしない(大変な時は明晴が式神を作る)

・明晴は初音の疑問にはきちんと答える


 ということが決まった。


 初音は、「米だけはうまく炊けるように頑張るわ」と意気込んでいる。

「お料理の方は、おいおい……。いつかは慣れると思うから、それまで待っていてね」

 明晴は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。

 きっとこの先も衝突するのだろう。その都度、互いに話し合って解決していけたらいい。

「春はあけぼの、だな」

 紅葉が言うと、初音も微笑んだ。

「あら、紅葉は博識ね。枕草子を知っているなんて」

「けっ。俺は昔、京にいたこともあるんだぞ。清少納言せいしょうなごん紫式部むらさきしきぶもよーく知ってる。なんなら、歴代の帝の顔だって見たことあるからな、俺」

 紅葉は一体いくつなんだろう――と明晴と初音は心の中で首を傾げた。


 春はあけぼの。

 夏は夜。

 秋は夕暮れ。

 冬はつとめて。


 大変なことは、大なり小なりこの先も存在し得る。それは明晴にとっても初音にとっても。

 しかし、その先には、必ず心が和むものもあるはずだった。


「そういえば初音、さっき明晴のこと、『家族』って言ってたな」

 紅葉が初音の肩に飛び乗る。初音は「重たいわ」と言いながら、紅葉を腕に抱き直した。

「そうね、言ったわ。だって――」

 初音は照れたように、紅葉の肉球を揉みながら笑った。


「だって、明晴は”弟”みたいなものだもの」


 明晴は思わずその場に突っ伏した。

「明晴、どうしたの?」

「……春はあけぼのには、まだまだ程遠いなぁって思って……」

 まずは身近な幸せになりたいが、それはまだまだ先の話らしかった。

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